日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.5 ロシア革命 / 4.5.1 革命運動の芽生え

4.5 ロシア革命

ロシア革命は初めての社会主義革命として世界に大きな影響を与えた。しかし、その革命を始めたのは戦争の中止と食糧の安定供給、あるいは民族自決を求めた民衆であり、社会主義実現のために立ち上がったわけではなかった。とりわけ日露戦争、第1次世界大戦と続いた戦争が革命の推進力になった。ボリシェヴィキ※1 が最終的に革命を主導する立場を獲得したのは、社会主義を民衆が支持したからではなく、民衆の要求に沿った政策を公約し推進したからであり、既存の軍事力を自陣営に引き込むことに成功したからである。

マルクスが構想を描き、レーニンが設計図をひき、スターリンが建設した社会主義は、マルクスやレーニンの描いた世界とはかなり違うものになり、最終的に社会主義という看板は下ろさざるをえなくなった。だからといって、ロシア革命は無意味だった、という結論はありえない。ロシア革命に対する評価は識者によってさまざまだが、それをどう考え、どう生かすか、は今後も課題でありつづけるであろう。それを考える出発点は、何が起きたかを知っておくことである。

※1 ボリシェヴィキは、ロシア語で「多数派」を意味する。1903年に生まれた「社会民主労働党」の一派で、レーニンをリーダとする社会主義左派であった。のちにロシア共産党の母体となる。

図表4.18 ロシア革命

Efg418.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

<暦について> ロシアは1918年1月までユリウス暦を使用しており、現在一般に使われているグレゴリオ暦より、13日遅れていた。例えば、.ユリウス暦1904年1月9日はグレゴリオ暦1904年1月22日である。この節では、1918年1月以前の日付は原則としてユリウス暦で記載するが、日付の末尾に「G暦」とあるのはグレゴリオ暦である。

4.5.1 革命運動の芽生え

19世紀半ば過ぎから始まった工業の発展をはじめとする近代化は、都市住民の急激な増加を招く一方で、いまだに中世的な農奴制の名残を残す農民たちにその歪みが押し寄せた。そうした民衆の不満を捉え、革命を目指す政党が誕生していった。

(1) ナロードニキ註451-1

1868年、首都の学生運動サークルからナロードニキ(人民主義)運動が生まれ、1874年夏多数の学生たちは職人や労働者に身をやつして「民衆のなかへ(ヴ・ナロード)!」のスローガンのもと、農村に革命工作に入っていった。農民は学生たちを拒否し、運動は挫折したが、そこで得られた知識から1876年、最初の革命結社「土地と自由」が結成された。1879年、結社は皇帝暗殺を目指す主流派とテロを拒絶する派に分裂した。主流派は、1881年3月に皇帝アレクサンドル2世を首都の路上で爆殺した。

ナロードニキの中にはマルクス主義を受け入れる者があらわれ、ロシア革命で大きな役割を果たす社会革命党(エスエル党)の基盤になっていった。

(2) 工業の発展と農村の疲弊註451-2

ロシアが近代産業(=工業)の振興に取り組み始めたのは19世紀半ば過ぎ、アレクサンドル2世(在位1855-81)の時代であった。このとき、「大改革」(3.7.1項(5)参照) とよばれる近代化政策として、農奴解放、財政改革、地方行政改革、教育制度の充実、軍事改革などが行われ、工業は急激に発展していった。

工業の発展

ロシアの工業は鉄道を中心に発展した。鉄道は1837年から敷設が始まり、1865年に総延長は3500kmに達し、アレクサンドル3世(在位1881-94年)治下で3万5000kmまで急伸した。最初は輸入に頼っていたレールや車両の国産化を進めることにより、製鉄業や機械工業など関連産業が発展した。また、カスピ海沿岸のバクーにおける石油業のほか、紡績、捺染、織物などの軽工業も出現した。急激な工業化に伴って都市の労働者が急増し、新たな社会問題が発生するようになった。

農村の疲弊

工業化のしわよせは農村に押し寄せた。1897年にロシアで初めて行なわれた人口調査によれば、総人口1億2564万人のうち、8割弱の9690万人が農民であった。もともとロシアは穀物の輸出国で、「十分に食べずにできるだけ輸出しよう」という状態だったが、1880年代になると、農業の機械化が進んだアメリカ大陸などから安価な穀物がヨーロッパ市場に出回るようになり、ロシアの農場は厳しい経営が強いられた。また、大改革で農奴解放されたものの、農村の古い構造や農民を土地にしばりつける農村共同体(ミール)は残っており、人口過剰になって貧農が増加した。91-92年の大飢饉では、40~50万人の餓死者が出たといわれている。

(3) 専制の護持と「愛民政策」註451-3

父アレクサンドル2世をテロにより殺害されたアレクサンドル3世は、父が主導した「大改革」がテロリストを増長させたとみて、専制権力を確立し護持することを最優先課題とした。彼は、革命思想の発生源を、ユダヤ人、総合雑誌、大学、と見て、ユダヤ人の農村移住の禁止、指導的な雑誌「祖国雑記」の廃刊、大学の自治の廃止などを行った。

