日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.4 第1次世界大戦 / 4.4.6 終戦

4.4.6 終戦

ドイツは最後の攻勢に出たが、物量や兵力に勝る連合軍に押し戻され、ウィルソンの提案する「勝利なき平和」を期待して休戦に応じざるをえなかった。

図表4.14(再掲) 第1次世界大戦への道

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(1) ウィルソンの14か条(1918年1月)

アメリカのウィルソン大統領は1918年1月8日、連邦議会において「14カ条の平和原則」を発表した。これは、戦後の平和を実現するための講和条件でもあった。14カ条の内容は次のようなものである。註446-1

a)平和のための一般原則; 秘密外交の禁止(1条)、公海の自由(2条)、経済障壁の撤廃(3条)、軍備縮小(4条)、植民地問題の公正な解決(5条)

b)個別の領土問題など; ロシアからの撤兵と政治問題の自主解決(6条)、ベルギーの領土回復(7条)、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還(8条)、イタリア国境の再調整(9条)、オーストリア・ハンガリー帝国内諸民族の自決(10条)、バルカン諸国の独立と領土保全(11条)、オスマン帝国内諸民族の自治(12条)、ポーランドの独立(13条)

c)国際組織の創設(14条)

ロシアの新生ボリシェヴィキ政権は、10月革命直後の1917年11月に「平和に関する布告」を発表し、無併合、無賠償、民族自決による講和を提言するとともに、英仏露が植民地や領土を分割することを協定した秘密外交文書を暴露した。それまで「ドイツ軍国主義の打倒」を掲げていた英仏や、「民主主義のため」として参戦したアメリカに大きな衝撃を与えた。
ウィルソンが「14か条」を発表したのは、こうしたロシアの平和攻勢に対抗するとともに、ロシアとドイツの単独講和を阻止するためでもあった註446-2

(2) 独露講和_ブレスト=リトフスク条約(1918年3月)註446-3

1917年12月15日、ドイツとロシアは休戦協定を結び、講和条約の交渉を始めたが、ロシアがヨーロッパの労働者の革命蜂起に期待して長期化させようとしたことや、ドイツの要求が厳しかったことなどから、2月に決裂した。ドイツはロシアへの圧力を強めるために軍を進撃させ、ウクライナなどを占領した。ロシアには抗戦派もいたが、レーニンの即時講和案が採用され、1918年3月3日ドイツ側の要求通りの条件で講和条約を締結し、第1次大戦から離脱した。

ロシアは、フィンランド、ポーランド、ウクライナ、バルト諸国などの独立を認める(実際はドイツの傀儡政権)ことになり、穀倉地帯や工業地域を多数失っただけでなく、多額の賠償金も支払うことになった。

この講和条約は、帝国主義的膨張政策そのものであったが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「世界史上最大の成果の一つ」と賞賛した。しかし、連合国にとっては「ドイツが勝てばこうなる」という見本が提示されたかたちとなり、連合国国民の継戦意欲を固め、戦争の正当性を確信させた。また、のちにはヴェルサイユ条約(1919年)を非難するドイツを黙らせる根拠を与えることにもなった。
なお、ブレスト=リトフスク条約はヴェルサイユ条約によって破棄されることになる。

(3) ドイツ軍の西部大攻勢(1918年3月~)註446-4

ドイツ軍は東部戦線やバルカン戦線などから西部戦線に兵力を集め、最後の決着を強いる大攻勢をはじめた。ドイツ軍は食糧や軍需物資が不足しており、窮余の策として軍団を前線で戦闘する突撃集団と陣地を守備する陣地集団に分け、前者には充分な装備や特別食などが与えられた。

1918年3月21日、ドイツ軍は北部のイギリス軍が守備する地域から攻撃を開始し、短期間に特定の地域に猛烈な砲撃を浴びせる戦術を採用して連合軍を圧倒、4月初めにはマルヌ川付近にまで進撃してパリを脅かした。しかし、進撃してもそれを拡げ、消耗した部隊に代ってさらに進撃を続ける余力は残っていなかった。ドイツの優勢は7月下旬までで、8月に入ると戦闘の主導権は連合軍に移り、連合軍の間髪を置かぬ連続攻撃によってドイツ軍は押し戻された。3月の大攻勢から9月迄のドイツ軍の損失(死傷者・行方不明・捕虜)は134万人に達した。

