日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.4 第1次世界大戦 / 4.4.4 ドロ沼の総力戦

4.4.4 ドロ沼の総力戦

第1次世界大戦は武器弾薬、燃料、食糧などを大量に消費する消耗戦となり、それら軍需物資の生産、供給のために国民全体を巻き込んだ総力戦になっていった。

(1) 総力戦

総力戦とは、第1次世界大戦以降の現代戦の特徴を示す用語で、「国家の物的・人的資源一切を戦争遂行のために動員する戦争」、という意味であるが、原語は「全体戦争」であり、敵国・敵国民の絶滅への指向の意味が含まれている註444-1

以下、主要国(独・英・仏)の総力戦の模様を、経済統制と兵士や労働者の動員の2つの視点でみていく。

ドイツ註444-2

統制; 開戦直後の8月初めに戦時原料局を設置し、スウェーデン、オランダ、スイスなどからの原料調達、自国内での生産統制、配分先の決定などを行った。最初は金属原料だけが対象だった統制はイギリスの経済封鎖により、ほとんどの原材料におよび国民の日常生活にも深刻な影響を与えた。

動員; 1916年8月、最高軍司令部の指導者として任命されたヒンデンブルクとルーデンドルフは、兵器の大増産を骨子とする「ヒンデンブルク計画」を提示し、砲弾、機銃、航空機などの生産を3倍にすることを求めた。これを実現するための鍵は労働力の確保であり、17歳以上60歳未満の男性に兵役か軍需産業での労働を義務づけ、女性の就労も推奨された。また、ベルギーなど占領地住民の動員や、連合国捕虜を農業や工場労働者として動員を行った。

イギリス註444-3

統制; 開戦直後は「平常通りの業務」をスローガンに掲げていたが、砲弾不足が明確になってくると1915年に「軍需省」を設置して、武器・弾薬の発注・生産を統一的に管理する体制を整えた。不慣れな労働者による量産化は、当初は不発弾や砲身内暴発を起こす欠陥品が多かったが、その後改善が進み大戦後半には不良品は減少した。なお、イギリスは全軍需品の半数近くを合衆国に依存していた。

動員; 開戦後も志願兵制度で兵士を徴用していたが、1916年初めに18~41歳を対象にした徴兵制を導入した。しかし、イギリスの強みは植民地や海外自治領から大量の兵員、労働者を徴用できたことだった。インド、カナダ、オーストラリアなど海外からの将兵の総数は250万人にのぼった。

フランス註444-4

統制; フランスは短期決戦の予想のもと装備弾薬などは平時の備蓄のまま開戦したため、開戦後1カ月で備蓄の半分を消費してしまい、企業に増産を依頼する一方、国営兵器廠と民間軍需産業の連携を進めた。15年には軍需局(翌年軍需省に昇格)を設置して労働力の調達や生産計画策定にあたった。

動員; フランスは開戦時、ドイツとほぼ同数の軍を保有していて徴兵率は非常に高かった。兵員不足は戦車や飛行機の量産で補うとともに、北アフリカやアジアの植民地から45~50万人を集めた。また、植民地からは、本国での労働者として20万人以上が動員された。

(2) 西部戦線(1916-17年)

連合国は1915年12月に開かれた合同会議で1916年3月以降の早い時期に西部、東部、イタリアの各戦線で同時に一斉攻撃をしかけることを決定したが、これが具体化する前にドイツは西部戦線で攻勢にでた。

図表4.15(再掲) 西部戦線地図

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出典) Wikipedia「西部戦線(第1次世界大戦)」、中山「帝国主義の開幕」,Ps3877 より作成

ヴェルダンの戦い(1916年2月~12月)註444-5

1915年の東部戦線へのドイツ軍の大攻勢でロシア軍は弱体化したため、ドイツは東部戦線で余裕のできた戦力を西部戦線につぎこみ、フランス軍に大打撃を与えるべくヴェルダン※1要塞に目標を定めた。1916年2月21日、1200門以上の砲による砲撃から戦闘が始まった。フランス軍の損害は大きかったが、前線の部隊を次々とローテーションさせて反撃を続けた。6月になるとロシア軍が東部戦線で「ブルシーロフ攻勢」を開始し、7月には英仏連合軍がヴェルダンの西200kmのソンムで戦闘を始めると、ドイツ軍部隊は次々と引き抜かれ、7月には事実上、作戦は打ち切りになった。

ヴェルダン戦は第1次大戦で最も激烈な戦闘の代表的なものとされているが、死傷者は両軍で70万人、フランス軍の方がやや多かった。膨大な量の砲弾がふりそそぎ、戦場は穴だらけの月面状になり、戦死者の収容、埋葬もままならなかったという。

※1 ヴェルダンは、フランス北東部ベルギーとの国境付近の街。フランス成立の歴史的原点〔フランク王国が3分されたヴェルダン条約(843年)が締結された地〕であり、ドイツとの対決の愛国的シンボル〔普仏戦争で最後に陥落した要塞〕でもあった。

