日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.2 帝国主義の時代 / 4.2.5 日露戦争と清朝の滅亡

4.2.5 日露戦争と清朝の滅亡

(1) 日英同盟(1902年)註425-1

イギリスにとって中国における経済権益は極めて大きな存在で、それをロシアから守ることは重要な課題だった。しかし、義和団事件が起きたとき、イギリスは南アフリカ戦争に手こずり、東アジアに軍事力を展開する余力はなかった。そこで、パートナーとして最初はドイツに期待したが、ドイツはこれに乗らず、イギリスは日本に期待するようになった。

一方、日本では、伊藤博文らロシアと協調しようという日露協商派と、山県有朋らロシアと対抗するために日英同盟を結ぶことを主張する2派に分れていた。日露協商派のロシアとの交渉は進展せず、日英同盟派が政府部内で優勢となった。

こうして1902年1月、ロンドンで日英同盟が締結された。日英同盟条約では、イギリスが清国にもつ権益と日本が清・韓両国にもつ権益を相互に認め合い、両国の一方が第3国と戦争をしたときは、他方の国は「厳正中立」を守ること、などが取り決められた。

(2) 日露戦争(1904-05年)註425-2

背景

日露戦争は、朝鮮(大韓帝国)と満州の支配権をめぐって、日本とロシアが争った戦争である。義和団事件後満州に居座ったロシアに対して日本はイギリスやアメリカとも連携しながら退去を要求したが、ロシアはそれを無視するだけでなく、朝鮮に対して触手を伸ばし始めた。ロシアでは、1900年頃から労働者や農民の蜂起が多発しており、対外的に積極策をとることによって国内の不満をかわそうという目論見もあった。1903年9月から開始した日露交渉では、満州と朝鮮をロシアと日本がそれぞれ支配するという日本側提案に沿って行われたが、結局折り合うことはなかった。

開戦

1904年2月、両国が宣戦布告して戦争がはじまった。両国ともに人的にも物的にも大きな損害を出して消耗戦となった。1905年3月の奉天会戦、同年5月の日本海海戦で日本が勝利したところで、アメリカの調停により1905年9月5日、ポーツマス条約を締結して終戦となった。講和にあたり、フランスとドイツはそれぞれの思惑からロシアに対してアメリカの調停を受け入れるよう進言している。ロシアは1905年1月22日に起きた「血の日曜日」事件をきっかけにゼネストが広がっており、戦争を継続する余裕はなくなっていた。日本もまた戦力、財力を使い果たしていた。

影響

日本の勝利は引き分け優勢勝ち、といった状態で、ポーツマス条約で獲得したのは、朝鮮の保護権、満州南部の鉄道・領地の租借権、樺太南部の割譲、といったもので賠償金を取ることはできなかった。

{ 日露戦争により、イギリスはその利益を維持しながらヨーロッパでの地位を改善し、日本は東北アジアで帝国主義列強の一員となった。ポーツマス講和会議の後、11月にイギリスは他国に先駆けて駐日公使館を大使館に昇格させ、12月には日本も同様の措置をとった。}(木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P227)

(3) 清朝の近代化と滅亡(1898-1912年)

清朝の近代化註425-3

清朝はアヘン戦争(1840-42年)で、列強の攻撃に屈したものの、自国の経済、軍事、政治の近代化への取り組みが本格化するのは、1860年代に建設された大砲、銃、弾薬などを造る兵器工場からで、近代式の陸海軍が出現するのは19世紀末になってからである。また、留学生の派遣、工業化、鉄道や通信など社会インフラの建設、といった近代化の動きが本格的に始まるのは1890年代以降である。その頃になると政治体制の改革にかかわる動きも出てくる。

戊戍(ぼじゅ)変法(1898年)註425-4

康有為※7は1888年から光緒帝(在位1871-1908年)に対して、日本をモデルとした立憲君主制による変法(=政治改革)を提言し続けてきたが、1898年6月、それが採用されて改革が始まった。中央・地方の行政改革、科挙の改革などの命令が矢継ぎ早に出されたが、同年9月急激な改革に反発する人々が西太后を動かし、光緒帝を幽閉させてしまった。康有為などは日本に亡命し、わずか100日ほどでこの改革は失敗に終わった。

