日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.1 ビスマルク体制 / 4.1.2 アフリカ分割とバルカンの紛糾

4.1.2 アフリカ分割とバルカン問題

{ ビスマルクの主目的は、ヨーロッパ諸国のあいだの戦争を防止することであった。その理由は、彼が平和を愛好したからではない。列強の間の戦争は局地化されることができず、ドイツを弱体化させ、またおそらくはドイツ帝国を解体させるために、フランスあるいはロシアによってそれが利用されるかもしれないという、真に深刻な恐怖を抱いていたからである。
そこで、ビスマルクはできるだけ多くの国をドイツ中心の同盟や協商の網のなかに取り込もうと努めた。}(中山「帝国主義の開幕」,Ps428-<要約>)

(1) 独墺伊三国同盟(1882年)註412-1

フランスは1881年春、口実を作って遠征軍をフランス領アルジェリアからチュニジアに派遣し、あっというまに原住民を降伏させて、チュニジアの保護権を獲得した。

チュニジアの首都チュニスの目と鼻の先にはシチリア島がある。イタリアは、フランスをチュニジアから追い出すべく、イギリス、ドイツ、オーストリアなどに呼びかけたが、ベルリン会議(1878年)ではフランスのチュニジア占領を黙認する約束を与えており、完全に無視された。孤立感を抱いたイタリアは、不仲だったオーストリアやドイツに頭をさげてでも同盟を組むことにより、国際的な地位を向上させようとした。

同盟交渉は1881年の冬から春にかけて行われ、1882年5月20日三国同盟がウィーンで調印された。同盟条約は秘密条約とされ、5年の期限で、いずれかの国がフランスから攻撃を受けた場合に相互に援助することが約束された。
ビスマルクはこの条約にさしたる期待をしていなかったが、フランスとロシアを牽制するには役立った。

(2) アフリカ分割-ベルリン会議(1884年)註412-2

開催経緯

ベルギー王レオポルド2世はアフリカに興味をもち、1876年に「国際アフリカ協会」を創設、西アフリカ中央コンゴ川流域をアメリカの探検家スタンリに探検させ、原住民の酋長と契約して活動拠点を建設していた。かねてから沿岸部を開拓していたポルトガルは1882年コンゴ川河口地域に対する主権を宣言し、イギリスもこれを支持した。これを見たレオポルド2世は、フランスとドイツに救いを求め、ビスマルクはコンゴ問題を解決するための国際会議の開催を提案した。

結果

国際会議は、1884年11月から1885年2月までベルリンで開かれ、次のようなことが決定された。

・レオポルド2世の「国際アフリカ教会」は、コンゴ川の自由航行や商業の門戸開放などを条件にコンゴ川流域の大部分とその河口地域に対して主権を持つことを認められた。ベルギーは、1885年7月に「コンゴ自由国」を設立し、ゴムと象牙に富んだ90万平方マイルの広大な土地を獲得することになる。

・植民地は、最初に「実効ある占領」をした国が領有権を持つ、というルールが決められた。各国は先を争ってアフリカに進出し、1895年にはアフリカ全域の90%がヨーロッパ列強の植民地と化すことになる。

なお、列強によるアフリカの植民地化の具体的内容は4.2節で述べる。

(3) セルビアとルーマニアの憤慨(1881-83年)註412-3

舞台は再び、バルカンに戻る。
セルビアとルーマニアは、露土戦争(1877-78年)の際にそれぞれ自国がロシアに与えた協力に対して、ロシアは戦後、ブルガリアを拡大させるためにセルビアとルーマニアを犠牲にした、と恨みと憤りを感じていた。この怒りが、両国のオーストリアに対する過去の敵愾心を忘れさせ、オーストリアと同盟を結ぶことを決意させた。セルビアは1881年6月、ルーマニアは1883年10月にドイツも加えて同盟を締結した。

(4) ブルガリア問題(1885-87年)註412-4

露土戦争にロシアが勝利した結果、ブルガリアは自治が認められた公国となり、ロシア皇帝アレクサンドル2世の甥がブルガリア公アレクサンドルとなった。ロシアはブルガリアにとっては、恩のある国であるにもかかわらず、ブルガリア人はロシアに服従する気持ちはなかった。

1885年5月、トルコの支配下にあった東ルメリで反乱が起きるとブルガリア公アレクサンドルはこの州を自国に併合してしまい、ブルガリア人は喝采を送った。トルコは反発したが、イギリスの仲介で承諾せざるを得なかった。また、セルビアは「補償」を求めてブルガリアに宣戦したが、あっけなくブルガリア軍に敗れ、オーストリアが仲介してセルビアを窮境から救った。

さらに、1886年8月、ブルガリア軍の士官が決起してブルガリア公アレクサンドルを追放し、ドイツのザクセン・コーブルク家のフェルディナントを新しいブルガリア公に選んだ(1887年7月)。この人物はオーストリア軍の士官で親ドイツ、反ロシアとして知られていた。ブルガリアはこの後、急速に反ロシア化する。

