日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.2 帝国主義の時代 / 4.2.1 帝国主義のはじまり

4.2 帝国主義の時代

帝国主義(imperialism)とは、「他国・他民族を征服しようとする膨張主義的政策」、と定義されることが多い註421-1。こうした行動は、古代・中世の帝国においても、また現代においてもみられるが、「帝国主義の時代」としては、列強による植民地獲得競争が激化した19世紀後半から第一次世界大戦あたりまでを指すのが一般的である。始まりについては、露土戦争後のバルカン問題を議論した1878年のベルリン会議、もしくはアフリカ・コンゴに関する列強間の利害調整と植民地開拓の国際ルールを決めた1884年のベルリン会議とすることが多い。この節では、主として1880年前後から20世紀初頭あたりまでの列強の植民地獲得競争(世界分割競争ともいう)を対象とする。

なお、ここでは植民地の地名がたくさん登場する。本来は当時の呼称を使うべきであろうが、わかりやすさを考えて、原則として現在の地名(国名、地方名、都市名)を使用する。

図表4.4 帝国主義の時代

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4.2.1 帝国主義のはじまり

(1) 「帝国主義」という言葉の起源註421-2

イギリスのある評論雑誌の1878年12月号に掲載された論文に次のような文章がある。
「我々は、最近ひろまった帝国主義という言葉に当惑させられている。… 今まで我々は、帝国の利害とか帝国的政策とかいうことについては聞いていたが、 しかし帝国主義というのは、新しい概念である」。

ここでいう「帝国主義(imperialism)」とは、従来イギリスが採用してきた「自由貿易主義」に対して、植民地を含めた「帝国的団結」を重視し、帝国の膨張政策を主張するものであった。それは自由貿易に対する自信を背景に植民地縮小論=小英国主義を主張してきたグラッドストンらの「自由党」が1874年の総選挙で敗れ、植民地政策に積極的な保守党が政権を握ったこととも関連していた。

(2) 背景と原因

帝国主義が登場してきた背景や原因には、下記のようなことが複合的に関連している。

大不況と政治的危機註421-3

19世紀末に欧米列強が植民地獲得競争を始めるきっかけになったのは、1873年にヨーロッパを襲い19世紀末まで続いた「大不況」だと言われている。ドイツやアメリカなどの新興工業国の急速な工業化と、アメリカやカナダなどの農産物がヨーロッパ市場に大量に出回ることによって、価格の下落、ダンピング競争、関税競争などが起きた。大不況は、労働者のストライキ、国粋主義ナショナリトの台頭、などを呼び起こし、各国内政の不安定化を招来した。

資本主義が抱えた課題註421-4

イギリスの経済学者ホブソンは、この大不況の原因について、資本主義社会における過度な貯蓄と過度な投資が、過剰生産と余剰資本を生み出し、それが列強による植民地・領土の拡張政策を促進した、とする。ホブソンの説を批判的に取り入れたレーニンは、この時期の資本主義を商品ではなく資本の輸出が中心となる「独占資本主義」と規定し、資本の輸出先をめぐって列強が競合し、それが植民地・領土の獲得競争につながった、という。

英仏独など西欧諸国は資本主義が発達していたので獲得した植民地には自国の産業資本が進出していったが、ロシアやオーストリアでは資本主義が未発達のため、課税など政治的手段によってその地域の富を収奪することに重点が置かれた。

ドイツ・イタリアの統一が影響註421-5

政治史が専門の岡義武(1902生~1990没)は、ドイツとイタリアの独立が植民地獲得競争を加速した、という。すなわち、独・伊は統一により資本主義が発展してヨーロッパ外部に市場ならびに原料供給地を求めたが、領土拡大は統一によって高揚した民族感情を刺激することにもなった。一方、統一により領土を減らしたオーストリアは、それを補填するためにバルカン半島への侵出を目指し、フランスもまたヨーロッパ外に植民帝国を建設することによってヨーロッパにおける地位の低下を補おうとした。同様にイギリスもドイツなどに奪われたヨーロッパの市場をヨーロッパ外に求めてさらなる膨張を目指した。