西部戦線でのドイツ軍劣勢が判明すると、連合軍はブルガリアやイタリア戦線で攻勢に出て同盟国側を圧倒するようになった。

(4) 同盟国の脱落註446-5

1918年9月、連合軍はブルガリアへの攻勢を開始、すでに厭戦気分が広がっていたブルガリアはたちまち敗走し、9月29日に休戦が成立して戦争から離脱した。続いて10月30日、トルコも休戦条約を締結した。

イタリア戦線では、オーストリアがドイツの西部大攻勢に呼応するかたちで、1918年6月攻撃を開始した。しかし、オーストリア軍は砲弾も食料もなく、イタリア軍に簡単に退けられた。オーストリア帝国内では、ウィルソンの14カ条によってチェコ人などの民族独立運動が活発になっていた。カール皇帝は10月半ばに連邦制の下で独立を認める布告を発したが、すでに手遅れで10月になると諸民族は帝国からの離脱を宣言し始めた。1918年11月3日、オーストリアは連合国との休戦協定に調印し、カール皇帝は権力の座から退いた。

(5) 戦争終結

休戦交渉開始註446-6

1918年9月初旬、西部戦線でドイツの敗色が濃くなると、ドイツ参謀本部のトップであるヒンデンブルクとルーデンドルフは敗戦を認めざるをえなくなった。9月28日、ベルギーに置かれた大本営で皇帝ヴィルヘルム2世に危機的情勢を説明し、「ウィルソン的講和」を実現させるため、ウィルソンが求めていると思われる民主的な政府とするための再編(議会政治を基盤とする政府の樹立)を進言し、皇帝も了承した。

新しい宰相にはバーデン公マクシミリアンが任命され、10月3日に中央党、進歩党、社会民主党などから構成される新内閣が編制され、その日のうちにアメリカのウィルソン大統領に休戦と講和の申し入れを行った。ドイツが目指したウィルソン的講和とは、ウィルソンの14カ条に基づく講和であったので、連合国政府ではなく、ウィルソン大統領のみを交渉相手としたのである。
交渉にあたって、ウィルソンは軍部や王朝的専制君主の廃止を要求した。

ルーデンドルフ失脚註446-7

ルーデンドルフは1916年8月に参謀本部次長(本部長はヒンデンブルク)に任命されて以来、実質的にドイツの最高実力者として独裁体制をしいていた。休戦交渉を始めるにあたって「このような事態を招いた連中に講和交渉をやらせるべきだ」と語っており、敗北の責任は政治家や銃後社会にあると考えていた。

ウィルソン大統領との交渉が続く途中で、ルーデンドルフは「ドイツはまだ戦える」と休戦反対に転じた。木村靖二氏によればその理由は自分が戦犯として裁かれることを恐れたからだという。しかし、今回は皇帝も政府も彼を支持せず、10月下旬に辞職せざるをえなかった。彼はドイツ革命のさなか、革命派による逮捕を恐れてスウェーデンに逃れた。1919年に帰国後、ヒトラーと組んでミュンヘン一揆を起こすなど、ヴァイマル共和国打倒運動に加担した。

ドイツ革命(キール軍港の反乱)註446-8

休戦交渉が続いていた10月末、海軍は全艦隊をイギリス艦隊との決戦に出撃させる作戦をたてた。このまま休戦してしまうと、海軍の信頼と名誉が傷つくと考えたのである。全艦隊をキール沖に集めたが、作戦はすぐに乗組員の知るところとなり、彼らは命令不服従で抵抗した。11月3日、キール軍港で水兵らは武装蜂起し、それは戦時体制下で苦しい生活を余儀なくされた人々の共感をよび、11月8日までにドイツ全土が革命的雰囲気に包まれた。もはや戦争体制を維持することは困難になった。

11月9日、ベルリンで政権が交代して帝政の廃止と共和制の樹立が宣言され、皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダに亡命した。

休戦協定締結註446-9

11月11日、パリ近郊のコンピエーニュの森に置かれた列車の中で、ドイツ政府代表団と連合国代表のあいだで休戦協定が調印され、4年余にわたる世界戦争は終結した。ドイツの戦後賠償など詳しいことは1919年1月からはじまるパリ講和会議で議論されることになるが、休戦協定ではベルギーなどの占領地並びにアルザス・ロレーヌからの撤兵、兵器や機関車・貨車・トラックなどの引き渡し、捕虜の無条件釈放などのほか、ロシアと締結したブレスト=リトフスク条約及びルーマニアと締結したブカレスト条約の破棄が決められた。また、ドイツに対する経済制裁も講和条約が合意されるまで継続されることになった。


