日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.2 帝国主義の時代 / 4.2.6 アメリカの帝国主義

4.2.6 アメリカの帝国主義

南北戦争(1861-65年)の分断と惨禍を驚異的な産業発展と西部開拓などによって乗り越えたアメリカは、太平洋から東アジアへとその触手をのばしていった。

(1) ハワイ併合(1898年)註426-1

ハワイは18世紀末にジェームス・クックによって「発見」されてから欧米人が訪れ始め、{ 1850年頃にはすでにアメリカの宣教師や捕鯨船の船乗りたちによる深刻な影響が及んでいた。}(W・H・マクニール「世界史(下)」,P279) アメリカは1887年に真珠湾への海軍基地建設権を獲得し、1893年にはアメリカ系移住民が関係するクーデターにより、いったん併合が宣言されたが、米国の大統領クリーブランドが批准しなかったため、白紙に戻った。しかし、1898年米西戦争が始まると、ハワイの海軍基地の重要性が高まり、1898年7月ハワイは公式にアメリカ合衆国に併合された。

(2) 米西戦争(1898年)

背景註426-2

1783年に東海岸の13州で独立したアメリカ合衆国は、買収や戦争によって西に領土を広げ、19世紀半ばまでには西海岸に到達、さらにはアラスカをロシアから購入(1867年)して、広大な領土を確保した。それでも合衆国の開拓精神は衰えず、太平洋を越えて人口4億人の中国を自国製品の市場として狙っていた。

19世紀の後半になると、合衆国の眼と鼻のさきにあるスペイン領キューバと、東南アジアの同じくスペイン領フィリピンでは独立運動がさかんになっていた。キューバでは1895年に開始された独立運動後、スペインは苛烈な弾圧を行い、多数のキューバ人を殺害したが、それでもスペインはこれを鎮圧できなかった。スペイン政府の無能さと弾圧の過酷さは、合衆国内部にキューバ「解放」のための十字軍的熱狂を呼び起こした。そこには、「アメリカ大陸の覇者としての合衆国は、中南米諸国を保護する義務と権利がある」という自負心もあった。

開戦註426-3

1898年2月、キューバのハヴァナ港に停泊中の合衆国の戦艦メイン号が爆発して沈没するという事件が起こった。原因は今でもわかっていないが、合衆国の人々はそれをスペインの責任だと決めつけた。合衆国大統領マッキンレーは最後通牒をつきつけ、議会もキューバ独立のための武力行使を決定した。

1898年5月1日、合衆国海軍はフィリピンにいたスペイン艦隊を撃破し、つづいて7月3日、キューバのサンティエゴ湾でスペインのカリブ艦隊を壊滅させた。合衆国陸軍はキューバやプエルトリコでスペイン軍を一蹴し、フィリピンでは独立勢力と協力して8月14日にマニラを陥落させた。こうして、合衆国国務長官ジョン・ヘイがのちに「すばらしい小さな戦争」と呼んだ戦争は、米軍の圧倒的勝利で終わった。

パリ講和条約註426-4

1898年12月のパリ講和条約で、合衆国はスペインから、以下を獲得した。

パリ講和の最中、合衆国内では作家のマークトウェインや鉄鋼王アンドリュー・カーネギーらによるフィリピン領有への反対運動が盛り上がった。彼らは、キューバ解放のための戦争が異民族を支配するための帝国を建設することになってしまったことは、アメリカ民主主義の堕落だと主張した。しかし、「白人の責務」として、米国が未開のフィリピンを民主化するという主張や通商拡大による経済効果などの議論に押し切られてしまった。

(3) その後のキューバとフィリピン

キューバの独立註426-5

そもそも米西戦争は、キューバの対スペイン独立運動を善意の第三者として合衆国が支援する構図で始まった。しかし、戦後キューバの独立は秩序維持の観点から同意できず、キューバの独立を認めつつも内政干渉を制度化した。キューバが真の独立を達成するのは1960年代まで待たねばならなかった。

フィリピンの独立註426-6

フィリピンの独立勢力は合衆国に協力してスペインを追い出したが、終わってみれば支配者がスペインから合衆国に代わっただけだった。1899年以降、独立勢力は合衆国を相手に戦争(米比戦争)を始めるが、1901年に独立運動の指導者アギナルドが捕えられ鎮圧された。この戦争で、アメリカはアメリカ先住民との戦争と同様の残虐な仕打ちで20万人以上のフィリピン人が犠牲になった、と推定されている。フィリピンは合衆国の統治下にありながら、アメリカ市民権をもたない地域とされ、独立運動は地下に潜って継続されたが、第2次世界大戦中の日本軍による支配を経て、独立を果たしたのは1946年であった。

(4) 米西戦争後のアメリカ帝国主義註426-7

米西戦争により、合衆国はフィリピン、グアム、ハワイなど太平洋地域に拠点を築き、アメリカ帝国の基礎を固めた。次のターゲットは人口4億をかかえる中国市場であったが、そこはすでにヨーロッパ列強と日本が侵出しており、後発の合衆国が入り込む余地はなかった。合衆国が選択した方針は、中国の領土的・行政的保全を尊重しつつその市場を平等に開放する「門戸開放策」であった。

19世紀末から20世紀にかけての合衆国では、セオドア・ローズヴェルトに代表される帝国主義を現実主義的に推進しようというグループのほかに、よりコスモポリタンで人道主義的な国際平和主義を唱えるリベラル的なグループも影響力を保持していた。

