日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.5 ロシア革命 / 4.5.3 2月革命と10月革命

4.5.3 2月革命と10月革命

ここでは、ロシア革命の“本番”にあたる2月革命と10月革命について述べる。

「パンよこせ!」の民衆デモで始まった2月革命で皇帝ニコライ2世は退位し、政権を握ったのは、ブルジョアや知識人などを中心とした自由主義者たちであった。彼らは戦争の継続に固執したが、民衆は平和を望んでいた。マルクス主義左派のボリシェヴィキは、戦争中止を宣言して兵士や民衆を味方につけ、10月革命で自由主義者たちを倒して政権を握った。

図表4.18(再掲) ロシア革命

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(1) 厭戦気分の蔓延註453-1

1914年8月G暦 に第1次世界大戦が始まり、緒戦でロシアがいくつかの勝利をおさめると、ロシア国内は愛国的興奮に覆われた。しかし、ドイツ軍が反攻を開始して敗戦の報が次々と届くようになると、国民や兵士には厭戦気分が漂うようになった。政府批判の声が高まるなかで、1915年夏には国会議員の自由主義者たちが結集する「進歩ブロック」が結成され、皇帝に内閣改造を要求するが、皇帝はこれを拒否、国会の休会を命じた。

開戦後抑えられてきた労働運動も活発になってストライキが行われ、中央アジアでは反乱が発生、都市では食糧危機が深刻化して政府批判の声が高まり、前線では兵士たちの命令拒否や逃亡も起きた。
また、皇室に入り込んだ怪しげな宗教家ラスプーチンと皇后との愛人関係のうわさをたてられて皇室の権威が失墜し、憂えた皇族によってラスプーチンが殺害されるという事件も1916年12月に発生した註453-2

(2) 2月革命註453-3(1905年1月9日)

1917年2月23日(3月8日G暦)から起きた2月革命の要因は、1905年革命の要因、すなわち古色蒼然たる専制政治に対するブルジョア自由主義者、労働者、農民たちの反乱という要素に加えて、戦争による疲弊と戦争指導への不満が重要な要因となった註453-4

「パンよこせ」デモの拡大

国際婦人デーである2月23日の朝、首都ペトログラード(ペテルブルクから改称)で女性労働者がおこした「パンよこせ!」のデモに男性労働者たちも呼応し、25日には全市に拡大して「戦争反対」や「専制打倒」のスローガンもあらわれた。皇帝は軍に鎮圧命令を出し、26日には鎮圧軍の発砲で多数の死者が出たが、27日になると軍の下士官らが決起し、労働者とともに監獄を襲って政治犯を開放したり、大砲工場から武器を奪ったりして首都は無政府状態になった。

ソヴィエトの設置と臨時政府成立

社会主義者らは、労働者や兵士に呼びかけて27日夜、ソヴィエト(評議会)を設置し、メンシェヴィキのチヘイゼを議長に選出した。この時点で執行委員15名中、ボリシェヴィキは2名しかいなかった。
一方、国会は皇帝から解散命令を受けていたが、27日、議長のロジャンコ※1の下に「国会臨時委員会」を設置、28日には各省庁を接収して政権を掌握した。

3月1日、ソヴィエト総会は「軍事委員会の意見はソヴィエトの意見と食い違わない限り受け入れられる」とする決議が「命令第1号」として決定された。これによって、労働者と兵士がソヴィエトに忠誠を誓い、将校と官吏が国会臨時委員会に忠誠を誓うという、「二重権力」状態が生まれた。

この決定を受けて、3月2日、「国会臨時委員会」は臨時政府を成立させた。首相リヴォフ公爵、外相ミリュコフ、陸海相グチコフ、司法相ケレンスキー※2で、ケレンスキー以外は自由主義者(ブルジョア)であった。

※1 ロジャンコは、南ロシアの大地主で地主・資本家政党である「10月党(オクチャブリスト)」に属し、1911年以後は国会議長として帝国政府を支持した。(コトバンク〔世界大百科事典〕)

※2 ケレンスキーは、1912年弁護士から国会議員になり、2月革命ではエスエル党で活躍。第3次臨時政府で首相となり、戦争継続に専心して戦争反対の民衆を弾圧した。10月革命で失脚し、フランス(のちにアメリカ)へ亡命した。(コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典〕)

