日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.4 第1次世界大戦 / 4.4.2 ヨーロッパ戦争へ

4.4.2 ヨーロッパ戦争へ

開戦時に具体的な作戦計画を持っていたのはドイツだけであり、ヨーロッパでの緒戦はドイツ軍の攻勢に連合国側が応戦するかたちになった。一方、アジアやアフリカの植民地ではイギリスが日本などに支援を要請した上で、ドイツの植民地に対して攻撃を始めた。

(1) シュリーフェン作戦註442-1

1891年の露仏協商成立後、東西両面に敵を抱えることになったドイツは、その対応策として当時の参謀総長シュリーフェンが1905年に策定したのが「シュリーフェン作戦」と呼ばれるものである。この作戦では、まず主力を西部に集中させ、ベルギーからパリの背後を旋回して独仏国境付近に展開するフランス軍を包囲・殲滅した後、東部のロシア軍を撃破するというもので、フランス軍殲滅までの作戦期間は6週間程度を想定していた。その前提には、ロシア軍は国土の広大さや鉄道の整備遅れなどからドイツ国境に迫るまでには1ケ月近くかかるとの予想があった。

(2) 西部戦線(1914-15年)註442-2

8月1日、ドイツはロシアに対して宣戦布告すると、たシュリーフェン作戦にしたがって、2日にベルギー領の通過を宣言、翌3日に侵攻した。ベルギーはドイツ軍の通過に激しく抵抗したために貴重な時間を浪費し、その間にロシア軍が予想以上に早く体制を整えてドイツ東部の国境にせまったため、兵力の一部を東部戦線に投入せざるをえなくなった。しかし、8月末から9月初めには、北フランスでの攻勢を強めてパリを脅かしたので、フランス政府は一時ボルドーに避難せざるをえなくなった。

マルヌ川の戦い

しかし、フランス軍は態勢を立て直し、9月5日から反撃に転じた。マルヌ川に進んだドイツ軍は、隣接する軍同士の間隔が広がりすぎ、そこに英仏軍がなだれ込んだことから、側面攻撃を恐れたドイツ軍は撤退して戦線を整理しようとした。この予想外の撤退は「マルヌの奇蹟」と呼ばれている。この撤退によってドイツ軍の主導権は失われ、シュリーフェン作戦は挫折した。

「海への競争」から膠着状態へ

その後、両軍ともに側面攻撃をしかける戦術をしかけたため、両軍が競って英仏海峡を目指したように見えたので、「海への競争」と呼ばれる戦いが続き、両軍は大きな損害を出したものの、決着はつかず、年末には英仏海峡からスイス国境にいたる750kmの前線で両陣営が塹壕にたてこもって対峙する陣地戦に移行した。

塹壕戦の始まり

1915年になると、ドイツは最前線の後方に第2、第3の縦深防御線を構築するなどして相手の消耗を狙う防御戦に徹した。連合国側はシャンパーニュ地方などで攻勢に出たが、ドイツの塹壕網を突破することはできず戦線は膠着状態になった。

図表4.15 西部戦線地図

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出典) Wikipedia「西部戦線(第1次世界大戦)」、中山「帝国主義の開幕」,Ps3877 より作成

(3) 東部戦線(1914-15年)

タンネンベルクの戦い(1914年8月)註442-3

ロシア軍はドイツの予想より早く8月中旬には東プロイセンに侵攻し、ドイツの守備軍を圧倒した。ドイツは、西部戦線から兵力を引き抜いて東部戦線に投入し、ロシア軍の相互連携のまずさや情報管理のずさんさにも助けられて8月末「タンネンベルクの戦い」でロシア軍に大勝して東プロイセンを確保した。

ガリツィア戦とセルビア戦(1914年8月~)註442-4

ロシアは開戦とともに、オーストリア領のガリツィア※1にも侵入した。オーストリア軍は2度にわたってロシア軍に攻勢をかけたが失敗し、ガリツィアはロシアに占領された。

※1 ガリツィアは、現在のウクライナ南西部で当時はオーストリア領だった。レンベルグ(現在のリヴィウ)が中心都市。

オーストリアとドイツの間では作戦についてのコミュニケーションがなかった。ドイツは対仏戦に集中する期間はオーストリアがロシアを引き受けるハズと考え、オーストリアはセルビアと戦っている間はドイツがロシア軍を阻止するハズ、と思いこんでいた。

ロシアがガリツィアに侵入してきたとき、オーストリアはセルビアと戦っており、一時は首都ベオグラードを占領したが、軍の一部をガリツィアに振り向けたため、セルビア戦が手薄になり、年末にはセルビアから撤退を余儀なくされた。もっとも、セルビア軍も将兵の4分の3を失って戦闘能力を喪失した。

