日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.8 アメリカ合衆国の光と影 / 3.8.3 再建と発展

3.8.3 再建と発展

南北戦争後の合衆国は、南部諸州が奴隷制の廃止を受け入れて連邦に復帰する再建期を経て、西部への領土拡大や爆発的ともいえる経済発展を迎えることになる。

この時期は国のかたちが変わっていく時代でもあった。すなわち、建国以来それぞれ主権を持つ州がゆるやかに連合する国だったのが、州の自治は尊重しつつ連邦政府を中心としたひとつの国民国家に変わっていく過程であった。その触媒となったのが奴隷制の問題だった、と言ってよいのではないだろうか。

図表3.26(再掲) アメリカ合衆国の光と影

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(1) リンカーンによる奴隷解放註383-1

奴隷解放の法制化

リンカーンは奴隷解放宣言(1863年1月)を憲法として成文化することを共和党に指示、1864年に憲法修正第13条として議会に提案された。この修正条項は「奴隷制および本人の意に反する苦役」を禁止するとともに、連邦議会が適切な立法により、これを実施する権限を持つことが規定されていた。

修正案は上院は通過したが下院では拒否されたため、リンカーンは活発な議会工作を行い、1865年1月にようやく議会の承認を得て、各州の批准にまわされた。

リンカーン暗殺(1865年4月)後、副大統領だったジョンソンが大統領に昇格し、この憲法修正第13条の批准を南部諸州が連邦に復帰することの条件としたため、北部のみならず南部の州からも批准する州が出て、1865年12月に全36州のうち27州が批准し、成立した。

解放民局の設置

奴隷から解放された人々に対して、食糧援助、医療活動、教育活動などを行う「解放民局」が連邦機関として、1865年3月に設置された。州民保護に連邦政府が介入するのは異例な措置だったが、この問題に連邦政府が積極的に関与する意思表明でもあった。この活動により、多くの解放奴隷や白人の貧民が餓死や病死から救われ、学校に通うこともできるようになった。

(2) ジョンソンによる合衆国再建註383-2

ジョンソンは南部テネシー出身の上院議員で、もとは民主党の所属だったがリンカーンの指名で副大統領になり、与党共和党の信任も厚かった。しかし、大統領に就任すると、州権擁護の政策をとるようになった。

ジョンソンは、1865年5月の布告で、連邦に忠誠を誓い、奴隷解放を受け入れることを条件に南部の白人に恩赦ないし特赦を与えるとともに、奴隷制の廃止、連邦離脱の取り消し、南部連合の負債破棄を謳った州憲法を制定することを条件に州政府の樹立と連邦復帰を許可した。

こうして復活した南部州政府には旧南部連合軍の支持者が多数含まれていた。そして、黒人取締法と呼ばれる法体系により、黒人の土地所有を制限するとともに、雇用されていない黒人や定住していない黒人を「浮浪者」として取り締まり、黒人たちをプランテーションの労働力として引き続き使えるようにした。

(3) 市民権法と憲法修正第14条註383-3

市民権法(1866年)

こうしたジョンソンの政策に反発した共和党議員らは、1866年に市民権法を議会に提出した。この法律は、「合衆国市民」の概念を始めて公的に定めたもので、法の下の平等、契約権や訴訟権、財産権などについて、人種や肌の色、奴隷であったか否かに関係なく連邦政府が保障し、州がそれを奪ってはならない、とした。この法に対して強固な州権主義者のジョンソンは拒否権を発動したが、1866年4月、共和党が多数派を占める議会はそれを乗り越えて成立させた。

憲法修正第14条(1866-68年)

共和党は市民権法を憲法に組み込むことで大統領の拒否権が及ばないようにしようと、憲法修正第14条を提案した。修正第14条は、次の4つの条項で構成されている。(下記は条文の主旨を意訳している)

憲法修正第14条は1866年6月に議会を通過し、各州の批准にまわされた。1868年7月9日に批准した州が28に達して成立した。

(4) 再建法と憲法修正第15条註383-5

再建法(1867年)

ジョンソン大統領と議会共和党の対立が激しくなる中、1867年3月、議会は再建法を成立させた。南部10州を5つの管区にわけて軍政下におくもので、これらの州が連邦に復帰するためには、州憲法の制定と有権者による承認、および憲法修正第14条の批准が求められた。
南部連合を構成した11の州は相次いでこれらの条件を受け容れ、1870年までにすべての州が連邦に復帰した。