ソンムの戦い(1916年7月~11月)註444-6

イギリス軍を主力とする英仏連合軍は、ヴェルダンの西200kmのソンム地域で1916年6月末、1週間に及ぶ猛烈な砲撃を行ったあと、ドイツ軍陣地を目指して進撃した。しかし、ドイツ軍の防御陣地は地下深くに及ぶ強固なもので、砲撃がやむと進撃してくる歩兵を迎撃し、特に訓練不足のイギリス軍は一日で5万人以上の死傷者を出す大殺戮となった。やがて、英仏両軍は戦車を投入してドイツ軍に損害を与えたが、戦線を突破することはできず、11月に作戦は終了した。

ジークフリート攻防戦(1917年4月~11月)註444-7

1917年2~3月、ドイツは防御態勢を強化するために、フランス北西部の防御線を後退させ、新しい陣地を作ってジークフリート線※2と呼ぶ新しい防御線を構築した。

新たにフランス軍の司令官となったニヴェルは、この防御戦に対して1917年4月から無謀な突撃攻撃をくり返し行い、多数の死傷者を出しただけでなく、前線兵士には命令不服従のストライキが広がった。ニヴェルが罷免されたあと、7月からはイギリス軍が主体になって攻撃を続け、11月には多数の戦車を使って一時はドイツ軍を後退させたが、すぐに反撃されて防御線を崩すことはできなかった。

※2 ジークフリート線は、ドイツの伝説の英雄ジークフリートにちなんでつけられた名前で、連合軍はヒンデンブルク線と呼んだ。第2次世界大戦でも同じ名前の防御線が独仏国境付近に構築された。(Wikipedia「ジークフリート線」)

(3) 東部戦線(1916-17年)

ブルシ―ロフ攻勢(1916年6月~9月)註444-8

ロシアは当初、ソンムの連合国軍を直接支援することを考えていたが、1916年4月にロシアの南西方面軍司令官に就任したブルシーロフは、同盟国側の兵力集中を阻止するために、ガリツィアにいるオーストリア軍を攻撃することを提案し、承認された。

1916年6月初め、ロシア軍はオーストリア軍への攻撃を開始、オーストリア軍に壊滅的な損害を与えた。ドイツ軍は、ロシア軍を阻止すべく西部戦線から増援を送ってロシア軍を食い止めたが、ヴェルダン要塞攻略は諦めざるをえなかった。

ル―マニア参戦(1916年8月末~12月)註444-9

開戦時、ルーマニアは中立の立場をとっていたが、ルーマニア人が多数住んでいるトランシルヴァニア地方※3の割譲を求める動きが活発になり、連合国側と交渉して要求が受け入れられると参戦の機会をねらっていた。ブルシ―ロフ攻勢が成功するとオーストリアに宣戦したが、ルーマニア軍は装備も旧式で実戦経験も少なく、ロシア軍の支援を受けたものの、ドイツなど同盟国軍の反撃を受けて、1916年12月に首都ブカレストは陥落し、領土の大半を占領された。

※3 トランシルヴァニアは現在のルーマニア北西部。西はハンガリーと接しており、当時はオーストリア=ハンガリー帝国の領土だった。

(4) イタリア戦線_カポレットの戦い(1917年10月-11月)註444-10

イタリアは1915年5月、オーストリアに宣戦布告して、多大な損害を出しつつもオーストリア軍との戦闘を押し気味に進めていた。1917年10月、ドイツ軍の強力な支援を得た同盟軍は大規模な反撃に出た。戦闘はイゾンツォ川沿いの街カポレット※4で行われ、イタリア軍は大敗を喫した。この大敗はイタリア人の危機感を高め、まもなく連合軍の支援も得て反攻に転じ、1918年10月にヴェネツィア北部でオーストリア軍を破り、勝者として大戦を終えることができた。

※4 カポレットは、現在はスロベニア領でコバリドと呼ばれている。

(5) オーストリアの危機(1916年9月-)註444-11

ブルシ―ロフ攻勢で壊滅的な打撃を蒙ったオーストリア軍は、1916年9月、東部戦線全体の統一指揮権をドイツに委任することになり、その自立性を失った。

1916年11月、フランツ・ヨーゼフ皇帝が86歳で死去、68年に及ぶ統治によりオーストリア帝国のシンボルとして定着していた皇帝の死は、国民に大きな衝撃を与えた。

後継のカール1世は、オーストリアが戦争を継続できる状態にないことを認識しており、密かにフランスに単独講和を打診したが、フランスに暴露され窮地に立たされた。カールは秘密交渉への関与を否定して、かろうじてその地位を保ったが、オーストリアはドイツに全面的に依存せざるをえない状態になった。

