日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.5 ロシア革命 / 4.5.5 社会主義経済と革命の評価

4.5.5 社会主義経済と革命の評価

1927~28年、戦争への不安や穀物調達価格の低さへの不満から、農民たちが穀物を隠匿して出荷を拒否したことから、穀物調達の危機が起こった。政府は「非常措置」をとって穀物を徴発したが、生産性向上と調達を政府制御下におくため、農業の集団化と機械化を強制的に行い、それに抵抗した多くの農民がシベリアなどに追放された。一方、工業は重工業を中心に高い目標を設定した5年計画を設定し、それを達成することにより先進国業国の仲間入りを果たしたものの、労働者の解放や平等化などは置き去りにされた。

図表4.18(再掲) ロシア革命

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(1) 穀物調達危機(1927~28年)註455-1

1927年秋の収穫は前年ほどではないにしろ十分な収穫があったが、農民は出荷を渋り、都市では食糧難になった。原因は、この年イギリスや中国との国交が断絶され※1、国民は戦争の危機を感じていたこと、前年の豊作で農民は十分な蓄えを持っており、政府調達機関に安い価格で販売する動機がなかったことである。

スターリンは、穀物隠匿の罪を規定した刑法を適用して強制的に徴発する「非常措置」を全国の党員に指示し、自らも大量貯蔵があるとみられていたシベリア西部に出向いて陣頭指揮をとった。退蔵の主犯とみなされたクラーク※2に対しては特別に厳しく、反抗する者は逮捕された。ウラルとシベリアでは、村ソヴィエトが村落の割り当てを決めて村落共同体の責任のもとに徴発する方法が採用され、これが後に全国に拡大された。

こうした「非常措置」は農民の反発を招かざるをえず、農民を支持母体とするプハーリンなど党内右派とスターリン派の間で激論が戦わされたが、プハーリンは敗北し1929年に失脚する。この議論を通して、生産性向上を含めて農業の集団化の必要性が認識されることになった。

※1 イギリスで1926年にゼネストが起き、ソ連はこれを資金援助しようとしたが、イギリス政府は反発して1927年5月にソ連との国交断絶を宣言した。中国では1927年夏に蒋介石の国民党と毛沢東の中国共産党の国共合作が破綻し、蒋介石がソ連に断交を通知した。

※2 クラークは、最上位の富裕な農民層をさす。強制徴発の対象になったのは、クラークだけでなくその下の中農層も対象になった。

(2) 農業の集団化と機械化(1930年~)註455-2

農業の規模を大きくして機械化することにより生産性を高めることは党内で早くから指摘されており、ソフホーズ※3(国営農場)やコルホーズ※4(集団農場)は革命後から設置されていたが、1927~28年の穀物調達危機がその普及を推進した。

1930年1月5日の党中央委員会で次のような決定がなされた。

集団化は1930年初めから開始され、クラークもしくはクラークと見なされた無数の農民が自分の土地から追い立てられ、流浪するか遠隔地に追放された。しかし、農民たちの強い反発、農業機械の不足、大規模化を指導する有識者の不足などが明らかになり、集団化は同年3月に一時中断された。同年秋から再開されたが、以前ほど農民からの抵抗をうけずに進められ、1932年に集団化率は61%、37年には93%となって集団化は完了した。

集団化が成功したかどうかは、正しい統計データが残っておらず判断できない。ただ、1932~34年には飢饉があり数百万人の犠牲者を出している。E.H.カーは、{ 穀物生産が集団化開始以前の水準に戻ったのは1930年代も末期のことであり、家畜数の減少は更に長い影響を及ぼした。}(E.H.カー「ロシア革命」、P232) と述べている。

{ 集団化は1917年に農民による地主所領の奪取で始まった土地革命を完了させるものであった。その最終段階は、農民の自発的な反乱によらず政府の指示で行われた。スターリンはそれを「上からの革命」と呼んだが、そこに「下から支持された」と付け加えたのは正しくなかった。}(E.H.カー「同上」,P231)

