日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.8 アメリカ合衆国の光と影 / 3.8.2 南北戦争

3.8.2 南北戦争

奴隷制を巡る南北の対立は、移民が増加し奴隷制廃止論者が増えていくと、過激化していった。1860年、奴隷制廃止を主張するリンカーンが大統領に当選すると、南部諸州は次々と合衆国から離脱し、新たに「アメリカ連合国」を設立した。1861年、南部連合軍が北部側の要塞を攻撃したのを皮切りに、南北戦争が始まった。戦争は4年間にわたって続き、多数の犠牲者を出した末、1865年南部連合軍が壊滅して終戦となった。

図表3.26(再掲) アメリカ合衆国の光と影

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(1) 移民の急増と政党再編註382-1

移民の急増

合衆国への移民は、1783年の独立以降1820年までの約40年間で25万人ほどしかいなかった。最初に多数の移民が押し寄せたのは、1845-49年の「ジャガイモ飢饉」でアイルランド系移民が急増したときである。次に1848年のフランス2月革命の余波で自由を求めたドイツ系移民が増え、1849年のゴールドラッシュで中国を含めて世界中から移民が押し寄せた。

1820年から60年までの移民の総計は500万人になり、80年代には525万人に達した。80年代にはアイルランド、ドイツ、オランダなどからの移民が中心だったが、以降はポーランド、イタリア、ロシアなど東欧、南欧からの移民が増加していった。
東部では移民排斥運動が起き、移民は自由な土地を求めて西部に向かう者が多かった。

政党再編

第3代大統領ジェファーソンが創設した民主党は、都市の移民集団の票獲得に力を入れたが、州の主権を重視する観点から、奴隷制の是非に対する意思表明を避けるようになった。一方、1854年に反奴隷制、反民主党勢力を結集した共和党が成立し、「自由な都市、自由な労働、自由な人間」を掲げて、移民奨励策をとり、西部の自営農民や東部の白人労働者を惹きつけた。共和党支持者が奴隷制廃止に賛成したのは、人道的見地からだけでなく、奴隷の不自由労働が自らの労働を脅かすとみなしたからでもあった。

(2) 南北対立

カリフォルニア州加盟問題註382-2

1848年にメキシコから獲得したカリフォルニアは、世界中からの移民を受け入れるために「自由州」※1として連邦加盟を申請した。南部の奴隷制支持者はニューメキシコを「奴隷州」※1として加盟させることでバランスをとろうとした。そのため、ニューメキシコが加盟するときは、住民投票によって自由州か奴隷州かを決める、などの条件を付けてカリフォルニアの加盟を承認することになった。

※1 自由州は奴隷制度を違法とする州、奴隷州は奴隷制度を合法と認める州。この2種類の州の数をバランスさせるように配慮されてきた。(3.8.1項(4)参照)

カンザス・ネブラスカ法註382-3

大陸横断鉄道を通すために、アイオワの西にネブラスカ、ミズーリの西にカンザスという準州を設置することになった。1819年のミズーリ協定(3.8.1項(4)参照)により、この2地域は奴隷制が禁止された地域だったが、南部議員の働きかけにより両州はニューメキシコと同様に住民投票によって自由州か奴隷州かを決めることになった。これが1854年に制定されたカンザス・ネブラスカ法である。

しかし、1855年カンザスで準州議員選挙が行われると、奴隷制支持の群衆が大挙してカンザスに入り、住民でないのに投票を強行した。そのため、奴隷制支持派の議員が多数派を占めることになり、これに反発した反奴隷派との間で武力衝突が繰り返されるようになった。さらに、カンザスの奴隷制支持派を非難した上院議員サムナーが、上院議場内で支持派に殴り倒され重傷を負うという事件も起きた。

(3) リンカーン大統領註382-4

1860年の大統領選に共和党から立候補したのが、エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln )だった。リンカーン(1809生-65没)は、奴隷州であるケンタッキーの貧しい開拓農民の家に生まれたが、独学で弁護士となり、州議会議員を経て連邦下院議員になっていた。大統領選挙は民主党が候補者選びに手間取ったことや、複数候補が乱立したことから、得票率40%のリンカーンが当選した。

奴隷制廃止論者であるリンカーンが当選したことは、南部に大きな影響を与えた。1860年12月20日、サウスカロライナが連邦離脱を宣言し、ミシシッピ、フロリダなど6州がこれに追随し、1861年2月4日この7州で「アメリカ連合国」(南部連合)が結成された。

1861年3月4日の大統領就任演説においてリンカーンは、南部奴隷制への不干渉を表明し、連邦を維持していくことの必要性を説いた。

(4) 開戦註382-5

1861年4月12日、南部連合軍はサウスカロライナ州にあった連邦側のサムター要塞を砲撃し、南北戦争がはじまった。これを機に、ヴァージニア、テネシーなど4州が南部連合に参加して11州となり、23州が所属する連邦(北軍)との戦争が始まった。
開戦してしばらくの間は、南部がやや優勢のまま一進一退の状態が続いた。