その他の説

一方で、「植民地・領土拡張の目的は世界戦略の問題であって、経済問題ではない」と主張する説もある。例えば、イギリスがエジプトに拘ったのは、インドへのルートを確保するのが目的だった。また、ドイツでは国内の支配秩序を確保するための手段として植民地開拓が行われた註421-6
ほかに、列強の側だけでなく、分割される植民地側のプロセスからも、政治的・経済的諸要因を複合的にとらえようとする説もある註421-7

(3) 帝国主義の正当化とジンゴイズム註421-8

欧米列強は「植民地に文明をもたらしているのだ、植民地経営は白人が担うべき責務である」といった白人優越意識にもとづく帝国主義正当化論もさかんになった。
また、大衆のあいだには自省的観点を排除したジンゴイズム(熱狂的愛国主義)がひろまり、政府はこうした世論に押され、国家のメンツをかけて植民地獲得競争が過熱していくことになる。

ヨーロッパ列強のヨーロッパ外への進出は、15世紀末から始まる大航海時代にまで遡るが、帝国主義がはじまるまでは、物産の交易又は略奪、もしくは余剰人口の植民が主たる目的であった。しかし、帝国主義の時代になると、上述のように大航海時代とは異なる経済的理由やナショナリズム、国家の威信のための領土拡大などの理由も加わってくるのである。

(4) 競争から脱落した国々註421-9

ここからは、植民地獲得競争に参加した国々について概観する。
まず最初は、大航海時代に新天地を開拓したものの、その後の国力の衰えにより、次第に植民地を減らし、帝国主義の時代には既存の植民地の防御に精一杯で新たな植民地獲得の競争には参加できなかった国々である。

・スペイン; コロンブスのアメリカ大陸「発見」(1492年)以来、南北アメリカ大陸やフィリピンなどに植民地を保有してきたが、アメリカ大陸の大部分は19世紀半ばまでに独立を果たし、フィリピンも1898年のアメリカ合衆国との戦争(米西戦争)で奪われた。しかし、19世紀末には北西アフリカなどに侵出し、現在の西サハラ地区やモロッコの一部地域などを領有した。

・ポルトガル; バスコ・ダ・ガマがインド大西洋航路を開拓し、アジアとの交易で栄えたが、アジアの拠点はオランダやイギリスに奪われ、南米ブラジルも19世紀前半に独立した。残ったマカオ、インドの一部、アフリカの一部などを維持するのが精一杯であった。

・オランダ; 最大の植民地はポルトガルから奪って香辛料貿易の拠点となったオランダ領東インド(現在のインドネシア)であった。ほかに南アフリカ、北米、スリナム(南米ギアナ)、スリランカなどが残っていたが、北米は17世紀にイギリスに奪われ、帝国主義の時代に南アフリカやスリランカもイギリスに奪われた。

(5) 主要なプレイヤー

帝国主義の時代に中心的存在となったのは、この時代以前から植民地や領土の拡大を進めてきたイギリス、フランス、ロシアの3カ国である。

・イギリス; 19世紀初頭において、イギリスの主要な植民地はインド、北米・中南米、オーストラリア、アフリカ、など世界各地にあり、帝国主義の時代にあっても主役をつとめた。アフリカでは北のカイロから南の喜望峰を結ぶ地域を縦断的に確保しようという戦略でローデシア、英領東アフリカ(現在のケニア、ウガンダなど)、スーダン、エジプトなどの他、西アフリカのナイジェリアなども獲得した。
アジアではインドから、西のアフガニスタン、東のビルマ、マレーシア、中国などに侵出したが、ロシアの南下政策には気をつかった註421-10

