日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.3 第1次世界大戦への道 / 4.3.3 開戦へ!

4.3.3 開戦へ!

列強の対立構造が確立され緊張が高まるなかで、それに火をつけるような事件が次々と起こった。オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合(1908年)、第2次モロッコ事件(1911年)、そしてバルカン戦争(19121-13年)と続き、第1次世界大戦の開戦(1914年)につながっていく。

図表4.10(再掲) 第1次世界大戦への道

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(1) ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(1908年)註433-1

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの2州はトルコ領ではあったが、1878年のベルリン会議でオーストリアの行政管理下にあった。1908年にトルコで内乱が起きると、これに乗じてオーストリアはこの2つの州を占領し、自国に併合することをトルコに承認させてしまった。

これに強く反発したのが、同じ南スラブ人の統一を狙っていた隣国セルビアだった。セルビアはロシアを頼ったが、日露戦争の敗戦とその後の内乱(1905年革命)で混乱していたロシアはオーストリアに譲歩せざるをえなかた。

こうしてロシアとセルビアはオーストリアに強い憎悪の念を抱き、ロシアは裏でセルビアなどバルカン諸国に反オーストリアの同盟結成を支援することになった。

(2) 第2次モロッコ事件(アガディール事件)(1911年)註433-2

1911年7月、モロッコで民族自決運動が発生、フランスは自国民の保護と反乱の鎮圧を理由に軍事介入した。ドイツはこれを牽制しようと、モロッコ南西部の港町アガディールに軍艦を派遣したため、両国関係だけでなくヨーロッパの国際政局も一時緊張させた。

第1次モロッコ事件後のアルへシラス会議(1906年)でモロッコにおけるフランスの優先権が承認されていたが、ドイツはそれを認めていなかった。しかし、第2次モロッコ事件でもイギリスは積極的にフランスを支持したので、ドイツも譲歩せざるをえず、モロッコにおけるフランスの保護権を承認する代りにフランス領コンゴの一部割譲を受けて引き下がらざるをえなかった。

(3) バルカン戦争(1912-13年)

こうして、独墺陣営と英仏露陣営の対立が深まるなかで、バルカン半島で問題が爆発した。そのきっかけとなったのは、イタリアとトルコの間に起きた伊土戦争であった。

伊土戦争(1911年)註433-3

イタリアは、エチオピア侵攻が失敗(1896年)してから、次のターゲットとして地中海の対岸にあるリビアを狙っていた。1911年に第2次モロッコ事件が起こり、列強の眼がそちらに向いている隙に、当時リビアの宗主権を握っていたトルコに対して、イタリアは1911年9月に宣戦布告した。イタリアはトルコとの戦争に手間取ったが、翌1912年10月に和平条約が結ばれ、リビアを獲得した。

第1次バルカン戦争(1912年)註433-4

伊土戦争でトルコが苦しんでいるのをみて、セルビアなどバルカン諸国は、1912年10月、トルコに宣戦布告した。セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアの4カ国は、ロシアの仲介で1912年3月から9月にかけてバルカン同盟と呼ばれる防衛同盟を締結していたのである。当初はオーストリアを敵国に想定していたが、まずは弱体化が進むトルコを対戦相手にすることにした。

宣戦布告されたトルコはただちにイタリアと講和し、バルカン同盟軍に応戦したが勝利を得ることはできなかった。他方、オ-ストリアとロシアは大軍を国境地帯に集結させたため、一気に緊張が高まった。これを見たイギリスが仲裁に乗り出して1912年12月には休戦を実現させ、1913年5月のロンドン条約で戦争を終結させた。トルコはバルカン半島に残っていた領土の大半をセルビアなど4カ国に割譲させられた。

第2次バルカン戦争(1913年)註433-5

ところが、トルコから割譲された領土の分配をめぐって4カ国の間で争いが起きた。セルビア・ギリシアとブルガリアはマケドニア地方の領有をめぐって6月末に開戦、第2次バルカン戦争が始まった。翌7月にはルーマニアとモンテネグロ、さらにはトルコまでがセルビア側につき、ブルガリアは敗退して8月に講和した。セルビアやギリシアは領土を拡大したが、ブルガリアは獲得した領土の多くを失い、トルコとともに失地回復をめざしてドイツ、オーストリア側で戦うことになる。


コラム1 人々の戦争観と世論操作

フランス革命以降、一般国民が政治に参加するとともに、それまで王侯貴族と傭兵が行っていた戦争は、一般国民が徴兵されて参加するようになった。それに伴い、19世紀の末には大衆ナショリズムが浸透して、一般の国民も国の名誉や威信を気にかけるようになった。この頃の社会は、戦争を肯定あるいは必要悪として黙認する戦争観が主流であった。なかでも、普仏戦争(1870-71年)以降に生まれた「戦争を知らない世代」には、戦争それ自体に価値を見いだし、賛美するようなロマン主義的な傾向がみられた。他方で、戦争はきわめて費用のかかる非経済的なものであり、海外市場の獲得や投資の増大といった平和的手段で国益を増やすべきだ、という平和論も知識人のあいだには見られた。