※3 ソフホーズは国営農場で、農民は給料をもらって働いた。

※4 コルホーズは、小規模な農民の土地を共同組合を作って統合し、共同で生産するもの。家畜も共同のものとされたので、農民は強く反発し屠殺して抵抗する者も多かった。

(3) 工業の生産性向上註455-3

工業力の強化は、一国社会主義実現のために欠かせない課題であった。それを実現するためには、①農民が都市と工場のために必要な食糧を適切な価格で供給すること、②設備投資が工業自身の利潤で賄えるようにすること、であった。①の農業の改革が上からの強制によって実現されたように、②の課題も同様に労働者への強制によって行われた。

生産性向上に欠かせない経営者・管理者・専門技術者などの人材は、ドイツやアメリカから雇うだけでなく、旧体制で活動していた人々をアメ(報酬)とムチ(処罰)により活用した。また、ほおっておけばロクに仕事をしない労働者 ――大酒飲み・長期欠勤・仮病などが跋扈していた―― に仕事をさせることも重要な課題であった。こちらは職業訓練、党の教義の教育、効率向上のための様々なキャンペーンなどが行われたが、ノルマやボーナスによる賃金体系、3交替制勤務なども採用された。

労働組合は形式上は国家から独立したものであったが、労働者の代表であるボリシェヴィキによって統制されている組合が、労働者国家の利益と政策に反対するなどということは考えられず、労働規律を維持し、ストライキや工場退出などを防止する責任を引き受けざるをえなかった。

(4) 第1次5カ年計画(1928年~32年)註455-4

計画経済の概念はマルクス主義思想に根づくものであったが、それは具体的に展開されたものではなかった。ボリシェヴィキは1921年に国家一般計画委員会(ゴスプラン)を設立し、計画経済について研究を始めた。

1925年12月の第14回党大会は、「経済的自給自足」の目標を明らかにしたが、これは「機械と設備を輸入する国から、機械と設備を生産する国へ」転換させることを意味していた。この「生産手段の生産」は第1次5カ年計画の重要な目標の一つであった。

ゴスプランは1926年3月に5カ年計画の第1次試案、27年3月に第2次案、同年10月に3次案を提示したが、いずれも目標は控えめであった。1928年に入るとスターリンと政治局が推進力となって計画を練り上げていく過程で目標値は高くなっていった。

1929年3月に完成し、4月末に承認された計画※5は、工業生産の成長目標を5年で2.3倍(生産手段の生産が2.5倍、消費財生産が2.2倍)とする挑戦的なものであった。目標値は期間中にさらに引き上げられ、たとえば銑鉄生産は当初目標1000万トンが1700万トンになった。

莫大な資金を投入し、国家全体が熱にうかされたように目標に向かって邁進した。その結果、生産手段の生産は2.6倍と目標を上回り、消費財生産は1.9倍となり、目標をほぼ達成した。1929年の世界大恐慌で西欧諸国が大不況にあえいでいるなか、ソ連は社会主義の優位性を世界に見せつけることに成功した。

※5 5か年計画は1929年4月に承認されたが、形式的には前年秋を起点としていた。

(5) 革命の評価註455-5

以下、E.H.カー「ロシア革命」より要約する。

マルクスの社会主義革命とは異なるロシアの革命

マルクスは、ブルジョア革命によって資本主義が成熟し、ブルジョア民主主義が確立されたあとに、社会主義革命が起こると想定していた。しかし、資本主義もブルジョア民主主義も未成熟だったロシアにおいて、レーニンはブルジョア革命としての2月革命に引き続いて、社会主義革命を一気に実現しようとした。そのためには西欧の先進資本主義国のプロレタリアートが立ち上がり、ロシアに欠けているものを補う必要があったが、期待は裏切られた。ロシア革命が導入した社会主義は、「経済的先進国の統一したプロレタリアートの革命の産物として考えられた社会主義」ではなかった。

農民や労働者の生活は改善したが…

工業化と技術の近代化は社会主義の重要な前提条件であり、ロシア革命はその成果物である「計画経済」によってそれを実現した。しかし、「成長する、訓練され、教育を受けた」プロレタリアートは育たず、「少数の献身的な革命的知識人の一団に率いられた規律ある集団」であるスターリンの党が独裁的な方法で統治していくことになった。

