日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.8 アメリカ合衆国の光と影 / 3.8.1 大陸国家の形成と分断

3.8 アメリカ合衆国の光と影

1783年にイギリスの植民地から独立したアメリカは19世紀に入るとめざましい発展を遂げる。その背景には、北部の産業革命と南部の綿花生産の拡大、そしてミシシッピ川以西への進出があった。発展を牽引したのは建国時からの住民のみならず、自由の国アメリカで夢をかなえようとヨーロッパから渡ってきた移民たちの力が大きかった。

その陰で、先祖伝来の土地を追われて「アメリカ人」になることを迫られた先住民と、解放されたものの、厳しい労働環境と人種差別にさらされた黒人奴隷やアジア系移民の犠牲に成立したものでもあった。

図表3.26 アメリカ合衆国の光と影

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3.8.1 大陸国家の形成と分断

(1) フランス革命とルイジアナ購入(1803年)註381-1

ワシントンが初代合衆国大統領として就任したのは1794年4月30日、それから2.5カ月後の7月14日にフランス革命が勃発した。フランス領サン・ドマング(=ハイチ)で独立革命(1791~1804年)が起きたが、合衆国が大きな影響を受けるのはナポレオン帝国が成立した1799年以降である。

1800年、ナポレオンはスペインを支配下におき、当時スペイン領だったミシシッピ川西方の広大なルイジアナをフランス領とした。ミシシッピ河口のニューオリンズは物流の拠点であったので、合衆国はニューオリンズ周辺の購入をフランスに打診した。これに対してナポレオンはルイジアナ全体の売却を提案した。カナダからイギリスがルイジアナに侵攻した場合、防衛はできないと考えたこと、ヨーロッパでの戦費が欲しかったことなどがその理由だと考えられている。

合衆国大統領ジェファソンは1803年、ルイジアナ全体をおよそ1500万ドルで購入することを決めた。これにより合衆国の領土は一挙に倍増した。

(2) 米英戦争(1812-15年)註381-2

背景/原因

1806年ナポレオンは、イギリスを封じ込めるために「大陸封鎖令」を出し、ヨーロッパ諸国とイギリスとの通商を禁止した。合衆国は中立国として英仏双方と貿易を維持したが、英仏は米国の商船を拿捕して積み荷を押収したり、イギリスの場合は船員を捉えて水兵として徴用したりしたため、反英感情が高まった。

一方、合衆国の侵略に反発する先住民のなかにイギリスと結んで合衆国と対峙しようという部族があらわれた。また、連邦議会のなかにはイギリスが対ナポレオン戦に手をとられている隙に、カナダをイギリスから奪おうという野心もあった。

戦争の経緯

1812年6月、合衆国議会においてイギリスに宣戦布告することが決定され、戦争が始まった。戦闘は合衆国大西洋岸、カナダ国境、およびテネシー、アラバマなど南部諸州などで、先住民を巻き込んだ陸戦や海戦が行われたが、両軍ともに決定的な戦果をあげられなかった。

戦争の経緯

戦争は勝敗がはっきりしないまま、1814年12月に講和条約(ガン条約)が締結されで終結した。なお、講和成立の情報が戦場に届くのが遅れた関係で、ニューオーリンズなどで1815年初めまで戦闘は続いた。

イギリスにとってこの戦争はナポレオン戦争の一部に過ぎなかったが、カナダ人にとっては合衆国から祖国を防衛した戦争になった。合衆国にとっては「第2次独立戦争」とも位置付けられてナショナリズムが大きな高まりを見せただけでなく、イギリス製品の輸入が困難になったことから、国内製造業が発達する契機になった。

さらに、アメリカ史が専門の貴堂嘉之氏は、合衆国が奴隷制を温存する方向を明確にした、という。

{ この時期に国際的な奴隷貿易廃止キャンペーンに取り組み始めたイギリスと一戦を交えて距離を取ったことで、アメリカ合衆国の南北戦争に至るまでの連邦政治は、奴隷制を温存する方向で道筋が付けられた…}(貴堂「南北戦争の時代」、P3)

