日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.4 第1次世界大戦 / 4.4.5 ロシアの離脱とアメリカの参戦

4.4.5 ロシアの離脱と合衆国の参戦

1917年の末にロシアが革命により戦争から離脱、一方1918年にはアメリカが連合国側で参戦した。

(1) ロシアの戦線離脱(1917年12月)註445-1

ブルシ―ロフ攻勢に勝利したものの、ロシア軍の損失(死傷者・捕虜など)は開戦以来500万人を超えていた。脆弱な輸送インフラは軍需品の輸送が優先されたため、食糧をはじめとする民需品の輸送が滞り、モスクワなどでは食糧不足になっていた。さらに宮廷の腐敗や乱脈も重なって、講和や食糧・燃料を求めるデモやストライキが起きていた。

1917年2月※1、ロシア革命が起きて帝政は崩壊し、メンシェヴィキ※2中心の臨時政府が成立、臨時政府は戦争継続を宣言した。しかし、同年10月※1にボリシェヴィキ※2が権力を獲得すると、交戦国に「無併合、無償金、民族自決」の原則に基づく講和を呼びかけたが、これに応じる国はなかった。革命政府は12月に同盟国側と休戦協定の交渉を開始し、12月15日に休戦協定が調印され、その後講和条約に向けての交渉が始まった。(講和条約締結については4.4.6項(2)を、ロシア革命の詳細については4.5節を参照願いたい。)

※1 この当時、ロシアはユリウス暦を使用していた。2月革命が起きた2月23日、10月革命の10月25日は、現在使われているグレゴリオ暦ではそれぞれ、3月8日、11月7日になる。

※2 メンシェヴェキ、ボリシェヴィキはロシア社会民主労働党内の派閥で、言葉の意味は、前者が少数派、後者が多数派であるが、理論的には前者が社会主義右派、ボリシェヴィキは左派である。

(2) 無制限潜水艦作戦(1917年2月-)

潜水艦(Uボート)作戦のはじまり註445-2

ドイツはイギリスとの建艦競争にやぶれたため、海軍力はイギリスが圧倒的に強く、艦隊同士の大きな戦闘は1916年5月末に行われたユトランド海戦のみで、このときドイツ海軍はイギリス海軍に打撃を与えたものの、北海の制海権を奪うことはできなかった。ドイツ海軍の主たるミッションは、イギリスの海上封鎖に対抗するため、潜水艦(Uボート)によるイギリス向け商船への攻撃が主体になった。

商船への攻撃は開戦後3カ月ほど後に始まったが、海域はイギリス海峡など沿岸海域に限られ、国際法※3に従う形で進められた。

※3 国際法の「戦時拿捕規定」では、交戦海域を航行する商船を攻撃する場合、潜水艦は浮上して商船に停止を命じ、船内を臨検して戦時禁制品の積載の有無を調べ、積載が確認されれば、没収するか、乗員を離船・避難させた後、撃沈することになっていた。

潜水艦(Uボート)作戦のはじまり註445-3

1915年2月、商船攻撃の対象海域をイギリスとアイルランド周辺海域にまで広げるとともに、中立国の商船も対象とすることを宣言した。アメリカがこれに抗議したので、中立国は対象外としたが、実際には、無警告攻撃になる場合が多かった。

1915年5月、イギリスの豪華客船ルシタニア号(約3万トン)が、アイルランド沖でドイツ潜水艦の魚雷攻撃で撃沈されて1200人近い乗客が犠牲になり、うち120人以上がアメリカ人だった。ドイツは武器弾薬を積んでいた、と反論したが、アメリカ国内ではドイツ非難の声が高まった。

潜水艦作戦はその後も継続されたが、アメリカ人乗客の犠牲者が続出したため、ドイツ皇帝や政府は9月に作戦の打ち切りを決めた。

無制限潜水艦作戦再開註445-4

1916年後半になると、戦況の打開を潜水艦作戦に求める声はナショナリスト陣営から、政府の弱腰批判と重ねて広がり始め、17年初めには食糧不足問題もあいまってその声は大きくなった。皇帝や政府はアメリカの参戦を恐れていたが、軍トップのヒンデンブルクは即時開始を要求、ルーデンドルフは「アメリカなど恐るるに足らず」と豪語し、1917年2月1日からの作戦開始が決定された。