・フランス; 17世紀に北米・中南米に進出したのを皮切りに、アジアやアフリカにも交易拠点を作った。19世紀以降に力を入れたのは、アフリカではアルジェリア、モロッコ、西アフリカ、マダガスカルなど、アジアではベトナム、ラオス、カンボジアなどのあるインドシナ半島である註421-11

・ロシア; 15世紀にモンゴル勢力を追い払ったモスクワ大公国は、次第に領土を拡張し、18世紀までに西はベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、東はベーリング海峡を越えてアラスカ※1まで併合していた。19世紀以降のロシアの領土拡大は、いわゆる南下政策として行われた。東では、1860年にアムール川左岸と沿海州を清国から奪い取り、西では中央アジア、アフガニスタン北部、南コーカサス地方などを支配下に置いていった註421-12

※1 アラスカは、1867年にアメリカ合衆国に売却。

(6) 新規参入組

帝国主義の時代に新たに植民地獲得競争に参入してきた主な国は、次の4カ国である。

・イタリア; 1881年のフランスによるチュニジア侵攻に触発されたイタリアは、ドイツ、オーストリアと3国同盟を結び(1882年)、紅海沿岸のエリトリアを確保、つづいてソマリランドも確保した(1889年)。1912年にはトルコとの戦争に勝利してリビアを獲得、1935年にエチオピアと戦って勝利し、エリトリア、ソマリランドと合わせてイタリア領東アフリカとして統合した註421-13

・ドイツ; 1884年のベルリン会議の前後に、ドイツは南西アフリカ(ナミビア)、東アフリカ(タンザニアなど)、東南アジア(ニューギニア北部)を植民地化し、その後西アフリカ(カメルーンなど)やソロモン・ミクロネシア・マリアナなど南太平洋の諸島を植民地化した註421-14

・日本; 日清戦争(1894-95年)で清国に勝利した日本は、台湾や澎湖諸島などを獲得、李氏朝鮮に対する清国の宗主権を放棄させて朝鮮半島への影響力を強めた。義和団事件(1900年)で存在感を示し、日露戦争(1904-05年)に勝利して満州の利権や樺太南部を獲得し、列強の一角にのし上がった註421-15

・アメリカ; 米西戦争(1898年)でスペインに勝利したアメリカは、スペインの植民地だったフィリピン、グアム島、プエルトリコなどを獲得し、キューバも実質的な支配下においた。また、同じ年にハワイを併合している註421-16


コラム ホブソンの帝国主義論

ホブソン(John Atkinson Hobson 1858-1940年)は、イギリスの経済学者で、代表的な著者に「帝国主義論(Imperialism: A Study<1902>)」があり、レーニンやケインズに影響を与えた。彼の帝国主義論は、「過小消費説」と余剰資本の海外投資をめぐる「金融資本論」で構成される。

帝国主義は植民地と本国との商品の貿易を増やすことにはならず、商業的価値はない。また、イギリスが新たに獲得した地域への移民も低調である。帝国主義の恩恵を受けたのは、大規模製造事業者、海運業者、軍人・官僚・農園主・技術者・宣教師など上層階級の人々だけである。投資家の利益が図られるなかで、それを仲介する銀行家など金融業者が国際的な資本主義の中心的存在として、自己の利益を追求した。その一方で、所得格差は拡大して大多数の国民の消費水準は低迷し、「過小消費」状態となっている。つまり、帝国主義とは、「国内で販売・使用することのできない商品および資本を取り去るために水路を広げようとする大資本家層の努力である」と結論づける。

そして、これは富の分配の不均衡、国内の購買力不足から生じているのであり、それを矯正するためには社会改革が不可欠である、と主張する。

ホブソンは「帝国主義論」の第2部で、政治・道徳・イデオロギー・文明史観など、「帝国主義の社会史」ともいえる広範なテーマを扱っている。彼は、本国の専制政治が帝国規模で拡大され、帝国諸地域で政治的自由、市民的自由を多少なりとも持つ者は全市民の5%以下に過ぎない。本国では軍国主義的風潮が強まり、政府に行政権が集中して立法権が従属的になっている、という。

