日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.2 帝国主義の時代 / 4.2.3 アジアの植民地獲得競争

4.2.3 アジアの植民地獲得競争

この項では、東アジア(日本や中国)とフィリピン以外のアジア地域の植民地獲得競争について述べる。
アジアには古くから中国やインドのような大帝国があり、香辛料や茶、金銀などヨーロッパ人にとって魅力的な商品がたくさんあった。15世紀末にバスコ・ダ・ガマがインドに到達して以来、ヨーロッパ人はもともとあった交易網を利用して貿易を行っていた。

19世紀になると植民地獲得競争が始まるが、イギリスがインドを中心に圧倒的な強さを誇り、オランダはインドネシア、スペインはフィリピンを保持していた。そこに参戦してきたのがロシアとフランスで、ロシアは中国北方と中央アジア、フランスがインドシナ半島に進出した。19世紀後半にはドイツも参戦するが、獲物はわずかだった。

図表4.7 アジアの植民地(20世紀初頭)

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出典)木畑「20世紀の歴史」,P22、小川他「国際政治史」,P59をもとに作成。(「領地」には保護国も含む)

(1) インドとその周辺註423-1

イギリスが東インド会社を設立してインドとの交易に乗り出したのは1600年のことだった。以降、アジアから香辛料、茶、キャラコ(綿製品)などを輸入する拠点としてきたが、1757年のブラッシーの戦いを契機にインド各地で戦争をしかけ、直接支配にのりだした。産業革命後19世紀になると、インドは原料供給と工業製品の販売市場として期待された。1858年ムガール帝国は滅亡し、東インド会社も廃止、政府による支配に変わり、1877年にはヴィクトリア女王を元首とする「インド帝国」となった。

イギリスはインドを拠点にして、東と西に植民地を拡げていく。東は、1824年オランダとの協約(英蘭協約)により、マレー半島のシンガポールなどを領有、1874年にはマレー半島の3つの土侯国の保護権を獲得して植民地化した。ビルマ(現ミャンマー)には原住民の王朝があり、その国王はフランスに近づこうとしたが、1886年イギリスは適当な理由をつけて軍を侵攻させ、ビルマ国王を捕えて、ビルマをインド帝国に併合してしまった。

西では、南下するロシアを牽制するためにアフガニスタンを保護国化した(1881年)

(2) フランス領インドシナ註423-2

フランスは17世紀に東インド会社を設立し、インドに拠点を設けて活動したが、七年戦争(1756-63年)でイギリスに敗れ、東インド会社も活動を停止した。

フランスがアジアにおける植民地獲得を始めるのはナポレオン3世(1808生-73没)の時代である。1858年、宣教師2人の処刑を理由としてスペインと共同でベトナム中部ダナンに出兵、翌59年には南部のサイゴン(現ホーチミン)を占領、1862年にはベトナムのグエン朝との間でサイゴン条約を締結して、南部メコンデルタに「コーチシナ植民地」を形成した。

その後、フランスは1863年にカンボジアを保護国化、1874年には第2次サイゴン条約により、ハノイへの領事館設置やハノイを流れるソンホン川(紅河)の通商権などを獲得したが、清朝は「ベトナムは清朝の属国である」と主張して、両者の議論は平行線をたどった。

フランスは1882年にハノイに軍を進め、清朝軍と戦闘になった。1883年フランスはグエン朝とフエ条約(アルマン条約)を結んでベトナム全体を保護国化し、いったん戦闘はおさまったが、84年6月両軍は再びベトナム北部で戦火を交えることになった(清仏戦争1884-86年)。フランスは艦隊を派遣して清朝の福建艦隊を壊滅させ、台湾にも侵攻しようとしたが清朝軍に阻止された。1885年の天津条約で清朝のベトナムに対する宗主権は否定され、フランスは獲得した地域を1887年にフランス領インドシナ連邦として統合、総督府を設置した。1893年にはラオスもそこに組み込まれた。

なぜタイは独立を保持できたのか?