こうした社会状況において、政府は戦争を含む重要な外交政策を進めるにあたって世論を無視できなくなり、政治家たちは世論を操作しなけばならなくなった。世論の支持を獲得するためには、人間の理性や打算に呼びかけるよりも、本能的・衝動的・感情的なものに訴える方が訴求力は高かった。そのため、国民の生存といった生物的本能に訴えたり、国民的誇り、民族的栄光のような排外的衝動に訴えることもしばしば試みられた。また、外交文書などの取捨選択・改ざんにより、自国の行為を正当化するようなことも当然のように行われた。

自国の国際的威信の高揚、自国の対外的膨張は国民に誇りと満足とを抱かせた。ことに、政治意識が低く、虐げれられ、無力感にとらえられている被支配層は、とかく自国の対外的高揚の中に国内では満たしえない彼らの権力意志の満足を感じ、自尊心を満足させることができた。

政府は以上のような世論操作を行うことによって、「国民的利益」の名の下に政治的支配層の利益のための外交政策について世論の支持をしばしば容易に獲得したのである。

(参考文献: 小川・板橋・青野「国際政治史」,P65、岡「国際政治史」,P157ーP161)

コラム2 教育の普及

19世紀の末、ヨーロッパに大衆ナショナリズムが浸透したのは、教育の普及と無関係ではなかった。1860年代の末、国民のほとんどが文字の「読み・書き」ができた国はプロイセンと隣接するドイツ諸国、ならびにスカンディナヴィア諸国くらいのものだった。プロイセンなどで識字率――読み書きができる人の割合――が高かったのは、訓練しやすい兵士を必要としていたことや、プロテスタント教会が従順で敬虔な信徒を求めていたためであった。

図表4.13 各国の識字率(参考値)

各国の識字率(参考値)

出典)以下の通りだが、「識字率」の定義が一致していない可能性があるので、一つの目安としてみて欲しい。
※1 中山治一「帝国主義の開幕」,Ps2546-による。
※2 永田諒一「宗教改革の真実」,P42による。
※3 日本の識字率は、 斎藤泰雄「識字能力・識字率の歴史的推移」(2012年) による。

初等教育の制度が確立されたのは、ドイツが1872年、イギリス1880年、フランス1882年である。教育普及のための運動は、西欧と北欧で早くから始まったのに対して、南欧や中欧ではそれより遅く、東欧ではさらに遅かった。それは、社会の工業化と工業の機械化の程度に対応していた。つまり、教育普及の運動が強まった要因のうち、最も基本的なものが、工業化とそれに伴う都市化であった。工業化・機械化によって基礎的能力が求められたのと、人口の希薄な農村部より稠密な都市部の方が、教育環境を整えやすかったのである。また、盛んになってきた自由主義運動が教育の普及を後押しをしたことも見逃せない。さらに、「読み・書き」は、愛国的教育および身体的訓練とあいまって、大衆の国民的忠誠心を涵養することにも貢献すると考えられ、近代国家の文明度の尺度とも考えられたのである。

こうした教育の普及に伴って出版文化が拡大した。例えば、ヨーロッパ全体での新聞の数は、1828年にはおよそ2200であったのに、1866~82年には6000前後になり、1900年には1万2000にまで増えたという。それまで上流階級のものであった新聞が一挙に大衆化したのである。

(参考文献: 中山「帝国主義の開幕」,Ps2474-)


4.3.3項の主要参考文献

4.3.3項の註釈

註433-1 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合

中山「帝国主義の開幕」,Ps3591- 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P307-P308

{ セルビア人ならびにひろくユーゴ=スラヴ族の間には、20世紀の初めごろから、セルビアを中心としてモンテネグロを併せ、かつオーストリア=ハンガリー内のユーゴ・スラヴ族居住地方を包容したユーゴ=スラヴ族の国家を建設しようとする運動が進展していた。
一方、オーストリア=ハンガリーとしては、このユーゴ=スラブ族合同運動が成功して、自国の領土の一角がセルビアに合体する事態が生ずるならば、国家分解の危険の可能性すらある、と考えた。}(岡「国際政治史」,P134-P136<要約>)

註433-2 第2次モロッコ事件(アガディール事件)

中山「同上」,Ps3616- 君塚「同上」,P303-P304

註433-3 伊土戦争

中山「同上」,Ps3627- 北村「イタリア史10講」,Ps2367ー

註433-4 第1次バルカン戦争

中山「同上」,Ps3636- 君塚「同上」,P308

註433-5 第2次バルカン戦争

中山「同上」,Ps3645- 君塚「同上」,P308-P309