その一方で、「愛民政策」とよぶ国民各層の利益をはかる政策も実施した。農民に対しては、農奴解放に伴う地代金の軽減、人頭税の廃止など、労働者に対しては、児童・若年労働の禁止・制限、突然の解雇を禁じる雇用規正法の制定などを行い、地主貴族には土地銀行の設置等の金融支援を行った。

{ アレクサンドル3世治下の1880年代は、「貴族反動」の時代だと言われることがあるが、安定した帝権のもとで、近代ロシアの機構が本格的に動き出した時期であった。}(和田編「ロシア史」,P245)

(4) 反政府運動の激化註451-4

1894年、アレクサンドル3世が49歳で腎臓病のために死去し、ニコライ2世(在位1894-1917年)が即位した。1892年に蔵相に就任したウィッテは、「自国の工業をもたない国は先進国に従属する」と考え、フランスから資本を導入し、ドイツから機械を買い入れて工業の振興に力を入れ、90年代には製鉄・機械など重工業が伸長した。

しかし、1900年に恐慌が起きると、急増した労働者の劣悪な労働環境や、農奴制時代から改善が進まない農民の生活環境はますます悪化していったが、ニコライ2世は抑圧・弾圧で乗り切ろうとしたため、各地で暴動や反乱などが多発した。以下、その主なものである。

※2 ベッサラビアは、現在のモルドバのほぼ全域とウクライナの一部に相当。

(5) 革命政党の誕生註451-5

1890年代にはレーニンがシベリアに流刑になるなど、のちに革命の指導者になる人々が中央から追放されていたが、労働者や農民の反乱が激化するのに伴い、こうした活動家も徐々にロシアに戻って、革命政党を作り始めた。

社会民主労働党

1898年にマルクス主義政党として社会民主労働党が設立されたが、直後に一斉逮捕され活動不能に陥った。1901年にレーニン、マルトフらは、非合法新聞「イスクラ」を刊行し始め、1903年にブリュッセルで第2回大会(実質的には創立大会)が開催されたが、党員の資格をめぐってレーニンのボリシェヴィキ(多数派)とマルトフのメンシェヴィキ(少数派)に分裂した。レーニンが職業的革命家として活動する者だけを党員とすることを主張したのに対して、マルトフはより広く開かれた党を目指そうとした。ボリシェヴィキは1918年にロシア共産党となる。

エスエル党(社会主義者・革命家党)

1901年の年末には、ナロードニキ(人民主義)系のエスエル党が結成された。プロレタリアート、勤労農民、社会主義インテリの団結を重要視して、テロを辞さず、土地の社会化を主張するなど農民社会主義を追求した。

自由主義者

都市のブルジョアや農村の地主を主体にした自由主義者たちは、1902年に雑誌「解放」を創刊し、急進的自由主義の旗をあげた。1905年革命後に立憲君主政を目指す「カデット」や「10月党」が結成され、2月革命ではメンシェヴィキやエスエル党とともに臨時政府を構成した。

1917年の2月革命で実権を握ったのはエスエル党と自由主義者たちで、社会民主労働党のメンシェヴィキはこれを支持したが、レーニン率いるボリシェヴィキはこれに反対して10月革命を起こすことになる。


4.5.1項の主要参考文献

4.5.1項の註釈

註451-1 ナロードニキ

和田編「ロシア史」,P239,P241-P243、P254

ナロードニキは、{ 人民主義者とも呼ばれ、1860年代から農民の啓蒙と革命運動への組織化により、帝政を打倒し、自由な農村共同体を基礎に新社会を建設しようとしたロシアの革命家たちの総称。ナロードは農民に代表される一般民衆の意味。}(コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典〕)

註451-2 工業の発展と農村の疲弊

栗生沢「ロシアの歴史」,P90,P102-P103 和田編「同上」,P237-P238,P246-P252

{ ロシアの鉄鋼業は1900年には世界第4位となった。石油産業の伸びも顕著であった。1900年には世界の産油量の半分をロシアが占めていた。重工業の発展にともない、軽工業の発展も急速であった。}(和田編「同上」,P250)

{ 農業では農民が借りた土地、金の代償として地主の土地を自分の馬と農具で耕す制度、雇役制が中部ロシアの農村に定着した。地主は広大な土地を所有しつづけ、土地不足に悩む農民と対峙していた。農奴解放後人口は急増し、土地不足は深刻化した。農村の構造は工業に安価な出稼ぎ労働力を保証した。資本主義工業は発展しても、農村の古い構造、共同体は壊れずに残っていくことになった。}(和田編「同上」,P246)

註451-3 専制の護持と「愛民政策」

栗生沢「同上」,P101-P102 和田編「同上」,P243-P245

註451-4 反政府革命運動の激化

栗生沢「同上」,P103-P107 和田編「同上」,P248-P256

註451-5  革命政党の誕生

栗生沢「同上」,P107-P108 和田編「同上」,P254-P256