マルクスの歴史図式によればブルジョア革命によって資本主義の発展とブルジョア民主主義の基盤が築かれ、その上でプロレタリア革命が起きるはずだった。2月革命はブルジョア革命であり、社会主義に移行するプロレタリア革命は将来のことと考えていた。そのため、本来競合するはずのブルジョア主体の臨時政府とソヴィエトが協調することに、スターリンやカーメネフは違和感を持たなかった。註453-5

帝政の終焉

3月1日、軍首脳は皇帝ニコライ2世にロジャンコが設立した臨時政府を認めるよう進言し、翌2日には皇太子への譲位を進めた。皇帝はこれをいったん認めたが、血友病だった皇太子を慮って弟のミハイル大公への譲位を表明した。しかし、ミハイル大公は翌3日、身の安全が保証されないと即位を固辞したため、300年続いたロマノフ朝はここに終焉を迎えることになった。

皇帝はこの後、監禁されたが、反革命勢力に奪回されることをおそれたボリシェヴィキにより、1918年7月皇帝一家全員が銃殺された。

臨時政府の政策

臨時政府は3月3日に新政権樹立を宣言し、次のような政策を発表した。

戦争(第1次世界大戦)については続行を宣言した。ただし、ソヴィエトの要求により、帝国主義的戦争目的を否定し、無併合、無賠償の講和を主張する一方で、連合国との協定を遵守し、連合国に負うすべての義務を遵守することも表明した。

(3) ボリシェヴィキ

ボリシェヴィキは、マルクス主義政党であるロシア社会民主労働党の一派で、レーニンをリーダーとして暴力革命を主張し、ソ連共産党の母胎となった。2月革命後、急激に勢力を伸ばし、10月革命で政権を握った。

4月テーゼ註453-6

2月革命後、それまで追放されていた多くの革命家がペトログラードに戻ってきた。レーニンも4月はじめに戻り、4月テーゼとよばれる声明を発表した。声明は、まず戦争の即時中止を訴えた後、この革命を次のように定義した。革命は権力をブルジョアに渡した第1段階から、労働者・貧農に権力を引き渡す第2段階へ移行しつつある。臨時政府とソヴィエトは同盟者ではなく、敵対者であり、目指すべきは議会制共和国でなく、労働者、農民代表によるソヴィエトの共和国である。社会主義をただちに導入することはできないが、第1段階として「社会的生産と分配」を統制するべきである。

4月テーゼは、当初、ボリシェヴィキ内で戸惑いをもって受けとめられたが、4月中旬には党の方針と受け入れられていった。

臨時政府の混迷註453-7

戦争目的や無併合、無賠償による講和に対して曖昧な姿勢をとりつづける臨時政府に対して、4月20日、兵士たちを中心に大規模なデモが行われた。臨時政府はソヴィエトからの入閣を求め、メンシェヴィキとエスエル党から3人が入閣し、第2次臨時政府が成立した。

しかし、6月にケレンスキー陸相による軍のガリツィア※3への攻勢計画が判明すると、これに反対する労働者と兵士は30万人以上が参加する大規模なデモを行った。続いて7月3日と4日には「権力をソヴィエトへ」のスローガンのもと、再び30~40万人の武装デモが行われた。臨時政府とソヴィエト主流派はこれをボリシェヴィキの陰謀であるとして、トロツキーらを逮捕、レーニンは潜伏しフィンランドに逃れた。

7月24日、ケレンスキーを首班とする第3次臨時政府が発足したが、政権の安定には程遠かった。

※3 ガリツィアは、現在のウクライナ南西部で、レンベルグ(現在のリヴィウ)が中心都市。

コルニーロフの反乱註453-8

7月に軍最高司令官についたばかりのコルニーロフが軍事独裁を企て、8月24日配下の将軍に首都進撃を命じた。ケレンスキーはソヴィエトに支援を求め、ソヴィエトもボリシェヴィキを中心にこれに応じて「反革命対抗人民闘争委員会」を設置し、工作員を送り込んでコルニーロフ軍を内部から瓦解させた。9月1日、コルニーロフは逮捕され反乱は失敗に終わった。この事件は、コルニーロフを支持した保守派の権威を失墜させ、ソヴィエトによる政権樹立を求める声が高まっていった。