(6) ドイツの食料危機と軍事独裁化(1916年冬-)註444-12

開戦以来、イギリスの経済封鎖もあってドイツの食料事情は悪化の一途をたどり、反戦デモなどが起きていた。1916年から17年にかけての冬はドイツの穀物やジャガイモ、豚肉などの生産量が激減したことから、「カブラ※5の冬」と呼ばれる厳しい食糧難に襲われた。1916年冬の配給食糧のカロリーは1日約1000キロカロリーで、成人男性の必要量の3分の1しかなかった。

1917年4月にはベルリンなどの大都市で初めての大規模な反戦デモやストライキが行われ、夏にはドイツ大洋艦隊の水兵が勤務拒否などの抗議運動を起こした。帝国議会は「和解の平和」を求める平和決議を採択し、宰相ベートマンは内政改革で乗り切ろうとしたが、ナショナリストや軍部の圧力で辞任に追い込まれた。保守派やナショナリストたちは「ドイツ祖国党」を結成し、勝利によってドイツの望む講和を獲得する「勝利の平和」を掲げて、政財界や農業界を結集した。

ドイツの戦時体制は、政治指導が後退し、ヒンデンブルクらの軍事独裁のもとで総力戦を追求する方向になった。

※5 ここでいうカブラは、日本の白くて丸いカブではなく、ルタバガといわれる飼料用の根菜。


4.4.4項の主要参考文献

4.4.4項の註釈

註444-1 総力戦とは

木村「第一次世界大戦」,P145-P146

{ なぜ、「総力戦」になったか・・ ①ほとんどすべての国が国民国家として形成されており、国家権力のもとで国民を組織することが可能になっていた、②大量生産方式や交通手段の革新により、膨大な兵員を戦場に動員することが可能になるとともに、莫大な量の物資を消耗することになった。
この戦争が、戦場での勝利によってではなく、いくつかの帝国の内部崩壊(革命)によって、やっと終結することができたということも、この戦争が「総力戦」あるいは「全体戦争」だったからである。}(中山「帝国主義の開幕」,Ps3811-<要約>)

註444-2 ドイツの総力戦

木村「同上」,P79-P80・P138-P141 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P177-P179 W.H.マクニール「戦争の世界史・下」,P225-P226

註444-3 イギリスの総力戦

木村「同上」,P82・P148-P149 木畑「20世紀の歴史」,P77-P80

註444-4 フランスの総力戦

木村「同上」,P82-P83・P152-P153 木畑「同上」,P80-P81

註444-5 ヴェルダンの戦い

木村「同上」,P109-P115 中山「帝国主義の開幕」,Ps3878-

{ この戦いにおける砲撃のすさまじさは、一兵士の手紙のなかで、「この地獄の穴」では「鋼鉄の神経をもっていても、それすら揺さぶられてしまう」と表現されている。}(若尾・井上「同上」,P174)

註444-6 ソンムの戦い

木村「同上」,P118-P120

註444-7 ジークフリート攻防戦

木村「同上」,P153-P158 Wikipedia「西部戦線(第一次世界大戦)」

{ (防御線構築にあたって)ドイツ軍は、12万人以上の住民を後方に強制疎開させたうえで、連合軍が利用できる軍事設備はもちろん、住宅、道路、橋、井戸などのインフラ設備を含めた一切のものを徹底的に破壊する焦土戦術を実行した。}(木村「同上」,P153-P154)

註444-8 ブルシ―ロフ攻勢

木村「同上」,P115-P117

{ ブルシ―ロフ攻勢はロシア軍の最後の大勝となったが、兵員の損失も100万人におよんで戦力を低下させた。一方、オーストリア軍は45万人(半数近くが捕虜)を失って、16年全体の損失が75万人に達した。… オーストリア軍はもはや再起不能になった。}(木村「同上」,P117)

註444-9 ル―マニア参戦

木村「同上」,P117-P118」

註444-10 イタリア戦線_カポレットの戦い

木村「同上」,P158-P159 北村「イタリア史10講」,Ps2452-
「カポレット」は、イタリアが苦境に陥ったことを隠喩的に示す言葉として現在もよく用いられる。

註444-11  オーストリアの危機

木村「同上」,P146-P148 岩崎「ハプスブルク帝国」,P367-P369

註444-12 ドイツの食料危機と軍事独裁化

木村「同上」,P142-P143 若尾・井上「同上」,P179-P181

{ 全ドイツ連盟(=右翼団体)とルール地方の石炭鉄鋼業界とを中心とした「戦争目的運動」は、1914年末以来、「姑息な平和」を排し領土拡大など広範な戦争目的を貫徹する「勝利の平和」まで戦い抜くことを目指して運動を繰り広げてきた。それは、大英帝国の世界支配への挑戦を意味したが、国内の労働者の注意を国外にそらしたり、兵士や銃後の民衆の「頑張りぬく」意志を強めようとするものでもあった。}(若尾・井上「同上」,P180<要約>)