日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.3 第1次世界大戦への道 / 4.3.1 台頭するドイツ

4.3 第1次世界大戦への道

第1次世界大戦は帝国主義国家が、その帝国を拡大・維持する上で他の帝国主義国家との間で発生した競合や対立が世界的規模に拡大することによって起きた、と言われている註431-1。そうした衝突を避けるため、あるいは衝突で勝利するために、帝国は他の帝国と同盟や協商関係を作って連携したり、軍備を増強したりした。しかし、それらは国際的な緊張を緩める方向ではなく、世界戦争に向けたエネルギーを蓄積する方向に作用していった。

この節では4.3.1項で主として軍備拡張、4.3.2項で同盟・協商などグループ化の進展を中心に戦争に向けたエネルギーが蓄積される過程を見ていく。

図表4.10 第1次世界大戦への道

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4.3.1 台頭するドイツ

(1) 露仏同盟(1894年)

対ロ再保障条約の廃棄(1890年)註431-2

ビスマルクが失脚した1890年はロシアとの再保障条約※1の更新時期であった。ビスマルクの後継者たちは、ビスマルクが作った複雑な同盟・協商関係が理解できず、これを破棄したのである。彼らは単純に、ロシアと再保障条約を継続することは、バルカン半島でロシアと対立するオーストリアの利益に反する可能性があるだけでなく、ロシアと敵対関係にあるイギリスとの関係も悪化させる可能性があると判断したのである。

※1 この再保障条約は、一方が第三国から攻撃された場合、他方は好意の中立を守ることを約するものであった。(詳しくは4.1.2項(5)を参照)

ロシア・フランスの接近註431-3

ロシアがフランスに接近した要因として、次の3つが考えられる。

一方、フランスにとっては次のような効果が期待できた。

中山治一氏は次のように述べている。

{ ロシアとフランスを結束させたものは、ドイツにたいする共通の敵対関係であるよりも、むしろイギリスとの共通の植民地分割競争であったと言わねばならない。}(中山「帝国主義の開幕」,Ps1126-)

露仏同盟成立註431-4

露仏同盟は1891年から段階的に締結され、1894年1月に軍事同盟として成立した。それは、いずれかの国が独墺伊の三国同盟から攻撃を受けた場合には、相互に軍事的支援に乗り出すという内容であった。

(2) ドイツの「世界政策」(=帝国主義的膨張政策)註431-5

19世紀末のドイツはアメリカと並んでめざましい経済成長を遂げた。重工業のみならず、電機や化学では圧倒的な強さを誇り、20世紀に入った頃には国民総生産(GNP)成長率はイギリスの2倍となった。アメリカはドイツと同様の経済発展を示したが、その国内市場の広大さゆえに、国外への膨張の必要性はドイツほど大きくなかった。しかし、ドイツが成長を維持・拡大するためには国外への膨張が必要と考えられた。

ドイツ皇帝ヴィヘルム2世は、「世界政策(独: Weltpolitik)」と呼ぶ政策を掲げて、ヨーロッパ外への膨張を目指した。ドイツがアフリカやアジアに達する一般的なルートは北海、バルト海を経由する海路だったが、その安全を支えるための海軍を強化する必要があった。もうひとつのルートは陸路で連絡するもので、バルカン半島を経由してコンスタンティノープル、さらにはトルコを貫いてバグダードに至る鉄道を敷設する計画が策定された。

ドイツはトルコと交渉し、1899年にこの「バグダード鉄道」の敷設権を獲得、1903年にはドイツ資本による「バグダード鉄道会社」を設立した。これはイギリスが死守しているインドに至る「帝国の道」の安全を脅かすことは歴然としていた。

(3) 英独建艦競争(1898年-)註431-6

ドイツがアフリカやアジアとの間に海路を確保しようとすると、イギリスが制海権を保持していたドーヴァー海峡を通らざるをえなかった。しかし、ドイツは19世紀末までこれといった海軍をもっていなかった。そこでドイツは1898年に「艦隊法」と呼ばれる法律を制定し、世界第2位(フランス)と第3位(ロシア)の両海軍国を合わせた艦隊を凌駕する大海軍の建設に着手した。1900年になると1920年までに戦艦38隻を常備する海軍拡張計画が策定された。