反乱終息後、ケレンスキーはソヴィエト以外の民主主義諸派や有産階級に支持基盤を求め、1917年9月25日、第4次臨時政府を発足させた。

(4) 10月革命註453-9

武装蜂起

コルニーロフの反乱後、潜伏していたレーニンは、武装蜂起を決行して臨時政府を打倒し、政権を掌握するよう党中央委員会に提案した。党中央の一部に武装蜂起に反対する意見もあったが、10月10日レーニンはペトログラードに戻り、中央委員会も武装蜂起を決意した。10月12日、ペトログラードソヴィエトは反革命からの防衛という目的を掲げ、ソヴィエト軍事革命委員会を組織して、首都の各部隊に合流を呼びかけた。10月23日夜、臨時政府は巻き返しをはかったが、軍事革命委員会は首都の重要拠点を制圧し、臨時政府は冬宮に逃げ込んだ。25日午前、軍事革命委員会は、臨時政府が打倒され、同委員会が権力を掌握したことを発表した。翌26日、冬宮内の閣僚は逮捕されたが、ケレンスキーはアメリカ大使館の車で脱出に成功した。

人民委員会議の設置

10月25日深夜、第2回労兵ソヴィエト大会が開かれた。メンシェヴィキや右派エスエルは武装蜂起に抗議して開会後に退席していたので、ボリシェヴィキが過半数を占め、残りは左派エスエルなどであった。大会はソヴィエト権力の樹立を宣言し、戦争の即時休戦と無併合・無賠償による講和、地主から土地を没収、憲法制定会議の召集、が宣言された。ここにはまだ「社会主義」の言葉はなかった。

ボリシェヴィキは、憲法制定会議召集まで、臨時の労農政府として人民委員会議を設置することを提案したが、左派エスエルに参加を断られたので、ボリシェヴィキの単独政権となった。しかし、他党派が激しく反発したため、12月に左派エスエルを取り込んだ人民委員会議(=労農政府)となった。

(5) 憲法制定議会註453-10

憲法制定議会は2月革命後に臨時政府が開催を約束し、ボリシェヴィキも人民委員会議を設置する前提としていた。制定議会の議員選挙は1917年11月12~14日全国で行われ、投票率は50%弱、エスエル党が最多の40%の得票を獲得し、都市の労働者と兵士の支持が中心だったボリシェヴィキは24%にとどまった。
ボリシェヴィキは左派エスエルを取り込んだものの、1918年1月5日に召集された憲法制定会議はボリシェヴィキに批判的であった。ボリシェヴィキと左派エスエルは審議に参加せず、翌6日、人民委員会議は憲法制定会議を解散させた。

ついで、1月10日に第3回ロシア労兵ソヴィエト大会、13日には第3回農民ソヴィエト大会が開催され、ソヴィエト体制を正式な国家制度とすることを決定した。レーニンはロシアが「社会主義連邦ソヴィエト共和国」であることを宣言し、この革命が社会主義革命であることを明確にしたのである。

(6) 休戦と講和条約註453-11

人民委員会議は英仏など連合国の抗議をはねのけて、11月19日からドイツと休戦交渉を行い、22日には休戦協定の調印にこぎつけた。戦闘はやみ、兵士たちは復員をはじめた。

12月に講和交渉が始められたが、ドイツの要求はきわめて厳しく、革命戦争として戦争の続行を主張するグループ、即時講和を主張するレーニンのグループ、そして戦争も講和もせずに交渉を引き延ばすというトロツキーのグループの3つに分かれた。このときはトロツキーの方針で交渉を進めることになり、ドイツ側と交渉したものの、トロツキーは1918年2月9日、交渉を打ち切った。ドイツは軍事行動の再開を決定し、2月18日攻勢にでた。結局、レーニンの強い要求でドイツの要求を受諾することになり、3月3日、ブレスト=リトフスクで講和条約に調印した。この経験はボリシェヴィキの幹部に軍事力の重要性を認識させ、赤軍の強化につながるのである。