ジョンソン弾劾(1868年)

ジョンソンは対抗措置として、軍政司令官数名と陸軍長官を解任したが、ここで議会との対立は頂点に達した。1868年2月、下院は大統領弾劾決議を可決したが、上院では否決されて、ジョンソンは弾劾を免れ、残り数カ月の任期を全うした。

グラント大統領(1868-76年)

1868年の大統領選挙では、白人至上主義の秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)による暴力行為が激化し、南部共和党員や黒人の投票が暴力的に阻止され、多数の死者をだした。しかし、選挙妨害は逆に北部の反感をかい、共和党のグラントが圧勝した。
グラント政権では新興金融資本等との癒着が起こり、贈収賄などの汚職事件が頻発したが、それでも共和党への支持は衰えず、1872年の2期目の大統領選挙にも当選した。

憲法修正第15条(1869-70年)

共和党は黒人の参政権を確保するために、1869年2月、憲法修正第15条を提出した。この修正は「人種や肌の色、奴隷だったことを理由に、州によって投票権を否定されてはならない」というもので、南部の4州が批准しなかったが、1870年2月に批准した州が28に達し、成立した。しかし、多くの州で投票の質を維持するために、識字能力や投票税などの投票資格を設定したので、黒人やアジア人、貧しい白人の投票は制限されることになった。

(5) 再建政治の終焉註383-6

奴隷解放を推進してきた共和党の勢いは翳りをみせてきていた。共和党を支持してきた北部人も1873年以降の経済不況もあって、南部再建問題より目の前の生活に関心を移していった。

1876年の大統領選では民主党が優位だったが、ルイジアナなど3州の選挙結果で共和党との間で係争が起きた。議会は15人からなる選挙委員会を設置したが、共和党が委員8人を占め、共和党のヘイズを当選者に決定した。この結果を民主党が承認したため、ヘイズが大統領となったが、国民は再び戦争になるのではないか、と心配した。

1877年4月、南部に駐屯していた連邦軍が撤退して再建の時代は終った。南部では人種差別的な文化が復活し、連邦政府もそれを黙認した。

(6) 金ぴか時代註383-7

再建の時代の後、1870年代から90年頃までは「金ぴか時代(Gilded Age)」とも呼ばれる。この名はマーク・トウェインの小説の題名からきており、急速に発展するアメリカが金儲けに奔走し政財界に腐敗が蔓延した時代、という批判的な意味が込められている。

アメリカの経済発展のけん引役になったのは、鉄道建設だった。鉄道建設には政府も助成金を拠出したが、株式会社方式でも資金が集められ、これがアメリカを金融・証券の中心地に押し上げていった。

この時代には、新たな産業を立ち上げる大起業家が現れた。ジョン・ロックフェラー(1839生-1937没)は、スタンダード石油会社を設立しアメリカの石油市場をほぼ独占した。アンドリュー・カーネギー(1835生-1919没)は、スコットランドの移民から鉄鋼王に登り詰めた。リーランド・スタンフォード(1824生-1893没)は、鉄道王として財をなし、スタンフォード大学を設立した。

(7) 西部開拓註383-8

鉱山開発から農業へ

南北戦争後、ミシシッピ川以西の開発の先陣を切ったのは、鉱山開発だった。1848年から始まったカリフォルニアのゴールド・ラッシュは世界中から一攫千金を夢みる30万人の男たちを集めたが、その後もコロラドやネバダなどで貴金属鉱脈の発見が相次いだ。

次に進出したのは牧畜業者だった。テキサスの牛をシカゴやセントルイスで食肉加工するために、カウボーイたちが牛を追う姿は西部劇のシーンでおなじみのものである。1870年代半ばになると農民たちの移住が本格化する。彼らは、連邦政府から無償で割り当てられた160エーカー(約647千m2=約805m四方)の土地を使って農作物を栽培した。同時期に農法の改良や品種改良が進むとともに、種蒔き機やコンバイン、草刈り機などの農業機械が開発されたことによって、家族経営でも耕作可能になっていた。

「開拓」の終焉

西部・中西部の人口は1860年の約972万人から1890年には約2554万人に急増した。移住者の多くは東部諸州出身者ないしはヨーロッパからの移民たちだった。1890年に国勢調査局はフロンティア・ラインの消滅を宣言、1893年にアメリカ歴史学会で歴史家ターナーは、「フロンティアの消滅により、アメリカ史の第1期は終った。開拓民の西漸運動がアメリカの国民性の形成に決定的な役割を果たした」とアメリカ独自の発展モデルを提示したが、奴隷制や非ヨーロッパ系移民の貢献は無視されている。