4.4.6項の主要参考文献

4.4.6項の註釈

註446-1 ウィルソンの14カ条(内容)

岡「国際政治史」,P344-P345 Wikisource「14箇条の平和原則」

註446-2 ウィルソンの14カ条(背景と狙い)

中山「帝国主義の開幕」,Ps4027- 中野「20世紀アメリカの夢」,P87

{ 14カ条には裏があった! ウィルソンは連合側諸国政府が無賠償・無併合の講和に無理解だったことが、ロシア国民に希望を失わせ、ボリシェヴィキの政権獲得と単独講和を可能にした、と考えていた。そのころ開催されていたパリの連合国会議では帝国主義的な戦争目的と講和方式に連合国が執着していることが明らかになり、その会議に出席していたハウス大統領顧問は、戦争目的や講和条件について合衆国単独で何らかの声明を出すことをウィルソンに具申した。また、ペトログラード駐在のアメリカ大使フランシスからも、「当面必要なのはロシアとドイツの単独講和を成立させないことであり、そのためには合衆国がロシア国民を納得させるような戦争目的を内外に宣明する必要ある」との意見が届けられていた。
このような背景で発せられた「14カ条」は、ロシアとドイツの単独講和を阻止するための緊急措置にほかならなかったと考えられるのである。}(中山「同上」,Ps4030-<要約>)

{ ウィルソンの14カ条宣言以下の諸声明は戦後打ち立てらるべき美しい国際秩序の構想を示すことによって、連合諸国の人心を鼓舞すると同時に、独墺側諸国の戦争続行の意志を動揺させてその屈服を促進させる上に巨大な心理的効果を挙げたのであった。}(岡「国際政治史」,P168)

註446-3 ブレスト=リトフスク条約

木村「同上」,P180-P184 中山「同上」,Ps4062-

{ ロシアとドイツの交渉は3月1日から開始されたが、もはや討議や折衝の余地はまったくなく、「剣の先につけて渡された条約」に調印するしかなかった。}(中山「同上」,Ps4072-<要約>)

{ 講和後、ソヴェト政権がベルリン駐在の大使として派遣したヨッフェは、ドイツでもプロレタリア革命の起こることを期待し、かつ皇帝政府に対するドイツ人民の反乱を促進するようなプロパガンダ活動などを続けた。}(中山「同上」,Ps4084-<要約>)

註446-4 ドイツ軍の西部大攻勢

木村「同上」,P184-P189 中山「同上」,Ps4098-

{ ドイツの一将軍も回想録で「わが軍歩兵の攻撃を支える敢闘精神は、略奪欲であった」ことを率直に認めていた。
… 大攻勢は結果として、ドイツ軍将兵に連合軍の数的優位と国際的支持の多さを示す多国籍・多民族構成の軍、豊富な軍需物資、トラックなどの機械化された輸送手段の充実ぶりを、自分の眼で確認させる機会を与え、ドイツが勝てないことを納得させた。}(木村「同上」,P188-P189)

註446-5 同盟国の脱落

木村「同上」,P194-P196 中山「同上」,Ps4103- 岩崎「ハプスブルク帝国」,P369-P370

註446-6 休戦交渉開始

木村「同上」,P197-P198 中山「同上」,Ps4113- Wikipedia「ヴェルサイユ条約」

{ 交渉を通じて、軍部や王朝的専制君主を相手としては交渉に応ずる意志がない、というウィルソンの決意が明らかになると、ドイツは徹底抗戦か、国内体制の変革かという二者択一の窮地に追い込まれた。そこでまずルーデンドルフの辞職が実現され、…残るのは皇帝退位の問題となった。}(中山「同上」,Ps4118-)

註446-7 ルーデンドルフ失脚

木村「同上」,P198-P200

註446-8 ドイツ革命(キール軍港の反乱)

木村「同上」,P200-P201 中山「同上」,Ps4121- 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P184-P185

註446-9 休戦協定締結

木村「同上」,P201-P202