(3) モンロー主義(1823年~)註381-3

1804年のハイチの独立以降、チリ(1818年独立、以下同)、コロンビア(1819年)、ペルー(1821年)などが次々と独立し、合衆国は1822年3月、これらの国々の独立を承認した。しかし、ウィーン体制を構成する墺、普、露、仏は、こうした独立運動がポーランドやイタリアに波及することを恐れ、独立をおさえようとする動きが出てきた。さらに、ロシアは1821年に布告を発してアラスカから南下する機会をうかがっていた。

イギリスのカニング外相は、1823年8月、合衆国にラテンアメリカの独立に墺普露などが干渉することに反対する声明を出そう、という提案をもちかけた。合衆国のアダムズ国務長官は、この提案の背後にアメリカ大陸のスペイン植民地に合衆国が進出することを阻もうとする意図を読みとり、単独で宣言することを主張した。

1823年12月2日、モンロー大統領は年次教書で、のちにモンロー主義と呼ばれることになる次のような外交方針を発表した。

この宣言は、南北アメリカ大陸を中心とする西半球をひとつのブロックとして、合衆国自身の勢力伸長の余地を残そうという膨張主義、帝国主義的な意図を内在するものであった。ヨーロッパへの不干渉は孤立主義として、第2次大戦前まで合衆国の外交方針となる。

(4) 奴隷州と自由州_ミズーリ協定註381-4

19世紀初め、植民地支配を西インド諸島からアジアに移したイギリスは、奴隷貿易の廃止と奴隷解放を訴えて「人道主義の国」を強調したが、合衆国は奴隷制を温存する奴隷国家を継続した。建国以来、1850年までの大統領のほとんどは奴隷所有者であったし、議会で奴隷制を論じることは避けられてきた。

合衆国の奴隷貿易は1807年に禁止されたが、それは独立運動が活発になったラテンアメリカから反乱奴隷が流入することを防止するためであった。

奴隷をほとんど使用しない北部で奴隷解放の気運が高まるなか、1819年2月ミズーリ州が奴隷制を認める州(=奴隷州)として連邦加入を申請した。北部出身の議員がミズーリに奴隷の漸次解放を求めたが、ミズーリとしてそれは認められない要求だった。

しかし、同年12月にメイン州が自由州(=奴隷制を認めない州)として連邦加入を申請したので、両州を加入させるとともに、北緯36度30分以北には奴隷制を認めないという妥協が成立した。その結果、自由州と奴隷州は12州ずつとなり、その後も新たな州が加盟する場合は、できるだけ同数にするよう配慮することが慣例となった。

(5) 交通網の整備註381-5

19世紀前半は、北部の商工業、南部の綿花生産、西部の資本主義的農業など、米国史で「市場革命」と呼ぶ経済の発展があった。それを支えたのが交通インフラの発達である。

1810年代に始まったのは、大西洋岸の諸都市を結ぶ道路網の建設である。続いて、1820-30年代は運河建設の時代となり、ニューヨークと五大湖のエリー湖畔を結ぶエリー運河などが建設され、1807年に開発された蒸気船を使って大量の荷物を効率よく運ぶことが出来るようになった。そして、1840年代になると鉄道建設が本格化した。1830年にボルティモア・オハイオ鉄道の機関車が21kmの区間を走ったのを皮切りに鉄道建設ラッシュがはじまり、総延長は1850年に15千km、1890年には32万kmと拡大していった。1869年には大陸横断鉄道の開通式が行われている。

さらに、サミュエル・モールスが開発したモールス電信は1840年代半ば以降、合衆国全土を網の目のように覆い始め、1860年には総延長8万kmの電線が敷設された。電信は商取引や金融取引、軍事情報などに画期的な変化を促すことになった。