日本からの移民

カリフォルニアの鉄道建設や果樹園、野菜農園では、日本でも移民の募集が行われ、1890年から1907年までに約12万人の日本人が移住した。

(8) 先住民の迫害と同化政策註383-9

西部開拓がアメリカの経済発展に寄与したことは間違いないが、それは先住民の生活の破壊の上に成立したものであった。15世紀末の北米大陸の先住民人口は500万~700万人と推定されているが、フロンティアの消滅が宣言される1890年には25万人にまで減少していた註383-10

居住地の分断と狭隘化

1830年に先住民諸部族はまとめて専用の居住区に強制移住させられた(3.8.1項(6)参照)が、その居住区の解放を求める市民の声が連邦政府に寄せられるようになった。1867年に「平和政策」の名のもとに、それまでインディアン居住地として一つにまとまっていた領域を部族ごとにより狭い「保留地」に囲い込み、あいた土地を白人が利用できるようにした。

自営農民化と抵抗の終焉

さらに1871年には居留地を細分化して、世帯ごとに土地を割り当てることにより、土地の共同所有を前提とする先住民の伝統的な生活様式を変え、白人移住者と同様に自営農化させる施策を始めた。しかし、先住民に与えられた土地は詐欺まがいの取引で白人の手に奪われていった。
こうした施策に対して、先住民は武器を取って抵抗したが、アパッチ族のジェロニモが1886年に降伏したのを最後に大規模な抗争は終った。

先住民文化の否定と同化政策

連邦政府は、先住民の「野蛮な」生活様式を文明化させるべく、居留地内外に寄宿制の学校を設立し、キリスト教への改宗や英語教育を行った。

また、先住民にとってバッファローは食糧や住居に利用する皮革として欠かせない存在であったが、鉄道運航に支障があるとされて駆除が進められ、1850年代に1300万頭いたものが80年代にはわずか数百頭にまで減少してしまった。

さらに、先住民の聖地であったイェローストーン、ヨセミテなどが国立公園に指定され、入場料を払わなければ入れなくなった。

(9) 先住民の迫害と同化政策註383-11

産業の発達と西部開拓を背景に、無一文から大富豪に成りあがるという「アメリカン・ドリーム」をかなえた人は少なからずいた。(6)に掲げたロックフェラー、カーネギー、スタンフォードはその代表といえるだろう。しかし、成功したのはほんの一握りの人であり、わずか1割の富裕層が国内総資産の7割を所有しているという富の偏在は、現代にも続く格差拡大と階級分断を生み出した。

取り残された労働者や農民は、労働組合や農民同盟を作って対抗し、多少の成果をはあったものの、政府のバックアップを受けた大資本家に跳ねのけられる場合が多かった。格差や分断は、自由な競争の結果として生じたもの、あるいは優生思想に基づくもの、などとして正当化されたのである。

こうした思潮は、人種差別の正当化にもつながり、連邦最高裁が「分離すれども平等」の原則を確立したことにより、特に南部では路面電車や劇場、ホテルなど公共の場所での人種隔離が広がっていった。下層の白人にとって、人種差別は自らのアイデンティティを確認する最後の砦になったのかもしれない。


コラム 解放者たちの生活

解放された黒人たちは、かつてのプランターの館近くにあった奴隷居住区を離れて、自分たちだけの居住区を作り、メソディスト派やバプティスト派の黒人独自の教会を組織した。

黒人たちのあいだには、「40エーカーの土地と1頭のラバ」という言葉が広まり、プランターの土地がこれまでの無償労働に対する補償として分配されることを期待した。共和党急進派は、南部改革のためプランターの土地を没収し、それを解放民に分配して黒人たちを自営農とする提案をしていたが、ごく一部で実現しただけで、民主党員や他の共和党員からの反対でとん挫していった。

終戦後、綿花農園の再開を急ぐプランターは、黒人たちをプランテーションに縛りつけようとした。解放民は生活のために働かざるをえず、プランターと労働契約を結んだ。土地の賃料と貸付品(農具、ラバ、種子など)の代金を、農民が収穫した作物で地主に払う制度である。この制度は1870年代には南部社会に定着していく。

解放民は、農村の商人らからも生活用品を現物で前借し、綿花で債務を返済する制度によって借金まみれとなり、ますます土地に縛られることになった。

(参考文献: 貴堂「南北戦争の時代」,P143-P145)