同盟国軍の「大進撃」(1915年1月~)註442-5

ドイツは当面、防衛に徹することにした西部戦線から兵力を捻出して東部軍の戦力を強化した上で、1915年1月、オーストリア軍と共同で、ポーランド地方とガリツィア地方の攻勢に出た。ドイツ軍の攻勢は大きな成功を収めて、ロシア軍は「大退却(=大撤退)」に追い込まれ、7月にガリツィアから撤退、8月にはワルシャワを攻略してポーランドをほぼ手中におさめ、さらに年末にはバルト海沿岸のラトヴィア、ベラルーシにまで進出した。

一方、オーストリア軍は装備も不十分で多数の凍傷・凍死者を出しただけでなく、チェコ人やベラルーシ人など非ドイツ系民族の兵士の逃亡や集団投降が続き、もはや「後備兵と民兵」の軍になり果てた、と言われる状況になった。

図表4.16 東部戦線地図

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出典) Wikipedia「西部戦線(第1次世界大戦)」、中山「帝国主義の開幕」,Ps3870 より作成

(4) トルコ参戦(1914年10月)

開戦前からドイツとの関係が深かったトルコは1914年10月末、参戦を宣言し、黒海沿岸のロシアの諸都市を砲撃した。トルコ軍は14年にロシアのカフカス地方、15年にはスエズ運河地域に侵攻したが、いずれも失敗した註442-6

ガリポリの戦い(1915年3月~)註442-7

トルコの参戦により、ロシアの生命線だった黒海からダーダネルスとボスフォラスの両海峡を通って地中海に抜けるルートが危うくなった。ロシアは英・仏に支援を求め、英・仏はこれを確保するためにガリポリ(ダーダネルス)半島への上陸作戦を計画した。

まず、英仏艦隊が海峡に突入して沿岸のトルコ要塞を砲撃したが、敷設されていた機雷やドイツ軍潜水艦の攻撃で主力艦が撃沈され、艦隊は海峡から退却した。続いて、ガリポリ半島に英仏などの混成軍を上陸させたが、これもドイツの支援を受けたトルコ軍に撃退され、作戦は失敗に終わった。

(5) ブルガリア参戦(1915年10月)註442-8

ブルガリアは元来、ロシア寄りだったが、第2次バルカン戦争(1913年)でマケドニアなど多くの領土を失い、その回復を目指していた。ドイツ・オーストリアはマケドニアの提供を提示し、1915年9月にブルガリアと同盟を締結することに成功した。同年10月、ブルガリアと独墺軍は弱体化していたセルビアに侵攻し、セルビア国王を追い出して占拠し、オ-ストリア軍の支配下においた。

(6) イタリア参戦(1915年5月)註442-9

伊土戦争(1911-12年)での軍事的・財政的な痛手から立ち直っていなかったイタリアは、第1次大戦の開戦時には中立を宣言したが、開戦後は両陣営から誘いを受けていた。イタリアが切望していたオーストリア領内にある「未回収のイタリア」※2の割譲を提案した連合国側について参戦することを決定した。1915年4月、イタリアと連合国は秘密条約を結んで同盟関係に入り、同年5月にイタリアはオーストリアに宣戦した。

オーストリア領にはイタリア系住民が約80万人ほどいたが、イタリアに逃亡したのはわずかで、11万人はオーストリア軍に入隊した。一方で、オーストリアは南ティロルのイタリア系住民11万人以上を後方に強制移住させ、イタリアも占領した南ティロルの3万人のドイツ系住民をミラノのあるロンバルディア地方に抑留した。民族が混在している国境地域の住民は複雑な状況におかれるのである。

戦場となったイタリアとオーストリア国境はアルプスの山岳地帯で、イタリアは南ティロルと東部国境地帯にあるイゾンツォ川(スロベニア語でソチャ川)から侵攻しようとしたが、主たる戦場はイゾンツォ川周辺地域であった。戦線は膠着し、イタリア軍はいたずらに死傷者を増やしていった。戦況が動くのは1917年10月になってからである。(以降、4.4.3項(4)を参照)

※2 「未回収のイタリア」とは、19世紀のイタリア統一の際、オーストリア支配下に残されたイタリア語地域で、南ティロル(スイスの東側)、トリエステ(ヴェネツィアの東)、イストリア(トリエステの東南、現在はスロベニアとクロアチア領)、の各地方をさす。

(7) 1914-15年の総括註442-10

マルヌの戦い(1914年9月)でドイツの主導権は失われ、シュリーフェン作戦の失敗が明らかになった。それまでシュリーフェン作戦を推進してきたモルトケ(普仏戦争時のモルトケは叔父)は参謀総長の職を辞し、後任にはファルケンハインが就いた。