※7 康有為(こうゆうい 1858生-1927没)は、広東省出身の思想家、政治家。

光緒新政(1901-11年)註425-5

1901年1月、義和団の乱による列強連合軍の北京進駐により西安に待避してきた光緒帝と西太后は、制度改革の方針を発表した。改革は2年前の戊戍変法と同様に立憲君主制を軸とする近代国家の建設であり、次のような改革が行われたが、改革途中の1908年11月に光緒帝と西太后が相次いで死去した。

(4) 辛亥革命と清朝滅亡(1912年)註425-6

光緒新政は、満州人中心の政府を作ったり、民間の鉄道会社を接収して国有化を図ったり、と華中・華南の経済人などに評判が悪かった。1911年10月、華中の武昌で孫文をリーダーとする共和派の革命団体が蜂起した。蜂起は華中・華南に波及し、1912年1月に孫文は中華民国の成立を宣言した(辛亥革命)。しかし、華北ならびに東北部は清朝が統治しており、列強も清を承認していた。イギリスの斡旋もあって、この時の清朝政府の総理大臣だった袁世凱と中華民国政府との交渉によって、清朝の皇帝を退位させ、袁世凱が中華民国総統に就任することで決着がつけられた(1912年2月)。ここに、300年にわたった清朝は滅亡した。


コラム 黄禍論

義和団の乱で欧米諸国を派兵へと衝き動かした共通のイデオロギーとして「黄禍論」があることは確かである。

黄禍論とは、「白色人種の黄色人種に対する恐怖、嫌悪、不信、蔑視の感情を表現したもの」で、粗野な人種差別主義であるが、20世紀前半に強い反響を獲得したのは動かしがたい事実である。

その起源になったのは、1895年にドイツのヴィルヘルム2世がロシアのニコライ2世に宛てた一連の書信にあると言われている。ヴィルヘルム2世が贈呈した版画*1は、紅蓮の炎をあげる龍に座した仏陀が海上を進撃してくるのに対して、岸壁には大天使ミカエルとヨーロッパ列強を象徴する女神たちが武装してこれを迎撃しようとしている画であった。同封の手紙には「アジアの教化」という言葉もみられ、英仏にみられた「文明化の使命」論と類似の優越意識も見え隠れする。

*1 黄禍論を象徴するこの版画は、Wikipedia「黄禍論」に掲載されている。

皇帝が意図したのは、ロシアの目を東方へ向けさせ、またドイツ国内に対しては義和団の乱に対するドイツの干渉を正当化して国民統合をはかるなど、政治的な機能を担ったもの、と考えられている。

しかし、19世紀後半以降にアメリカで燃え上がった黄禍論は性質が異なっていた。この時期、アメリカ西部には中国や日本の労働者が大量に流入し、低賃金で勤勉に働く彼らは、職にあぶれた白人労働者の強い反発を招き、排斥運動は激しさを増していった。サンフランシスコでの日本人学童の隔離騒動(1906年)から、排日移民法(1924年)に続く諸過程は排斥運動の政治的・社会的表現であった。

日本や中国ではこうした黄禍論に対して民族主義が覚醒されたが、日本の場合、それは中国・アジアとの連帯を語りつつ、その実は中国への介入を正当化するための論理として利用された。すなわち、白人の攻勢に対するアジアの防衛こそが黄色人種の盟主たる日本人の任務、とみる「アジア主義」につながるものであった。

黄禍論は、白人による世界秩序が揺るがされていることへの危機感が表われたものであるが、それは非欧米世界の中から自立し抵抗する勢力が登場してきた情況に対する恐怖にあるだろう。それはまた日本人の非欧米世界に対する態度の歴史と現状に重なるものに他ならない。

(参考文献: 歴史学研究会編「強者の論理」(杉原達「黄禍論」),P181-P191)


4.2.5項の主要参考文献

4.2.5項の註釈

註425-1 日英同盟

歴史学研究会編「強者の論理」,P159 中山「同上」,Ps1785-・Ps3051- 木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P225-P226

{ イギリスは、ドイツに接近し1900年10月16日に「揚子江協定」なるものを結んだ。この協定でイギリスがドイツに期待していたのは、極東でのロシアの侵略を阻止するための防波堤の役割であった。しかし、ドイツは協定条文にある「両国が影響力をおよぼしうるかぎりの全清領土」に満州は含まれていない、と考えた。これではイギリスの期待にはこたえていないことになる。
揚子江協定の発表後、日本はイギリスとドイツに対して協定への参加を打診し、両国の承認を得た。日本のこの積極的意志を考えれば、イギリスが日英同盟に前向きになるのは当然のことであった。}(中山「同上」,Ps1781-<要約>)