(6) 西漸運動

西漸運動とは、いわゆる「西部開拓」のことで、白人による大陸東部から西部に向けての領土拡大、人口移動、経済活性化などの活動を指す。

図表3.27 西漸運動

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出典)貴堂「南北戦争の時代」,P44 の図などをもとに作成。 州境は現在のもの。

フロリダ併合(1821年)註381-6

アメリカ独立戦争後のヴェルサイユ条約(1783年)で、フロリダはスペイン領とされていた。合衆国は1818年、フロリダ獲得のためにスペインとの交渉を始めたが、その最中に合衆国軍は先住民の反乱鎮圧を名目にフロリダ全域を占領してしまった。翌1819年、スペインは米市民がスペインに請求していた500万ドルの賠償金を合衆国が肩代わりすることを条件に、フロリダを譲渡することに合意した。(条約が発効するのは1821年)

先住民の強制移住(1830年~)註381-7

ルイジアナ購入(1803年)以降、西部や南部諸州からは先住民の住む土地を渇望する声は大きかったが、先住民の移住はあくまでも自発的なものとされた。ジャクソン大統領は1829年12月の年次教書でジョージアとアラバマの先住民をミシシッピ川以西に移住させる方針を表明し、翌1830年5月にインディアン強制移住法を制定した。

この法律をもとに連邦政府は先住民各部族に移住を迫り、1840年代半ばまでに10万人の先住民がインディアン居留地(現在のオクラホマ)などに強制移住させられた。徒歩による移住行程は「涙の旅路」とよばれ、数万人ともいわれる死者を出す悲惨なものとなり、反乱を起こす部族もあった。

テキサス共和国(1822~45年)註381-8

ここでいうテキサスとは、現在のテキサス州にオクラホマ、カンザス、コロラドなどを含んだ地域である。

1821年にメキシコがスペインから独立したが、この地域の開発のために200世帯以上の入植者をつれてくる植民事業者に広大な土地を無償で与える入植奨励策を採用した。この政策は南西部諸州のプランターや農民を惹きつけ、1830年には22千人がテキサスに移住した。増えすぎたアメリカ人移民に危機感を抱いたメキシコ政府は、1830年にアメリカ人の移民禁止令を出すが、不法移民は後を絶たず、1835年には35千人にまで増加した。

入植したアメリカ人たちは、1836年3月2日、「テキサス共和国」としてメキシコからの独立を宣言した。独立宣言直後の3月6日にメキシコ軍はアラモ砦を陥落させたが、4月にはアメリカ人が反撃してメキシコ軍に勝利をおさめ、合衆国に対して、テキサス共和国の併合を求めた。

合衆国政府は、メキシコとの戦争を危惧して併合を先送りしていたが、領土拡大を支持する国民の声に後押しされて1845年12月に合衆国の州として承認した。

アメリカ・メキシコ戦争(1846-48年)註381-9

1845年11月、合衆国は特使をメキシコに派遣し、リオグランデ川までをテキサス領(メキシコはそれより北のヌエイシス川までを主張)とすること、カリフォルニアとニューメキシコを2500万ドルで買収することを提案した。

メキシコ政府はこれを拒否、合衆国は1846年5月に宣戦布告し、同年秋にカリフォルニア全域を掌握した後、メキシコ領内に攻め入って1847年9月には首都メキシコシティを制圧した。

1848年2月の講和条約で、メキシコはリオグランデ川以北をテキサス領(合衆国領)と認め、カリフォルニアとニューメキシコ(現在のネバダ、ユタ、アリゾナ)を1500万ドルで譲渡することに合意した。

オレゴン条約(1846年)註381-10

太平洋岸オレゴン(現在のワシントン州含む)は、ルイス・クラーク探検隊(1804-06年)の情報などをもとに1841年以降入植者が激増し、1850年頃には11.5千人の開拓者が住みついていた。この地域は、英米間の共同領有地となっており、どのような国境線をひくかという問題は長年の懸案事項だった。