彼はまた、帝国主義の思想的・道徳的背景を分析し、支配層による帝国主義の美化・歪曲化をとりあげる。そして、帝国主義のとくに重要な要因として、イギリス国教会・大衆新聞・学校教育・大学によって形成される一般民衆の「ジンゴイズム」(熱狂的愛国主義)をあげ、自己批判のできない盲目的で危険な状況を批判する。彼はその打開策として、「ヒト・モノ・情報の緊密なやりとり」を通じた国際主義の形成に期待を寄せる。

さらに、イギリスによるインドの統治は伝統的な手工業の衰退や村落の破壊をもたらしただけで、インドの「文明化」にはまったく貢献していない。だが、中国では鉄道建設や鉱山開発等を通じて「工業化」が進展している、と評価しつつ、その過程で伝統文化や民族的秩序の基盤が破壊されている、と指摘した。このようにホブソンは、西洋人によるアジア支配は「帝国主義の無上の罪悪・愚行」とみなすが、かといって「劣等(後進)人種」の保護、育成は当然である、と考えていた。

(参考文献: 歴史学研究会編「強者の論理」(秋田茂「帝国主義批判の思想」),P213-P224)


4.2.1項の主要参考文献

4.2.1項の註釈

註421-1 帝国主義とは

・軍事上・経済上、他国または後進の民族を征服して大国家を建設しようとする傾向。(広辞苑)

・帝国主義という言葉はきわめて多義的に用いられる。広義かつ一般的には … 政治的、経済的、軍事的、さらには文化的な権力・権威をもってする他民族の領土や国家への侵略と支配、を意味する。 … 列強資本主義諸国による世界市場支配と植民地獲得をめぐる経済上の対立と紛争に関連して用いられるのが一般的な傾向となった。(コトバンク〔日本大百科全書〕)

註421-2 「帝国主義」という言葉の起源

中山「帝国主義の開幕」,Ps565-

{ 「帝国主義」は、植民地問題に対して無関心だった当時のイギリス政府や一般世論に抗議する人々、特にオーストラリアやカナダやイギリス本国の一部の植民地主義者などの運動や主張のことを指していた。この運動や主張の推進者たちは、誇らしげに自らを「帝国主義者」と称していた。
これが帝国主義という言葉の起源的な意味であるが、それはまったくイギリスだけの特別な現象に対して与えられ、いわばイギリス帝国の行政問題に関わる言葉にほかならなかった。}(中山「帝国主義の開幕」、Ps576-<要約>)

註421-3 大不況と政治的危機

歴史学研究会編「強者の論理」,P14-P40〔吉岡昭彦「大不況とヨーロッパ列強」〕

{ 大不況は誰も解くことができない問題を提起し、さまざまな体制変革運動を引き起こすことによって、それに連動する帝国主義政策を生み落とすことになった。}(同上、P20)

註421-4 資本主義が抱えた課題

歴史学研究会編「同上」,P44(富永智津子「世界分割とアフリカ・東南アジア・オセアニア」) 岡義武「国際政治史」、P91

{ 独占、寡頭制、自由への熱望にかわる支配への熱望、少数のもっとも富裕なあるいはもっとも強力な民族による、ますます多数の弱小民族の搾取――すべてこれらが、帝国主義を寄生的あるいは腐朽しつつある資本主義として特徴づけさせる帝国主義の諸特徴をうみだしたのである。}(レーニン「帝国主義」,P201)

{ レーニンは、この時期の資本主義を「金融資本による独占資本主義の段階」と規定した。それまでの資本主義が商品の輸出を対象としていたのに対し、独占資本主義は資本の輸出が中心となるからである。… しかし、資本輸出の対象とならないような地域までもが、なぜ分割の対象になったか、という疑問への回答をこの学説から導き出すのは難しい。」(歴史学研究会編「同上」,P44-P45)