3.8.3項の主要参考文献

3.8.3項の註釈

註383-1 リンカーンによる奴隷解放

貴堂「南北戦争の時代」,P118-P120 Wikipedia「アメリカ合衆国憲法修正第13条」

註383-2 ジョンソンによる合衆国再建

貴堂「同上」,P120-P123

{ ジョンソンは、自身を南部庶民の代表と自任し、南部プランター階級に厳しい敵意を抱いており、厳しい南部再建策を実行することが期待された。しかし、大統領に就任すると、予想とは真逆の政策をとることとなる。}(貴堂「同上」,P121)

註383-3 市民権法と憲法修正第14条

貴堂「同上」,P124-P125・P129-P135 Wikipedia「アメリカ合衆国憲法修正第14条」

註383-4 黒人の投票権

修正第14条第2節は、下院議員や大統領選挙の選挙人の定数を定めたものである。定数は人口に基づいて決められたが、黒人の人口は1人を0.6人とカウントされていたものを1人としてカウントとするように改められた。ただし、黒人に投票権を与えないと黒人人口に相当する分だけ定数を減らされることになった。(貴堂「同上」,P134)

選挙権を与えなかったときに議員定数を減らすという規定は一度も実行されず、1965年に選挙権法が成立するまで、南部諸州では多くの黒人の投票権を妨げていた。(Wikipedia「アメリカ合衆国憲法修正第14条」)

註383-5 再建法と南部諸州の復帰

貴堂「同上」,P122・P135-P138・P145-P148  Wikipedia「アメリカ合衆国憲法修正第15条」

{ アメリカ政治史でその後、大統領が弾劾裁判に持ち込まれたのは、1999年のクリントン大統領のケースのみである(不倫疑惑での偽証による訴追、有罪評決に必要な3分の2に足りず、罷免を免れた)。ニクソン大統領は、1974年、ウォーターゲート事件をめぐる司法妨害で弾劾訴追が決まったが、自ら辞任したため弾劾裁判は行われなかった。}(貴堂「同上」,P138)

註383-6 再建政治の終焉

貴堂「同上」,P149-P152

註383-7 金ぴか時代

貴堂「同上」,P154・P162-P164

{ 1865年から90年の間に、合衆国の鉄道は56千キロから32万キロに拡張した。… 1910年には世界の鉄道軌道の3分の1が合衆国に集中していた。}(貴堂「同上」,P163)
ちなみに、ロシアの鉄道の総延長は1894年時点で35千キロである。(栗生沢「ロシアの歴史」,P102)

註383-8 西部開拓

貴堂「同上」,P165-P170

{ 【アメリカの歴史家ターナーは】フロンティアの存在と開拓民の西漸運動が独自の民主主義、自主独立の精神、機会の平等など、アメリカの国民性の形成に決定的な役割を果たした、と論じた。当時の歴史学界でアメリカの政治制度の起源をヨーロッパに求める学説が有力な中で、ターナーの学説はアメリカ固有の発展モデルを提示しようとする試みでもあった。… アメリカの発展が奴隷制や非ヨーロッパ系移民の後見抜きに語れるはずもない。この学説は、ヨーロッパ系移住者中心の歴史観であり、移民国家において「国民の物語」を提供するものであったといえよう。}(貴堂「同上」,P169-P170)

註383-9 先住民の迫害と同化政策

貴堂「同上」,P170-P176

註383-10 先住民の人口

貴堂「同上」,P170

アラン・テイラー「興亡のアメリカ史」では、「1492年にメキシコより北に暮らす人口は500~1000万」(P25)、同地域の「1800年の先住民人口は60万人」(P28)と推定している。貴堂氏も1865年に30万人としているので、先住民の人口減は主として西部開拓時代より以前の方が大きかったとみられる。

註383-11 先住民の迫害と同化政策

貴堂「同上」,P177-P190

{ 白人の一体性を演出する社会的儀礼として頻発したのが、白人女性をレイプした黒人男性をリンチすることだった。1891年以降、94年までに毎年1000人を超える黒人がリンチで殺害された。… リンチの根拠とされた白人女性と黒人男性の性的関係の多くは、捏造されたものだったろう。だが、この社会的儀礼は、支配人種としての白人の権威を維持するだけでなく、白人女性を男性に従属させる南部家父長制の論理を補強するのに、絶大な効果を発揮した。}(貴堂「同上」,P190<要約>)