掲げた目標は社会主義だったが、それを達成するための手段は社会主義を否定するものだった。だからといって、社会主義の理想である労働者の抑圧からの解放と平等な社会の実現がまったく実現されなかったわけではない。内戦後、労働者も農民も生活水準は、帝政時代より少しは改善された。

しかし、第1次5か年計画が始まると、それらは再び引き下げられ、続く世界大戦では極めて大きな傷を負うことになった。戦後、体制は厳しく残酷だったが、工業化はさらに進展し、生活水準は革命の頃と較べて格段に良くなった。

世界を2分したロシア革命

ロシア革命の結果、世界は右と左に分極化した。さらに、一国社会主義というソ連中心のイデオロギーは、左翼内部の分極化を招いた。モスクワが考えた国際革命は、革命の先導者であるソ連が主導する「上からの革命」であり、先進諸国の労働者には受け入れがたいものであった。

一方、発展途上国においては、事情がちがった。レーニンは、資本家から労働者を解放することと、帝国主義者から途上国の諸民族を解放することを結合させた。これは途上国の共感をよび、中国の革命はその代表になった。また、ソ連が革命を経て自力で先進工業国の仲間入りをしたことは、植民地諸民族の庇護者にして指導者としての地位を獲得することにつながった。

{ 1917年のロシア革命は、それが自らに課した目標と、それが生み出した希望の実現にははるかに遠い。その記録は欠陥をはらみ、両義的である。しかし、それは、近代の他のいかなる歴史的事件よりももっと深く、もっと持続的な反響を世界中に及ぼしている源なのである。}(E.H.カー「ロシア革命」,P275)


4.5.5項の主要参考文献

4.5.5項の註釈

註455-1 穀物調達危機

E.H.カー「ロシア革命」,P177-P187 栗生沢「ロシアの歴史」,P131-P132 和田編「ロシア史」,P323-P325

{ 非常措置の適用は、つぎの2点で従来のシステムから大きく逸脱しており、そのためにこそ体制にとって重大な問題をはらんでいた。第1に、体制と農民とのそれまでの、いわば「ネップ的」相互関係から、「戦時共産主義」的な関係に立ち返ることにより、農民の大反乱と、経済全体の萎縮とを引き起こし政策だったのではないだろうか。第2に、古参党員集団のあいだの基本的な関係を変化させた。つまり、古参党員集団のあいだの秩序を、それまでのようなゆるい了解的な結びつきから、純然たる行政機構か、軍隊組織の指揮・命令系統のような関係へと転化させた。}(和田編「同上」,P324<要約>)

註455-2 農業の集団化と機械化

栗生沢「同上」,P132-P134 和田編「同上」,P325-P326

{ 30年初めに「集団化」は猛然と進められた。
抵抗する農民は「クラーク」として、何百万人も極北やシベリアに追放された。農業も多大な打撃を受け、収穫高は減少した。さらに畜産への打撃となると、破局的であった。飼料不足から多くの家畜が死んだ。1928年から33年のあいだに、牛や馬の頭数はほぼ半減し、羊と山羊は3分の1へと激減した。}(和田編「同上」,P326)

註455-3 工業の生産性向上

E.H.カー「同上」,P189-P197

註455-4 第1次5カ年計画

E.H.カー「同上」,P154-P155,P203-P210 栗生沢「同上」,P134-P135

この計画で開発された有名なものとして、ドニェプロストロイと呼ばれた大ダムと水力発電所がある(現在はウクライナ南部)。そのほかにソ連最初の自動車工場やトラクター工場も建設された。

註455-5 革命の評価

E.H.カー「同上」,P267-P275

{ 先進資本主義世界では、ロシア革命によって生みだされた発酵状態は主として破壊的なものにとどまり、革命的行動のための建設的モデルを提供はしなかったが、後進的な非資本主義諸国では、その影響はもっと浸透力があり、より生産的であった。ほとんど援助をうけずに自力によって主要工業強国の地位にまで自己を高めた革命体制の威信のおかげで、ソ連は1914年まではほとんど争われなかった西欧資本主義の世界的支配に対する後進諸国の反乱の当然の指導者となった。}(E.H.カー「同上」,P275)