こうした一連の動きにロシアはオーストリアとドイツへの憎しみをつのらせ、三帝協商は1887年で解消された。

(5) 独露再保障条約と地中海協定(1887年)註412-5

三帝協商が破棄され、ロシアがフランスと組むことを恐れたビスマルクは、ロシアと直接交渉してドイツ=ロシア間だけの「再保障条約」を締結した(1887年6月)。これは、一方が第三国から攻撃された場合、他方は好意の中立を守ることを約するものであった。ビスマルクはこの再保障条約締結を非常によろこび、極秘の覚書という形でロシアに過分なお礼を支払った。それは、ロシアのブルガリア問題処理に当たってドイツは特別な支持を与えること、及びロシアがダーダネルス、ボスポラスの両海峡ならびにコンスタンティノープルを攻撃する場合、ドイツは友好的中立を保つこと、である。

一方でビスマルクは、ロシアがダーダネルス、ボスポラスなどに手を出すことがないように、オーストリア、イタリア、イギリスの間を仲介して、「地中海協定」なるものを成立させた(1887年2月&12月)。これはバルカン半島の現状維持とトルコの領土保全を確認するものであった。

{ ビスマルクは片方の手でロシアに与えたものを、他方の手でロシアから奪い去ったことになるが、このあたりにビスマルク外交の本領があったとみるべきであろう。}(中山「帝国主義の開幕」,Ps544-)

図表4.3 1887年の同盟・協商関係

1887年の同盟・協商関係

出典)中山「帝国主義の開幕」,Ps541の図をもとに作成

(6) ビスマルク退場(1890年)註412-6

1888年3月9日、皇帝ヴィルヘルム1世は90歳でこの世を去った。後を継いだ皇太子フリードリヒ3世も在位99日間で病死し、ヴィルヘルム1世の孫ヴィルヘルム2世が1888年6月15日、即位した。壮大な野心を抱く29歳の若い皇帝と73歳の老練な宰相ビスマルクのあいだには、埋めきれない大きな溝があった。

ビスマルクが皇帝とその対応方法でぶつかったのは、社会主義者鎮圧法と1889年5月に炭鉱労働者がおこしたストライキだった。1890年3月になると、皇帝はビスマルクをひどく叱責するなどのいやがらせを行うようになった。3月18日、ビスマルクは長文の辞表を書き、皇帝はこれを受理した。

ビスマルクは、超大国になろうなどという野心は見せずに、英露両国と良好な関係を築こうとした。しかし、若き皇帝は大国ドイツを目指したかったのである。
ビスマルクが築いた国際秩序は長期的な視野から平和の時代を構築しようというものではなく、次々と生じる危機に臨機応変に対応する現実主義的手法であった。それでもビスマルクは危機の時代のヨーロッパそしてドイツに束の間の平和をもたらしたことは間違いない。しかし、ひとりの指導者が率いる大国の先導によって平和がもたらされるような時代は幕を閉じ、野心家の皇帝の登場とともに混迷の時代へと突入していくのである。


4.1.2項の主要参考文献

4.1.2項の註釈

註412-1 独墺伊三国同盟

中山「帝国主義の開幕」,Ps357- 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」、P283

{ ビスマルクはイタリア人を全然信用していなかった。「かれらは、大きい食欲を持っているのに、貧弱な歯しか持っていない」というのが、ビスマルクのイタリア人にたいする批評であった。}(中山「同上」,Ps419-)

註412-2 アフリカ分割-ベルリン会議

中山「同上」,Ps718- 君塚「同上」、P284-P285

{ フランス首相フェリーは、ベルリン会議に出席してイギリスへの対抗意識をあからさまに示し、英仏の対立を助長した。植民地問題では独仏の提携を進めるという、ビスマルクの思惑どおりに事態は進展していったのである。}(君塚「同上」、P284-P285)

<植民地分割のルール>(Wikipedia「ベルリン会議(アフリカ分割)」

・占領が認められるのはヨーロッパ人の活動を保障できる実効支配が行われていること

・ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつ。

{ 領土を併合する場合、現地の首長との「保護条約」や軍事力による占領といった現実的な支配権を有すること(「実効ある占領」)、これを前提として併合の事実を他の調印国に対して通告すること(…)が義務づけられた。}(歴史学研究会編「強者の論理」,P57)

註412-3 セルビアとルーマニアの憤慨

中山「同上」,Ps435-

註412-4 ブルガリア問題

中山「同上」,Ps467- 君塚「同上」、P285-P287

{ 1885年から87年にかけてのそれらすべてのできごとに関して、ロシアの世論は、それらをみなオーストリアとドイツの罪であるとして憤慨した。… 当時ロシアでもっとも影響力の大きいジャーナリストのひとりであった好戦的ナショナリストのカトコフは、フランスとの同盟をロシア国民に呼びかけた。}(中山「同上」,Ps490-)

註412-5 独露再保障条約と地中海協定

中山「同上」,Ps544- 君塚「同上」、P287-P288

{ ビスマルクをヨーロッパ国際政治における「希望の星」と称賛したイギリスのソールズベリ首相は、ビスマルク体制のアキレス腱がバルカンをめぐるオーストリアとロシアとの対立にあることも心得ていた。「ビスマルクが築き上げたダムは、年に一度は倒壊している」というソールズベリの言葉が、1887年の夏には言い得て妙の状態となっていた。}(君塚「同上」、P287<要約>)

註412-6 ビスマルク退場

君塚「同上」、P288-P292 中山「同上」,Ps854-

{ ビスマルク辞任後のドイツ帝国の航路は、もとの航路からはずれて新しい道へはいっていった。}(中山「同上」,Ps947-)