ロシアが戦線を離脱したことは、英仏など西欧世界の憤激をかい、旧ロシア政府の債務の支払い拒否などの措置がとられた。また、ロシアの新政府が「この革命は世界中を席巻するはずの革命の第1段階である」と宣言したとき、それは西欧資本主義社会への攻撃と受け取られた。一方で、ロシアの革命が長続きすると考える人は稀だった。新政府が押さえているのはペトログラードなど一部の大都市だけで、全国の労働者や農民の支持をどれだけ得られるかは不定であり、官僚や技術者は新政府に仕えることを拒否、掌握した軍も既存の軍のごく一部でしかなかったからである。


4.5.3項の主要参考文献

4.5.3項の註釈

註453-1 厭戦気分の蔓延

栗生沢「ロシアの歴史」,P115-P116 和田編「ロシア史」,P276-P286

{ 開戦は、ロシア国内にかつてない挙国一致をつくりだした。愛国デモがドイツ大使館やドイツ人商店を襲撃した。サンクト・ペテルブルクという首都の名称はドイツ的であるとして、ロシア的なペトログラードと改称された。}(和田編「同上」,P279)

{ 生産は軍事面に集中され、労働力不足、国内の物資不足が極限に達した。人員や馬匹を徴発された農村も同様であった。収穫量は戦前の4分の3に落ちた。戦争で穀物輸出が止まったので農村では何とか飢饉の発生を免れたが、都市では輸送危機が重なったこともあり、食糧危機が深刻化した。}(栗生沢「同上」,P116)

註453-2 ラスプーチン

ラスプーチンはシベリア出身の農民で、各地の修道院をまわって宗教体験を積み、フリスティという新宗教に近かったといわれている。皇太子アレクセイの血友病治療(一種の催眠療法と考えられている)が効果をあげたことから、皇后と皇帝の信頼を得て、閣僚人事などに口をはさんだ。身持ちが悪く、女性信者や皇后との関係でさまざまな噂を立てられた。

皇太后と皇族たちは1916年10月末、皇帝にラスプーチンと皇后との関係を断ち切るよう求めたが、皇帝は耳を傾けようとしなかった。そこで皇帝の姪の夫、皇帝の甥などが右翼国会議員の助けを借りて1916年12月16日夜、ラスプーチンを殺害した。(栗生沢「同上」,P115、和田編「同上」,P286)

註453-3 2月革命

栗生沢「同上」,P116-P118 和田編「同上」,P287-P289,P300

註453-4 2月革命の要因

E.H.カー「ロシア革命」,P2-P3

註453-5  2重権力

E.H.カー「同上」,P3-P4

註453-6 4月テーゼ

E.H.カー「同上」,P3-P6 栗生沢「同上」,P118

註453-7 臨時政府の混迷

栗生沢「同上」,P118-P119 和田編「同上」,P290-P291 木村「第一次世界大戦」,P172

註453-8  コルニーロフの反乱

栗生沢「同上」,P119-P120 和田編「同上」,P291-P292

註453-9 10月革命

栗生沢「同上」,P120-P122 和田編「同上」,P292-P294 E.H.カー「同上」,P7-P9

{ 10月25日夜11時に開催された第2回全ロシア労兵代表ソヴィエト大会に出席した代議員は、ボリシェヴィキ390、左派・中央派エスエル179、その他56であった。彼らは大会の名においてソヴィエト権力の樹立を宣言し、行動綱領を説明する「労働者・兵士・農民諸君へ」 「平和に関する布告」 「土地に関する布告」 の3つを、ほぼ満場一致で採択した。行動綱領は、平和と土地・軍隊の民主化、労働者統制、憲法制定会議の召集、パンと生活必需品の都市農村への供給、民族自決などの目標を宣言した。}(和田編「同上」、P293-P294<要約>)

註453-10 憲法制定議会

栗生沢「同上」,P122-P123 和田編「同上」,P295-P297

{ 憲法制定会議の選挙は、選挙民の多くが農民だったことから予想されるように、520議席中267がエスエル、ボリシェヴィキは161となった。この会議はその夜遅く閉会し、労農政府はこの会議の再開を実力で阻止した。これは革命がブルジョワ民主主義に背を向けた決定的瞬間であった。}(E.H.カー「同上」,P10-P11<要約>)

註453-11 休戦と講和条約

栗生沢「同上」,P122-P123 和田編「同上」,P296-P298  E.H.カー「同上」,P11-P12