イギリスはこれに対抗するために、1906年、新戦艦「ドレッドノート」(2万7000トン、12インチ砲10門)を建造し、戦闘能力を飛躍的に向上させた。ドイツも計画していた戦艦をこのドレッドノート級を超えるものに切り替え、イギリスもそれをさらに凌駕する艦隊を作るという競争につながった。

建艦競争は1912年までにひとまず終息するが、両国の間に烈しい敵意が醸成されることになった。

(4) 軍拡競争註431-7

軍備拡張競争はイギリスとドイツの間の建艦競争だけでなく、陸軍の強化も含めて列強のあいだで活発に行われた。この時代、他国の軍備拡張と歩調を合わせて軍拡すべきであり、それが戦争を防ぐのだ、という考え方が一般化していた。(この考え方は現在でも生きているかもしれない)

{ イギリスでは、英海軍の絶対的優位の維持こそ、戦争を防ぐ有効な手段だと想定されていた。他方、ドイツでは、独海軍の速やかな建艦こそ、イギリスによる予防戦争の危険を減少させるという考えが通用していた。…
第1次世界大戦直前にはヨーロッパはいつの間にか臨戦体制に入っていたのである。}(小川・板橋・青野「国際政治史」、P64)

図表4.11は、1870年から1914年までの列強の陸軍、海軍の軍事費を示したものである。この44年間に陸海あわせた軍事費は、ドイツが10.2倍、イギリスは3.3倍、ロシアは4倍強、フランスは2.6倍と、いずれも大幅に増加している。1914年のドイツの陸軍関係軍事費は他国に比べて圧倒的である。

図表4.11 ヨーロッパ列強の軍事費の推移

ヨーロッパ列強の軍事費の推移

出典) 中山治一「帝国主義の開幕」,Ps3582 の表をもとに作成

(5) ハーグ国際平和会議(1899年,1907年)註431-8

ロシアの呼びかけ

上記のような軍拡競争に伴って、年々増加する軍事費に各国は頭を悩ましていたが、特に経済基盤の弱いロシアでは外国から借金が増加していった。ロシアの大蔵大臣だったウィッテは軍縮を各国に提案することを思い立ち、皇帝ニコライ2世もこれに同意して、1898年8月24日、「平和の維持が国際政策の目的である」と宣言した上で、「国民の重荷となっている過度な軍備の縮減」に関する国際会議の開催を各国に呼び掛けた。

最も軍国主義的な国だと思われていたロシアからこうした呼びかけが行われたことに各国はとまどったが、実質的成果はないだろうとの予測のもと招請された25カ国はすべて代表団の派遣を承諾した。

第1回ハーグ国際平和会議(1899年)

ニコライ2世の誕生日の5月18日、オランダのハーグで26カ国(日本や清も含む)が参加して開催された。会議の第一目的だった軍備縮小については、軍事専門家たちの攻撃を受けて難航した。特にドイツは強硬に反対したため、軍縮ないし制限の問題は解決不能な議案として議事から外されることになった。会議で採択されたのは「陸戦法規」とよばれる戦争法規で、戦時捕虜や傷病兵の取り扱いの改善、毒ガス攻撃やダムダム弾(傷口を大きくするような弾丸)の使用禁止、仲裁裁判所の設置などが取り決められた。

これらの条約が最初に適用されたのが、日露戦争(1904-05年)であり、日本は文明国の一員として振舞うべく、戦争捕虜の扱いなどについて国際法の遵守に留意した。

第2回ハーグ国際平和会議(1907年)

同じくハーグで、当時の世界の独立国のほとんどにあたる44カ国が参加して開催されたが、軍縮には何の成果もなく、陸戦法規の改定などが行われた。

このとき、1905年の第2次日韓協約によって保護国にされていた朝鮮から皇帝の使者として派遣された二人が第2次協約は無効であることを訴えたが、門前払いにされた。この会議では、戦争につながる帝国主義の構造的問題や植民地問題が議論されることはなかったのである。