アメリカは、2月3日ドイツに国交断絶を通告し、4月6日に宣戦布告した。
作戦開始当初は、月に60万トンを超える商船が撃沈されたが、連合国側は造船能力を拡充するとともに、ドイツ近海への機雷の敷設、護送船団方式の採用などにより、損失は減っていき、逆にドイツ潜水艦の損害が増えていった。1918年5月以降、アメリカが失った輸送船は2隻にすぎず、大量の兵士をヨーロッパに輸送することができた。

(3) アメリカの参戦(1917年4月)

アメリカ人から見た第1次大戦註445-5

第1次世界大戦が始まったとき、多くのアメリカ人にとって、それは自分たちには無関係の「対岸の戦火」であった。1915年2月にルシタニア号が撃沈され、多数のアメリカ人が犠牲になったときは、ドイツ批判の声があがったが、それでも戦争批判と嫌戦感情が大勢を占めていた。

ウィルソン大統領は、1915年春から側近を交戦各国に派遣して和平工作を試みていたが、1916年の選挙で大統領に再選されると、翌17年1月に上院で「勝利なき平和」演説を行い、無併合・無賠償による講和や勢力均衡でなく組織された共通平和を訴えた。この演説により国内の革新主義者は参戦支持に転じていった。

ツィマーマン電報と宣戦布告註445-6

ドイツが無制限潜水艦作戦を再開すると、アメリカは1917年2月3日、ドイツに国交断絶を通告した。

2月末、ドイツ外相ツィマーマンが駐メキシコドイツ大使に宛てた暗号電報がイギリスによって傍受・解読され、ウィルソンに提供された(2月末に公開)。その電報には、「アメリカが参戦したら直ちにメキシコ大統領に面会し、テキサス・アリゾナなどかつてのメキシコ領の返還を条件に、ドイツとの同盟締結を求めよ」との指示が書かれており、ドイツ外相も3月末にそれが本物であることを認めた。アメリカは1913年にメキシコで起きたクーデターに海兵隊を派遣して介入し、リベラルな政府を成立させたが、メキシコ民衆には反米感情が高まっていたのである。

この電報はウィルソン大統領を激怒させ、参戦が閣議決定された。議会も参戦を支持する決議を行い、4月6日ドイツに宣戦布告した。ウィルソンは4月2日に上院に送ったメッセージで次のように述べている。

「世界の諸国民の平和と自由にたいして脅威を与えている独裁的権力を除去し、世界を民主主義にとって安全なものにする。合衆国はいかなる利己的目的も持っていない。何らの征服、何らの領土も望んではいない。賠償も求めない」

徴兵註445-7

対独宣戦布告後、アメリカ国内の反ドイツムードは一挙に高まった。1917年5月には選抜徴兵法が成立し、21~30才の男性に登録が義務付けられた。徴兵対象者は、①登録、②免除、③抽選という3段階を経て選抜された。兵役を免除されるのは、扶養家族のいる既婚者、産業・農業で重要な役割を果たしている者、身体上の障害がある者、などだったが、徴兵義務を果たすことによりアメリカに帰化することができたので、外国人の希望者も多く、すでに帰化した者を含めて50万人近くが外国生まれだった。また、フィリピン、プエルトリコなど植民地からも徴兵された。1914年の段階でアメリカ陸軍の兵力はわずか11万人弱だったが、1年3カ月後には400万人の大陸軍となった。

参戦註445-8

にわかつくりのアメリカ軍は訓練も装備も不充分で、英仏軍部隊に配置して混成軍を作ることが考えられたが、アメリカ側は独立した部隊を編成することを主張し、それが認められて西部戦線に配置されることになった。結局、本格的に前線に配備されたのは1918年に入ってからだった。それでも戦争末期の西部戦線には140万人のアメリカ兵が配置され、死傷者32万人を出した。

アメリカ軍の軍事的支援の意義は、その存在自体にあった。ロシアが脱落して連合国軍の士気が落ち込んだとき、大西洋をわたって、続々と到着する支援部隊は連合国軍を勇気づけたのである。さらに、連合国にとって大きかったのは、アメリカからの資金と物資の支援であった。


コラム 新兵器の投入

第1次世界大戦では、潜水艦、飛行機、戦車など、新しい兵器が使われた。

潜水艦; もともとは沿岸防衛用の短距離兵器だった潜水艦を、ドイツは長距離巡行が可能なものに改良した。商船を狙った魚雷攻撃は、初めは大きな成果をあげたが、爆雷や探索装置の発達、護送船団方式の採用などにより、潜水艦が撃沈されることが多くなった。大戦中、ドイツは潜水艦335隻のうち178隻(53%)を失った。(出典; M.ハワード「ヨーロッパ史における戦争」,P202-P203、木村靖二「第1次世界大戦」,P166-P167)