{ (東南アジアで) 唯一植民地化を免れたのはタイである。その理由として一般に言われているのは、イギリスとフランス両勢力の緩衝地帯としての存在意義であるが、そのほかにラーマ5世が西欧化によって近代的な中央集権国家体制をいち早く達成していたことが指摘されている。}(歴史学研究会編「強者の論理」,P60)

(3) オランダ領東インド註423-3

オランダは古くからアジアやアフリカへ進出していたが、19世紀半ばにアフリカからは撤退し、現在のインドネシア地域の植民地経営に集中することにした。

19世紀初めまで、オランダが支配するのはジャワ島とモルッカ諸島であったが、1824年のイギリスとの英蘭協約で、オランダがスマトラ島などを領有するかわりに、マレー半島はイギリスのテリトリーとなった。

ニューギニアは熱帯雨林と湿地帯が大半を占め、ヨーロッパ人を惹きつけることはなかったが、1884年12月ドイツはニューギニア東北部を占領し、これに対抗してイギリスもニューギニア東南部を占領した。1885年には、オランダが西半部、イギリスは東南部、ドイツは東北部の3ブロックに分割された。つづいて、ドイツは近くの島々の獲得に乗り出し、ビスマルク諸島と名づけられる島々やソロモン諸島などを手に入れた。

(4) ロシアの中央アジア進出註423-4

ロシアは16世紀後半からウラル山脈を越えてシベリアに進出し、17世紀半ばまでにべーリング海峡、オホーツク海にまで達し、植民を開始した。1689年清国との間でネルチンスク条約を結んだが、この時点でアムール川流域は清国領であった。

19世紀になるとペルシア領だったカスピ海西岸地方(カフカス※1)に侵出し、1858年チェチェンを降伏させ、1861年にカフカス地方を平定した。

中央アジア※2では、1868年から76年にかけて西トルキスタンにあったイスラム王朝を次々と征服し、1881年の戦いで遊牧トルクメン人を粉砕して中央アジアの征服を完了した。しかし、これはインドを植民地としていたイギリスとの緊張を高めることになった。

※1 カフカスは、カフカース、コーカサスともいう。黒海とカスピ海に挟まれ、南はトルコとペルシャになる。現在、この地域にはロシア連邦のほか、チェチェン共和国、アルメニア共和国、ジョージアなどの国がある。

※2 中央アジア≒西トルキスタンとは、現在のカザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどの国々をさす。なお、東トルキスタンは現在の中国新疆ウィルグル自治区である。


コラム 見世物になった植民地人

1851年のロンドン万博から始まった万国博覧会では、植民地の物産や建物などが展示されたが、1894年リヨン、1906年マルセイユで開かれた「植民地博覧会」では、会場に植民地パビリオンが建てられ、植民地原住民が軍事パレードや「野蛮生活の実演」などの催しに出演し、植民地征服の栄光・文明化の諸事業・原住民の忠節などが開示された。

1904年にアメリカのセント・ルイスで開催された万博では、千人を超える実際のフィリピン人が「展示」された。彼らはルソン島の山岳民、イゴロット族の人たちで、全裸に近い姿で日々舞踊を披露し、また見物客の前で屠畜や犬食のパフォーマンスを強要された。

パリでは博覧会以外でも一般国民が植民地人とりわけ黒人を直接見る機会は少なくなかった。ブローニュの森の動物順化園や巡業の見世物小屋では、黒人が野生動物並みの「野蛮な生き物」として入場者の好奇な目にさらされていた。サーカスやキャバレーに出演する黒人も、多くの場合その売り物は、肌の黒さと目鼻立ちの「異様さ」、そして動きの滑稽さだった。

こうした見世物などを通して、白人国の一般民衆の間には白人の優秀さと植民地人の野蛮と劣等性を浸透させることとなり、「帝国意識」が醸成されていった。

(参考文献: 服部・谷川「フランス近代史」,P173、中野「20世紀アメリカの夢」,P33)


4.2.3項の主要参考文献

4.2.3項の註釈

註423-1 インドとその周辺

東インド会社の設立からインド帝国成立までの詳細は、2.2.1項~2.2.2項を参照。

{ (ビルマの)ミンドン王の次に即位したティーボー王はイギリスとの関係を慎重に扱わず、むしろフランスと結ぶ動きをみせた。そこで、イギリスは森林伐採をめぐる紛争をきっかけとして、1885年に軍を動かして王都マンダレーを落とした。… こうしてイギリスはビルマを英領インドに併合した。
(ビルマの)コンバウン朝は清朝に朝貢していたうえに、ビルマがイギリスに支配されるようになると英領インドと雲南省は国境を接することになる…
清朝は … (イギリスと)交渉を進め、1886年7月、「ビルマとチベットに関する協定」が北京で合意された。これは、清朝の体面を重んじて、旧例にならい10年に一度、ビルマから清朝への朝貢を続けることを規定している。他方で、清朝のほうはイギリスのビルマ支配を認めることになっていた。}(吉澤誠一郎「清朝と近代世界」,P191)

註423-2 フランス領インドシナ

フランス東インド会社については2.2.1項を参照。

註423-3 オランダ領東インド
註423-4 ロシアの中央アジア進出