イギリスは北緯49度線を境界とする米国案をいったん拒否したが、1846年6月の協議で49度線を境界とすることで最終的な合意(オレゴン条約)に達した。

ゴールド・ラッシュ(1848年-)註381-11

1848年1月24日にサクラメント渓谷で砂金が発見され、ゴールド・ラッシュが始まった。金の魅力に惹きつけられてカリフォルニアに移住した人たちは30万人に達したが、最初期に到着した金鉱掘りはハワイ、チリ、ペルー、中国などから来た人たちが多かった。西部開拓の終着点としてのカリフォルニアという物語とは裏腹に、西海岸への陸路によるアプローチは難しく、ラテンアメリカや太平洋岸の海のネットワークとのつながりの方が強かったのである。

{ アメリカ史では1890年までを国内の西部開拓、経済開発に専心した時代ととらえる傾向にあるが、19世紀前半のアメリカの領土拡大は、アメリカ帝国の膨張そのものであり、ヨーロッパとの植民地争奪戦の一部であった。アメリカの領土拡大の歴史が、大陸国家としての国民国家形成の過程であると同時に、「帝国」としてのアメリカ形成の過程であった点を忘れてはならないのである。}(貴堂嘉之「南北戦争の時代」,P53)

(7) 奴隷送還運動註381-12

大西洋岸中部諸州では、1799年にニューヨーク州が奴隷解放令を出すと、1803年オハイオ、1804年ニュジャージーなどが続き、奴隷が解放されていった。解放された「自由黒人」は黒人人口の13%にまで増えたが、彼らをそのまま国内に残しておくことは近隣の奴隷たちに権利意識を植え付ける可能性があったため、アフリカに送還する事業を行う「アメリカ植民協会」が1816年に創設された。

連邦政府はこれを支援し、アフリカ西海岸にリベリアと名づけた植民地を確保した。アフリカ植民協会は1831-40年の10年間に計2403名の黒人をリベリアに送還した。リベリア植民地は1847年に米国から独立してリベリア共和国となった。

(8) 奴隷制廃止運動註381-13

イギリスが自国の植民地での奴隷制を廃止する法が制定した1833年、アメリカ奴隷制反対協会が設立され北部での奴隷制廃止運動が開始された。この協会は各地で講演会を開くなどして世論を喚起した。こうした動きに対して、南部では奴隷制擁護論が活発になり、白人優越論をもとに奴隷制の正当性を強調し、奴隷を保有していない白人の共感を得ることもあった。

(9) 南部の奴隷制註381-14

建国当時の南部の農作物は、タバコ、サトウキビ、麻などであったが、1820年頃から綿花の生産量が急増し、1840年に米国南部の綿花生産量は世界の約6割に達するまでになった。

1850年の南部の人口は白人618万人、黒人は約320万人であった。白人のうち奴隷を所有する人口は白人全体の3分の1にすぎず、それも保有する奴隷が1~4人という零細奴隷所有者が過半数で、100人以上所有しているのは奴隷所有者全体のわずか0.4%にすぎなかった。

黒人奴隷の数は1800年には約90万人で、奴隷貿易が1807年に禁止されたこともあって、外部からの流入は少なかったが、健康な若い女性奴隷に多産を奨励したことから、奴隷の数は増加していった。奴隷の大部分は、夜明けから日没まで働く農園作業に従事したが、家内奴隷や大工、鍛冶屋などの職人奴隷もいた。


3.8.1項の主要参考文献

3.8.1項の註釈

註381-1 フランス革命とルイジアナ購入

和田「植民地から建国へ」,P197-P199 Wikipedia「ルイジアナ買収」

{ フランス革命やハイチ革命 … によって当該の地から移民が多数流入し、アメリカに悪影響を及ぼすことを恐れ、… 1798年に「外国人・治安諸法」と総称される4本の法律が成立した。帰化法、外国人法、敵性外国人法、治安法である。}(和田「同上」,P190)