(5) 海上封鎖と英仏の干渉註382-6

北軍による海上封鎖

北軍は開戦後まもなく、海外諸国から南部への物資供給を絶つために海上封鎖をはじめた。連邦海軍は大西洋およびメキシコ湾岸の南部の港を次々と制圧していった。南部の主力商品の綿花の輸出は大打撃を受け、南部の経済は混乱した。

トレント号事件(1861年11月)

イギリスは開戦直後に中立を宣言していたが、商社を介して南部連合軍に武器弾薬や物資を供給したり、北部側の商船を撃沈したりしていた。南部の綿花を原料とするイギリスの綿産業にとっては南部とのつながりの方が重要だったのである。たまたま、前年が豊作で在庫があったためにすぐに困ることはなかったが、戦争の長期化はイギリスの望むところではなかった。

こうしたイギリスを頼って南部は1861年使節を送り出した。使節はイギリス船籍の郵便船「トレント号」に乗っていたが、北部海軍はこれを臨検し使節を逮捕した。これを知ったイギリス政府は北部連邦政府に抗議し、一時は英米戦争が憂慮されたが、連邦政府は1862年1月に使節を釈放し、危機は回避された。

英仏露による介入の検討

戦争が南部有利で進む中で1862年8月頃、イギリスではフランス、ロシアも巻き込んで介入すべし、との声が大きくなっていった。イギリスのパーマストン首相が介入にむけて動き始めようとしたそのとき、事態は大きく変わった。9月17日、それまで優勢だった南軍が東部メリーランド州アンティータムの戦いで北軍に敗れた。続いて9月22日、リンカーンが奴隷解放宣言を行ったのである。

戦況逆転に加えて、奴隷制に否定的だった英仏にとって奴隷解放宣言は介入を断念させることに決定的な役割を果たした。

フランスとロシア

フランスはメキシコの内戦に乗じてメキシコを占領し、1863年には皇帝を送り込んでいた。ナポレオン3世は、英仏露による介入を望んでいたが、奴隷解放宣言により断念した。

ロシアは当時、北部連邦政府と良好な関係にあり、英仏から誘いを受けても内戦に介入する気はなかった。この米露の友好的関係が、アラスカ買収(1867年)につながるのである。

(6) 奴隷解放宣言註382-7

リンカーンは開戦以来、この戦争の意義は「連邦の維持にある」としてきた。しかし、連邦軍が占領した地域における奴隷や南部から逃亡してくる奴隷をどう処置するかは、深刻な問題であった。また、ヨーロッパ諸国からの干渉を防ぐためにも奴隷解放を前面に打ち出す必要があった。

1862年9月22日、リンカーンは翌年1月1日までに連邦に復帰しなければ、復帰しない地域にいる奴隷は解放する、という予備宣言を出したうえで、1863年1月1日に奴隷解放宣言を行った。連邦に所属していたケンタッキー、ミズーリなどの州の奴隷は解放されなかった。

多くの解放された奴隷たちは、兵士として北軍の軍役につくことになった。北部では、解放された黒人と職を奪いあうことになる白人労働者による暴動も発生した。

(7) 終戦へ註382-8

ゲティスバーグの決戦

1863年7月1日から3日にかけて、ペンシルヴェニアの田舎町ゲティスバーグで両軍が激突し、多数の死傷者を出しながらも北軍が勝利をおさめた。その年の11月、その地での戦没者墓地献納式典において、リンカーンは有名な演説を行った。

{ 87年前、私たちの父祖たちは、この大陸に新しい国家を誕生させた。その国家は自由の理念に育まれ、すべての人間は平等につくられたという理念に捧げられた。 …
これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、私たちがここで固く決意することである。}(貴堂「南北戦争の時代」,P100-P101)

リンカーン再選

1864年11月の大統領選で民主党の対立候補に大差をつけて勝利、再選を決めた。

南軍敗北

経済封鎖のため南部では、1863年以降、各地で食糧暴動が起こっていた。1865年4月9日、ヴァージニア州アポマトックスの戦いで南軍のリー将軍率いる部隊が降伏し、南北戦争は事実上、終結した。

4年間の戦争で南北軍あわせて320万人以上が動員され、62万人余が戦死(病死含む)した。これは第2次世界大戦における戦死者約40万人を大きく上回る合衆国の戦争史上最多を記録するものであった。

(8) リンカーン暗殺註382-9

リー将軍が降伏した直後、1865年4月14日の夜、リンカーンはワシントンのフォード劇場で観劇中に、狂信的な南部白人の俳優に至近距離から狙撃され、翌日、亡くなった。56歳だった。


コラム 星条旗と戦死者と愛国心

アメリカの国旗である星条旗は、独立とともに現在のものと同様のデザインで作られた。よく知られているように、左上の星の数が現在の州の数を表し、赤と白の線(条)が独立時の州の数(=13)を表す。