{ 当時、日本政府内では、満州をロシアの、韓国を日本の勢力範囲とすることでロシアとの協調を図ろうとする元老の伊藤博文・井上薫らの日露協同派と韓国や満州におけるロシアの勢力と対抗するためにイギリスと結ぶことを主張する元老の山県有朋や桂太郎首相、小村寿太郎外相らの日英同盟派で意見が分かれていた。日露協商と日英同盟の交渉は、時期を同じくして進行していたが、前者の満韓交渉は、韓国でも日本より優位に立っていたロシアに無視され、日英同盟論者たちの方が政府部内でも優勢を占めるようになった。}(歴史学研究会編「同上」,P159)

註425-2 日露戦争

歴史学研究会編「強者の論理」,P160-P165 中山「同上」,Ps3152- 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P106-P110

{ 日露戦争の戦場には清朝の発祥地である満州が含まれていたが、清は1904年2月12日に中立を宣言した。清はロシアの満州撤退を望んでいたので、日本支持に傾いていた。また、清は満州地域の官憲にも中立を指示したので、鉄道運航、人馬徴収、食料調達の面で、ロシアは満州で困難に直面した。その意味で、清の中立は、日本への「友好的中立」であり、「厳正中立」ではなかった、と見る向きもある。
結局は日本がロシアにかわって南満州を占領したので、日本への批判も強まった。}(川島「同上」、P58-P59)

{ フランスは、露仏同盟(1894年)をドイツに対抗することに意義づけていたゆえに、ロシアが極東の戦争で国力を消耗することを望まなかった。フランスは戦争続行を融資をもって援助することは困難であり、アメリカの和平斡旋を受諾するよう勧告した。
ドイツは皇帝ヴィルヘルム2世がロシアのニコライ2世にアメリカの周旋に応ずるよう勧告した。ドイツとしては、このまま戦争が続行すると英仏が調停に乗り出し、それが成功すると英仏露日の4国が接近して世界政治が左右されることを恐れたのである。}(岡「国際政治史」,P126-P127<要約>)

註425-3 清朝の近代化

吉澤「同上」,P102 川島「同上」,P5・P13-P17・P71・ 田中他「図説 中国近現代史」,P32

註425-4 戊戍変法

田中他「図説 中国近現代史」,P48-P50 川島「同上」,P34-P35

註425-5 光緒新政

川島「同上」,P63-P79・P112-P123 田中他「図説 中国近現代史」,P60-P64

{ 1907年8月、清は日本、イギリス、ドイツに3人の大臣を派遣して立憲政体について調査させた。調査の本命は日本で、日本を調査した大臣の報告書は「憲法を欽定にして国体を強固にし、皇帝の地位を安泰にすべきこと、内閣と憲法を設けてから国家を開設すべきこと」を主張した。…
1908年8月27日、清は憲政予備の詔を発布し、9年以内に憲法を制定し、議会を召集することとし、欽定憲法大綱を示した。その冒頭には「大清皇帝は大清帝国を統治し、万世1系にして永永に尊載される」とあり、これは「大日本帝国は万世1系の天皇之を統治す」とある大日本帝国憲法を範としたことを示している。}(川島「同上」,P114-P115<要約>)

註425-6 辛亥革命と清朝滅亡

川島「同上」,P131-P142 田中他「図説 中国近現代史」,P66-P68

{ 列強は袁世凱支持を明確にし、南京の中華民国政府を承認しない姿勢を示した。当時、中央政府の財源となる関税を徴収する税関は、列強が管理していたため、南方の税関収入もまた南京政府に入るわけではなかった。打倒清朝を優先し、臨時大総統を孫文から袁世凱に譲ることを肯定する向きが優勢になっていった。袁世凱もまた、清朝皇帝の退位を模索するようになった。
清の側では、皇帝護持を掲げる者もいたが、袁世凱の意向をうけた軍人や在外公使らが皇帝退位を求める上奏をおこなった。1912年2月12日、袁世凱および南京の臨時参議院の承認した清の皇室優待条件などと引き換えに、清の最後の皇帝である宣統帝溥儀は退位した。}}(川島「同上」,P139-P140<要約>)