註421-5 ドイツ・イタリアの統一

岡義武「国際政治史」,P92-P95

{ 帝国主義は、その典型的な形においては、民族国家の対外的膨張であり、そしてその主要な推進力は資本主義であるということができる。}(岡「同上」,P95)

註421-6 世界戦略としての対外膨張政策説

歴史学研究会編「同上」,P45(富永智津子「同上」)
この学説の提唱者は、アメリカの歴史家ギャラハーやドイツの歴史家ヴェーラーらである。

註421-7 分割のプロセスを重視した学説

歴史学研究会編「同上」,P45-P46(富永智津子「同上」)
この学説の提唱者は、イギリスの歴史家ホプキンズである。

註421-8 帝国主義の正当化とジンゴイズム

小川・板橋・青野「国際政治史」,P56-P58

{ 未知の世界を「発見」した探検家は「未開」「野蛮」として紹介し、それを消滅させるべく情熱を傾けたのが、探検家に続いて現地入りしたキリスト教宣教師たちであった。なかでもプロテスタントの福音主義諸派の宣教師たちにこの傾向が強くみられた。…
「劣った人種」を「文明」の高みに引き上げることが「白人の責務」であるという考えがイギリスを中心に定着していった。この考えを実行に移すもっとも効果的な方法は、非ヨーロッパ地域を「植民地化」して「原住民」を「教育」することであり、そのためには、新たな侵略や軍事的制圧もやむをえないとされたのである。}(歴史学研究会編「同上」,P68<要約>)

註421-9 競争から脱落した国々

Wikipedia「スペイン帝国」,「ポルトガル海上帝国」,「オランダ海上帝国」

註421-10 イギリスの植民地獲得

中山「同上」,Ps582-,Ps742-,Ps793-

註421-11 フランスの植民地獲得

中山「同上」,Ps675-,Ps755-,Ps823-

註421-12 ロシアの領土拡大

中山「同上」,Ps609-,Ps667-,Ps818-

註421-13 イタリアの参入

中山「同上」,Ps701- 北村「イタリア史10講」,Ps2366-,Ps2657-

イタリアは1896年にエチオピアに戦争を仕掛けたが、敗退している。

{ 1935年10月にはエチオピアへの軍事侵攻を開始する。エチオピアは国際連盟の発足当時からの加盟国であり、加盟国への侵略行為により、国際連盟から経済制裁をうけることになった。…
エチオピア戦争による国際的孤立を経験して、イタリアはナチが政権を掌握していたドイツに急速に接近していく。}(北村「同上」,Ps2666-)

註421-14 ドイツの参入

中山「同上」,Ps707-,Ps774-,Ps793-

{ 1884年に突如として動き出したこのドイツの膨張政策は、列強のなかの両雄であるイギリスとフランスの領域争いに油を注ぐことになる。ドイツの進出が、イギリスの権益を脅かし、それを守ろうとするイギリスの動きがフランスを不安に陥れたからである。}(歴史学研究会編「強者の論理」,P58)

註421-15 日本の参入

中山「同上」,Ps1267-

{ 当時、どの国でも一般の人々は、日本は最初のうち朝鮮で2,3の勝利をおさめるかもしれないが、結局は清国がその優勢な海軍と難攻不落の旅順要塞と … によって勝利を得るであろう、と信じていた。}(中山「同上」,Ps1280-)

註421-16 アメリカの参入

中山「同上」,Ps1507-

{ (1898年12月の)パリ講和の最中、アメリカ国内ではフィリピン領有への反対運動が盛り上がった。… 反対派のマーク・トウェインらは、キューバ解放のための戦争が異民族を支配する帝国の建設になってしまったのはアメリカ民主主義の堕落だ、と主張した。 … しかしそれは、「白人の責務」として、米国が未開のフィリピンを民主化するという主張や、通商拡大による経済効果などの議論に押し切られてしまった。}(貴堂「南北戦争の時代」,P196<要約>)