11月、ファルケンハインは新しい戦略を宰相ベートマンに提案し了承を得た。それは、まず東部戦線で攻勢に出てロシアを脱落させ、次にフランスと講和し、その後イギリスと対決する、講和を結びやすくするために領土割譲は求めない、というもので、「勝つ戦争」から「負けない戦争」に切り替えるものであった。この方針変更により、1915年は東部ではガリツィアやポーランドからロシアを「大退却」させるいっぽう、西部戦線では防御が主体となり、全体としては同盟国側が優位にたつことになった。

緒戦から年末までの5カ月間は両陣営ともに多数の死傷者を出した。フランス軍は戦死・戦傷・捕虜で約85万人、ドイツは西部戦線だけで68万人を失った。原因は敵陣に突撃を繰り返す戦法が多用されたこともあるが、兵士の死傷者の7割近くが砲撃によるもので、大砲の威力が向上した影響も大きい。ちなみに、普仏戦争のドイツ軍戦死者のうち砲弾による死者はわずか8%であった。使用する砲弾の消費量は予想以上に増え、予備を十分に用意したドイツ軍でさえ開戦後3ケ月で砲弾不足が深刻になった。それまでの戦争とは比較にならない大量消費の物量戦となり、いわゆる国民全体を戦争のために動員する「総力戦」を強いられることがはっきりしてきた。


4.4.2項の主要参考文献

4.4.2項の註釈

註442-1 シュリーフェン作戦

M.ハワード「ヨーロッパ史における戦争」,P172-P173 木村「同上」,P61-P63

註442-2 西部戦線(1914-15年)

木村「第一次世界大戦」,P63-P67、P101-P102 中山「帝国主義の開幕」,Ps3724- 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P314

註442-3 タンネンベルクの戦い

木村「同上」,P67 中山「帝国主義の開幕」,Ps3731-

註442-4 ガリツィア戦とセルビア戦

木村「同上」,P68-P69 岩崎「ハプスブルク帝国」,P366

{ 緒戦はロシア軍に有利で、8月21日リヴォフ(筆者注;リヴィウのこと)を占領し、9月初めにはオーストリア領ガリツィアのプシェミシルも占領した。… 1915年4月、ガリツィアからロシア軍の退却がはじまり、6月9日にはリヴォフが放棄された。7月初めにはガリツィアから完全に撤退するにいたった、さらにドイツ軍はポーランドに攻勢をかけ7月23日ワルシャワが放棄された。8月だけでロシア軍の損失は40万人にのぼった。}(和田編「ロシア史」、P280-P282)

註442-5  同盟国軍の「大進撃」

木村「同上」,P90-P91

註442-6 トルコ参戦

木村「同上」,P75・P92

註442-7 ガリポリの戦い

木村「同上」,P92-P93

{ ガリポリ作戦を推進したのは、当時イギリスの海相だったウィンストン・チャーチルであった。上陸作戦での連合軍の損害は19万人にも達し、完全な失敗に終わった作戦は厳しい批判を受けて、チャーチルは海相を辞任した。}(木村「同上」、P92-P93<要約>)

註442-8 ブルガリア参戦

木村「同上」,P94-P95

註442-9 イタリア参戦

木村「同上」,P96-P100 北村「イタリア史10講」,Ps2430-

{ イタリアの陸軍総司令官カドルナは、1917年秋に解任されるまで、イゾンツォ戦線で実に11回もの同じような正面突破作戦をくり返した。損害ばかり多く、ほとんど前進できなかったが、カドルナは損失を実数の半分しか公表しなかった。カドルナは現場指揮官をわずかな退却や異論を理由に解任し、前線兵士36万人が軍法会議に送られ、10万人が脱走兵として処罰された。}(木村「同上」,P100<要約>)

註442-10 1914-15年の総括

木村「同上」,P66・P69-P71・P73・P103

{ 1915年、西部戦線での両陣営の兵力は連合国軍230万人に対し、ドイツ軍は150万人であった。… ドイツ軍は相手の消耗を狙う防御戦に徹し、それに対し連合国軍は数の優位を利用して、占領地奪回、戦線突破の攻勢を続けた。}(木村「同上」,P101)

{ 1914-17年の西部戦線でのフランス軍の負傷者は砲弾によるものが74%であり、この率は他国の場合にもほぼ妥当すると考えられている。ドイツ軍の場合、砲弾以外の戦傷者は、小銃・機銃によるもの16%、手りゅう弾1~2%、毒ガス1.7%、白兵戦での銃剣・軍刀による負傷者はわずか0.1%であった。}(木村「同上」,P70)