註381-2 米英戦争

和田「同上」,P207-P214 Wikipedia「米英戦争」

{ 1814年8月には首都ワシントンがイギリス軍に攻略され、戦火に焼かれた。次にこの首都が敵の攻撃を受けるのは、2001年9月11日、同時多発テロの時である。}(和田「同上」,P210)

註381-3 モンロー主義

貴堂「南北戦争の時代」,P12-P16 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P221-P222 Wikipedia「モンロー主義」

この時期の合衆国議員をつとめたヘンリー・クレイは次のように述べている。

{ われわれは、旧世界のすべての専制主義に対し、人間の自由が結集するような体制の中心となるべきである。}(貴堂「同上」P16)

註381-4 奴隷州と自由州

貴堂「同上」,P3-P7・P16-P18

註381-5 交通網の整備

貴堂「同上」,P8-P11・P162-P163

{ 南北戦争で国内を統一したアメリカは戦後、鉄道建設をけん引役にして、全国的経済発展の基盤を整えていった。… 大陸横断鉄道の「東半分はアイルランド系移民が、西半分は中国系移民が作った」と言われるように、鉄道建設には大量の移民労働者が雇用された。鉄道の建設は、大量のレール、機関車、車両などさまざまな鉄鋼製品の需要を生み出し、鉄鋼産業のための巨大な市場を提供しただけでなく、枕木や車体のための木材需要が林業の発展を刺激した。}(貴堂「同上」,P162)

註381-6 フロリダ併合

貴堂「同上」,P13 Wikipedia「スペイン領フロリダ」

註381-7 先住民の強制移住

貴堂「同上」,P25-P27 Wikipedia「インディアン移住」

{ 強制移住の悲劇は、西部開拓の歴史とアメリカ民主主義の歴史に深い影を落としている。}(貴堂「同上」、P27)

註381-8 テキサス共和国

貴堂「同上」,P43-P49 Wikipedia「テキサス州の歴史」

{ テキサスの併合を拒絶した理由はメキシコとの戦争だけでなく、奴隷制度を許容する州が増加することへの北部諸州の反発もあった。それが併合承認に変わったのは、膨張主義が国民の熱狂を巻き起こし、大統領選で併合を公約に掲げた候補が反対候補に大差をつけて勝利したからだった。}(貴堂「同上」,P46-P49<要約>)

註381-9 アメリカ・メキシコ戦争

貴堂「同上」,P50-P52 Wikipedia「米墨戦争」

{ 戦争をめぐる評価は大きく割れた。南西部の住民が熱狂的に支持したのに対して、ニューイングランドの住民は断固反対の立場をとった。… 1846年8月には、民主党下院議員…が、メキシコから獲得した領土では奴隷制を禁止すべきとの提案をし、下院で可決されたものの、上院では南部議員らの反対により否決された。}(貴堂「同上」,P50-P51)

註381-10 オレゴン条約

貴堂「同上」,P49-P50

註381-11 ゴールド・ラッシュ

貴堂「同上」,P53-P54・P60

註381-12 奴隷送還運動

貴堂「同上」,P32-P34

註381-13 奴隷制廃止運動

貴堂「同上」,P35-P36

註381-14 南部の奴隷制

貴堂「同上」,P37-P42・P60

{ 大邸宅に住み、裕福な暮らしを送るプランターがみな、植民地時代に南部に移住してきたジェントリ階層の直系子孫というわけではなかった。むしろ、… 短期間で財をなし成りあがった、たたき上げの男であることのほうが多かった。
騎士道を重んじ、侮辱は決闘で晴らすという貴族趣味的生活様式は、北部のデモクラシー社会とは対極をなすものであった。}(貴堂「同上」,P41-P42)