4.3.1項の主要参考文献

4.3.1項の註釈

註431-1 第1次大戦の成因

{ 世界政治におけるさまざまな帝国主義的対立の間に発展した相互関連性こそ実に、このような規模の戦争を成立させた…}(岡「国際政治史」,P165)

{ 帝国世界の周縁でくり広げられていた競合と対立が、帝国世界の中心での戦争につながっていった…}(木畑「20世紀の歴史」,P47)

註431-2 対ロ再保障条約の廃棄

中山「帝国主義の開幕」,Ps987-

註431-3 ロシア・フランスの接近

中山「同上」,Ps1019-  坂井「ドイツ史10講」,Ps2285- 栗生沢「ロシアの歴史」,P103-

{ ビスマルクが孤立させたフランスに代わって、ドイツ帝国がヨ―ロッパで孤立する事態になった。… ロシアはシベリア鉄道建設で資金を頼っていたフランスに接近、1894年に露仏同盟が成立する。
ドイツはイギリスとの同盟を模索するが、イギリスの海軍に対抗したドイツの「建艦競争」や、若気の至りの新皇帝ヴィルヘルム2世の不見識な言動(デーリー・テレグラフ事件)などもあって、イギリスとの関係が冷却、1904年には英仏協商、07年には英露協商が結ばれて、たちまちドイツ包囲網が形成されてしまう。ドイツがイギリスとの関係を自ら破壊したことは、ドイツにとって致命的であった。}(坂井「同上」、Ps2285-)

{ ヴィルヘルム2世の世界政策にもとづく軍拡や、強引な強硬態度は、フランスの危機感をあおり、ロシアとの同盟関係の締結とその強化に向けさせた。}(福井「近代ヨーロッパ史」、Ps2373-)

註431-4 露仏同盟成立

君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P290 コトバンク〔百科事典マイペディア〕

註431-5  ドイツの「世界政策」

小川・板橋・青野「国際政治史」,P61 岡「国際政治史」,P110-P112 中山「同上」,Ps3529-

{ ドイツにとってイギリスは自国製品を買ってくれる最大の顧客であり、金融大国イギリスにとってドイツはインドに次いで2番目の重要な投資先であった。}(君塚「同上」,P303)

しかし、英独関係は次第に悪化していく。

{ 1897年9月、「サタデイ・レビュー Saturday Review」は評論して、英独両国は地球上いたるところにおいて敵対の関係にある。もしも明日ドイツが壊滅せしめられたとすれば、一人一人のイギリス人は今よりも豊かになるであろうと述べて当時の世上を蠢動させた。しかも、世界経済における英独資本主義の相克はその後しだいに烈しさを加えることになった。}(岡「同上」,P111)

註431-6 英独建艦競争

中山「同上」,Ps3520- 君塚「同上」,P305-P306

註431-7 軍拡競争

小川・板橋・青野「同上」,P64 中山「同上」,Ps3557-

{ 歴史家の入江昭は、当時は軍当局のみならず、政府、政党や一般大衆までも、戦争を肯定あるいは必要悪として黙認する風潮にあったことに注意を促し…}(小川・板橋・青野「同上」、P64-P65)

註431-8 ハーグ国際平和会議

中山「同上」,Ps1890-  木畑「20世紀の歴史」、P44-P45

{ この会議に出席した各国の代表団のうちで、ほんの少数の人々だけが、まじめに国際平和の問題にとりくんだといってよい。各国代表団のたいていのものは、おしゃべりの老人、あるいはまったく飾り物にすぎない老人であるか、そうでなければ陸海軍の利益を断乎として守ろうとする人々であった。…
とはいうものの、1899年のハーグ会議は、戦争法規を確定し、軍備の縮小と国際紛争の平和的解決を論議の対象としたことによって、戦争と平和の問題を人々に考えさせる機縁をつくった。}(中山「同上」,Ps1928-)