星条旗+連合軍旗

この国旗が合衆国のシンボルとして注目されたのは、1812年の米英戦争のときであり、確固たる地位を得たのは南北戦争のときである。南北戦争の時、北軍はこの旗を使い、南軍は「アメリカ連合国」(南部連合)の国旗を掲げて戦った。

南北戦争で星条旗が国家や愛国のシンボルとしての地位を不動のものにしたのは、旗の大量生産が可能になったことのほか、兵士の出征・復員、戦場や船上での国旗高揚、戦死者の棺の覆い、教会の説教壇など、多くのシーンでこれが多用されたからである。軍隊と無名戦士の死が国旗とセットで描かれ、星条旗をモチーフとした愛国心と忠誠心が視覚化されていった。

共和党は、このような星条旗とともに北軍兵士の犠牲を象徴する「血染めのシャツ」を振るレトリックを用いて、愛国の党として、奴隷解放の党としてのイメージ戦略を展開した。たとえば、「私たちの50万人の同胞を大量殺戮した奴らを許さないでください。血染めのシャツが乾き、着替えができるまでは、私の親族の血のにおいが衣服に染みついた奴らの隣には座りたくないのです」といって、南部人の戦争犯罪を訴求した。

北軍戦死者を使ったこのようなレトリックが威力を持ったのは、この戦争で「国のために戦った勇敢な」軍人たちを英雄として扱ったことと関係している。逆に南軍は裏切り者扱いされ、北部人の恨みの対象となった。

北軍兵士の「名誉の戦死」の物語は人気を集め、愛国心を煽った。古今東西、戦死者を語ることは、大衆を動員するための最も古典的で効果的な手段であり、愛国主義を鼓舞する政治家たちの常套手段なのである。

(参考文献:貴堂「南北戦争の時代」,P109・P125-P128)


3.8.2項の主要参考文献

3.8.2項の註釈

註382-1 移民の急増と政党再編

貴堂「南北戦争の時代」,P65-P69 Wikipedia民主党(アメリカ)

{ 自由労働イデオロギーとは、エリック・フォートナーが論じるには、すべての労働者が労働で得た糧を自己のものとして所有し、恒久的な「賃金奴隷」となることから逃れて、「自由」身分の男性*1市民が政治的公共を担うイデオロギーのことである。…
奴隷労働は屈辱であり、働くことに尊厳がない。…「自由な労働」は「自由な土地」と必然的に結びつき、アメリカ生まれであるか移民の新参者であるかを問わず、両者共通の信念となっていく。}(貴堂「同上」,P69)

*1 19世紀半ばのアメリカで、女性には「家庭的であること」が求められていた。女性解放運動が始まったのは1847年のことだった。(貴堂「同上」,P29-P30)

註382-2 カリフォルニア州加盟問題

貴堂「同上」,P60-P62

註382-3 カンザス・ネブラスカ法

貴堂「同上」,P63-P64・P70-P72

{ 1856年5月、奴隷制支持派の武装隊が反対派の拠点ローレンスを襲撃した。暴動を扇動した…元上院議員…は「発砲、焼き払い、吊るし首」で騒動をおさめれば「太平洋まで奴隷制を拡大できる」と語った。だが、数日後、奴隷制廃止運動家は奴隷制支持派の農場に報復をしかけ5人を殺害し、「目には目を」という警告を死体に張り付けて立ち去った。}(貴堂「同上」、P70-P71)

註382-4 奴隷州と自由州

貴堂「同上」,P75-P79

大統領候補の得票率は次の通り。リンカーンは南部および境界州の選挙人を一人も獲得できなかった。

・リンカーン(共和党) 39.9% ・ダグラス(北部民主党) 29.4% ・ベル(立憲統一党) 18.2% ・ブリキンリッジ(南部民主党) 12.6%   以上、貴堂「同上」、P76 による。

註382-5 開戦

貴堂「同上」,P82-P84・P88-P90 Wikipedia「南北戦争」

註382-6 海上封鎖と英仏の干渉

貴堂「同上」,P85-P88 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P262-P267

註382-7 奴隷解放宣言

貴堂「同上」,P90-P99 コトバンク〔日本大百科全書〕「奴隷解放宣言」

註382-8 終戦へ

貴堂「同上」,P100-P104 Wikipedia「南北戦争」

{ 【ゲティスバーグの演説で】奴隷制にもふれず、ただ独立宣言に謳われた自由の理念に言及することで、生者に自由の新しい誕生をもたらすべく、未完の事業に献身することを呼びかけた。終戦後の国家再建、国民統合を見据えての発言である。この演説では、これまで国家を指示する言葉として用いられてきた連邦(union)の語を用いず、国(nation)という語を5度にわたって使ったことにも注目しておきたい。南部連合が離脱宣言で主張したのは、「連邦とは、各々が主権を持った独立した州の緩やかな連合に過ぎない」という州権論的国家観であったが、リンカーンはこれを否定し、新しい連邦主導の国家建設、新しい国民創造を構想していたのである。}(貴堂「同上」,P101-P102)

註382-9 リンカーン暗殺

貴堂「同上」,P104