1904年12月6日、ローズヴェルト大統領は年次教書を発表し、モンロー・ドクトリンのローズヴェルト系論と呼ばれる対外政策の方針を明らかにした。ローズヴェルト系論では、中米カリブ海を念頭において、特定地域の政治・経済安定のためには合衆国が内政干渉を行う必要を説いた。1823年のモンロー・ドクトリンでは、南北アメリカへのヨーロッパ列強の干渉を排し、新大陸に自由なシステムを確立しようとしたのに対し、ローズヴェルト系論は合衆国が中南米の革命に干渉する帝国であることを宣言したものであり、ヨーロッパ列強と同じ土俵にいることを示していた。


コラム 艦砲射撃の命中率

1898年の米西戦争において、技術的に大きな後れをとったスペイン艦隊は新型のアメリカ艦隊に手も足も出なかった。だが、その最新鋭のアメリカ艦隊においても砲撃の命中率は、ばつが悪いほど低かった。全くの無風状態であったマニラ湾においてアメリカ艦隊は5,895発撃って142発しか命中せず、やや海が荒れたキューバのサンティエゴ湾においては、8,000発撃って、命中したのはわずか121発だったのである。

その後、各国は照準方法を改善する努力を行ってめざましい成功をおさめた。1905年に日本海軍が対馬海峡でロシア海軍を破ったとき、日本海軍は1万3千ヤード(12km弱)もの距離から猛烈に命中率の高い射撃を浴びせることができた。これは、アメリカ海軍の照準手が赤恥をかいた距離のほぼ2倍であった。

(参考文献: W・H・マクニール「戦争の世界史(下)」,P129)


4.2.6項の主要参考文献

4.2.6項の註釈

註426-1 ハワイ併合

中山「帝国主義の開幕」,Ps1469- 貴堂「南北戦争の時代」,P193・P196 Wikipedia「ハワイの歴史」
ハワイのカメハメハ大王がハワイ王国を統一したのは、1810年のことである。

註426-2 米西戦争_背景

貴堂「同上」,P192-P195 中山「同上」,Ps1485-

{ 世紀末の帝国主義の時代には、「アングロサクソン」の使命や、半世紀前の「明白な運命」のスローガンが復活し、ターナー*も、国内フロンティアが消滅しても、アメリカ人の「拡張主義的」な国民性は不変だと書いており、海外のフロンティアへの進出を予言していた。}(貴堂「同上」、P192)

*フレデリック・ジャクソン・ターナー(1861-1932)は、アメリカの歴史家。

註426-3 米西戦争_開戦

木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P114 中山「同上」,Ps649- 小川・板橋・青野「国際政治史」,P54

{ この戦争のあいだ、ヨーロッパ大陸では、世論の同情も、諸政府の態度も、かなり一貫して、親スペイン的、反アメリカ的であった。パリでもベルリンでもモスクワでも、たいていの政治記者たちは、合衆国をなりあがりもの、弱い者いじめとして表現していた。
そのなかでドイツは「三国干渉」と同様の手口でスペインから、太平洋のカロリン諸島、ペリリュー諸島、グアム以外のマリアナ諸島、を安く買い込んだのである。}(中山「同上」,Ps1530-<要約>)

註426-4 米西戦争_パリ講和条約

中山「同上」,Ps1545- 貴堂「同上」,P195-P196

註426-5 キューバの独立

中野「20世紀アメリカの夢」、P25 Wikipedia「キューバの歴史」

{ 米議会は1901年、いわゆるブラット修正によってキューバの独立を認めつつも、アメリカによる内政干渉を制度化した。同修正は、最恵国待遇を約する一方で、キューバの他国との条約締結を禁止し、また、グアンタナモ湾に米海軍基地の施設を求めるものであった。}(中野「同上」、P25)

註426-6 フィリピンの独立

貴堂「同上」,P196-P197 中野「同上」,Pvi  Wikipedia「フィリピンの歴史」

{ セオドア・ローズヴェルトは1901年12月3日に発表した年次教書で次のように述べている。「フィリピンにおいて我々の課題は大きい … 現地の人々が自治へと続く苦難の道のりを行くのを真摯に支援」すべく、総督府のさらなる努力が求められる。また、フィリピン民衆を教導することは、「我々のような支配的な人種」の責務であり、たとえ強い抵抗があったからといって、アメリカが「この島をあきらめれば、人々は残酷な無政府状態へと堕すことになるのだ」と。}(中野「同上」,Px<要約>)

註426-7 米西戦争後のアメリカ帝国主義

貴堂「同上」,P197-P198 中野「同上」,P23-P28

{ 西半球の「国際警察としての責務」という概念自体は、すでにローズヴェルトの最初の年次教書(1901年)のなかにもあらわれていた。しかし、この1904年の宣言は、ベネズエラ危機、パナマ革命、ドミニカ危機と続く、米西戦争での獲得地の周辺で連発した国際紛争の文脈の中で、特にドイツの中米進出を牽制する意図から出されたものだった。このドイツ脅威論は、世界政治の勢力均衡論の文脈ではイギリスとの関係重視につながる。…
ドイツとの関係はなお微妙で、… 1917年春におけるアメリカの第1次大戦参戦の重要な原因となっていく。}(中野「同上」、P28)