飛行機; 開戦時、各国は150~200機の飛行機、飛行船を持っていたが、もっぱら偵察用であった。大戦中に飛行機の改良が進み、戦闘機や爆撃機も登場し、ドイツはロンドンやパリを空爆した。しかし、第1次大戦での飛行機の役割はあくまでも補助的なものだった。(出典; Mハワード「同上」,P205-P208、木村靖二「同上」,P103-P105)

戦車; 戦車を初めて実戦で使ったのは、ソンムの戦い(1916年8月)におけるイギリス軍だった。戦車を開発をさせる動機になったのは塹壕戦で、鉄条網の無力化と塹壕の征圧が期待された。ドイツは原材料や工場の不足から量産型戦車を開発できなかった。(出典; W.マクニール「戦争の世界史(下)」,P234-P235、木村靖二「同上」,P119-P120)

毒ガス; 毒ガスは1899・1907年のハーグ陸戦条約で禁止されていたが、ドイツは敵を殺傷する目的ではなく、塹壕から追い立てるためのものを開発した。1914年秋から使い始めたが、ほとんど効果はなかった。そこでドイツは致死性の高い塩素ガスを使いはじめ、その効果が確認できるとさらに毒性の強いガスや、毒ガス砲弾などを開発した。連合軍も同様に毒ガスを使い始めたが、ガスマスクの改善などにより、その効果はしだいに低下していった。(出典; 木村靖二「同上」,P105-P106)

鉄かぶと; 開戦当初、どの国の将兵も布又は皮製の軍帽をかぶっていたが、銃弾はもちろん、砲弾の破片を防ぐこともできなかった。最初に鉄かぶとを導入したのは、フランス軍で1915年3月から導入をはじめ、ロシア軍やイタリア軍にも提供された。続いてイギリス軍も15年末には配布したが、ドイツ軍は導入が遅れ、16年に配布をはじめ17年末になってようやく全将兵が装備できた。(出典; 木村靖二「同上」,P108-P109)


4.4.5項の主要参考文献

4.4.5項の註釈

註445-1 ロシア革命と講和

木村「同上」,P170-P173 栗生沢「ロシアの歴史」,P116-P122

{ 講和の問題では、即時単独講和を主張するレーニンと、革命戦争としての戦争続行を主張する多数派や、戦争も講和もしないというトロツキーらが対立し、党は大きく揺れたが、結局はレーニンが押し切った。}(栗生沢「ロシアの歴史」,P122)

註445-2 潜水艦(Uボート)作戦のはじまり

木村「同上」,P120-P123・P165

註445-3 ルシタニア号撃沈と作戦中断

木村「同上」,P122-P123」

註445-4 無制限潜水艦作戦再開

木村「同上」,P164-P167 若尾・井上「同上」,P180-P181

{ 無制限潜水艦戦とは、イギリスに向かう商船がドイツの指定航路外を航行する場合、潜水したままのドイツ潜水艦の無警告の雷撃の対象になるというもの。}(木村「同上」,P166)

{ 17年2月2日以降,イギリス,フランス,イタリアの周辺と地中海上に交通禁止帯を設け,この地域内を航行する一切の船舶は国籍のいかんを問わず無警告で撃沈することを宣言し実行した。}(コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典〕「無制限潜水艦戦」)

註445-5 アメリカ人から見た第1次大戦

中野「20世紀アメリカの夢」,P42・P54-P55・P60-P61

註445-6 ツィマーマン電報と宣戦布告

木村「同上」,P173-P175 中山「同上」,Ps3946- 中野「同上」,P46・P63-P64

{ ウィルソンの4月2日のメッセージは、ロシア2月革命のペトログラード=ソヴェトのアピールを念頭においての発言であったと思われる。ウィルソンは戦争目的や講和の原則の宣言によってロシア人民の欲求をくみ取り、ロシア革命の過激化を押さえると同時に、彼らが戦争から脱落することを食い止めようとしたと考えられる。}(中山、Ps3958-<要約>)

{ ツィマーマン電報には、日本と同盟を締結するための仲介の依頼が含まれていた。ドイツが同盟の見返りに日本に何を提供するつもりであったかは明らかにされていない。しかし、日本が場合によっては同盟国側に引き込める国と見なされたことは確かである。}(木村「同上」、P174)

註445-7 徴兵

木村「同上」,P176 中野「同上」,P73-P77

註445-8 参戦

木村「同上」,P176-P178