日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.7 専制ロシアと南下政策 / 3.7.1 専制ロシアと南下政策

3.7 専制ロシアと南下政策

産業革命とフランス革命はロシアにも大きな影響を与えたが、それを取り込むまでにはいささか時間がかかった。西欧との差を痛切に感じさせたのがクリミア戦争で、これ以降、鉄道の整備などを含めて重工業の発展に力を入れるとともに、農奴解放など自由主義的改革にも取り組んでいった。しかし、農業中心の産業構造を大きく変えるまでには至らず、西欧のブルジョアのような新たな知識階層ではなく、旧来の封建的貴族層が君主を支える専制政治が続いた。

図表3.25 専制ロシアと南下政策

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3.7.1 専制ロシアと南下政策

(1) デカプリストの乱(1825年)註371-1

ナポレオン戦争に参戦してヨーロッパで自由の空気にひたった青年将校らが中心となって、1815年、専制政治の打倒と農奴制廃止を求めて秘密結社が結成された。彼らが決起したのが12月(露語でデカープリ)だったので、デカプリストと呼ばれた。

1825年11月、ナポレオンと戦ったアレクサンドル1世が死去し、次のニコライ1世が帝位継承する隙間をぬって12月14日、彼らは配下の兵総勢3000人を率いて首都サンクト・ペテルブルクの元老院広場に集結した。元老院議員たちに圧力をかけ、新皇帝への忠誠の誓いをやめさせるつもりだったが、元老院議員の宣誓はすでに終了し散会していた。兵士たちはその場に立ちつくすだけで、やがて皇帝軍に蹴散らされ、反乱はあっけなく終わった。

デカプリストは逮捕され、主謀者5人は死刑、121人がシベリアに流刑となった。民衆の組織化もせず、お粗末な計画のため反乱は失敗したが、デカプリスト運動は貴族エリートのあいだに広がっており、のちに転向して政治家になる者もいたので、成功していれば立憲君主政への転換ができていたかもしれない。

(2) ニコライ1世の専制政治註371-2

ニコライ1世は、秘密警察を設置して検閲制度を強化し、貴族や知識人の自由思想を厳しく取り締まった。また、刑法を改訂して体制の批判者を重大な犯罪として処罰するようにした。

この時期、綿織物工業をはじめとする工業や商業が発達し、都市人口も全人口の8%にまで増えたが、穀物や資源の輸出に依存する経済構造に変わりはなく、西欧諸国との格差はひろがっていった。最大の課題は農奴制で、雇用労働者の多くを国有地農民や農奴が占め、労働市場の伸びを抑えつけていた。生産性は向上せず、農民暴動は年々増加していった。

(3) 対外政策註371-3

ロシアは、フランスでの7月革命、2月革命の影響を受けて、ポーランドやハンガリーで起きた反乱や革命に軍隊を送って鎮圧し、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた。

中央アジア方面では、カザフ草原の部族連合体を直接統治に変え、アルメニア、チェチェン、グルジアなど現在でも紛争地になっている地域にも侵出していった。

最も力を入れたのはオスマントルコとの戦いであろう。ギリシャ独立戦争(3.3.2項(3)参照)では、ウィーン体制のもと、イギリスやフランスと組んでギリシャを独立させ、1828年の露土戦争ではドナウ川河口をトルコから割譲させたが、クリミア戦争では英仏相手にロシアの後進性をさらけ出すことになった。

(4) クリミア戦争(1853-56年)註371-4

バルカン半島を支配していたオスマントルコが弱体化していたことに付け込んで南進策を展開していたロシアに対して、フランスやイギリスは反発していた。1853年初頭、バルカン半島で起きた小競り合いの講和を協議しているなかで、オスマンがフランスの要求により聖地イェルサレムの管理権をカトリック教会に与えたことが直接のきっかけとなった。この管理権は従来正教会に認められていたもので、正教会の保護者を自任するロシアはこれに強く抗議した。ウィーンを舞台とする4大国による調停も失敗に終わり、1853年10月、ロシアとオスマンは開戦した。

1854年3月、イギリスとフランスがオスマン側で参戦し、さらにイタリアのサルディーニャ王国も英仏側に加わって、ロシア軍をクリミア半島南端のセヴァストポリに追い詰めた。1854年9月末から始まったセヴァストポリ包囲戦では、ロシア軍は武器・弾薬・食糧の補給を絶たれ、翌1855年9月に陥落した。陥落に先だって1855年3月にニコライ1世も死去し、英仏にも厭戦気分が漂っていた。

1856年2月からパリで講和会議が開かれ、3月30日にパリ講和条約が成立した。トルコの領土の保全、黒海の非武装中立化が確認された。ロシアは地中海へ進出することはできなかったが、英仏も決定的な勝利を得られなかった。

この戦争でロシアは、道路や鉄道網の未整備による補給不全、その背後にある近代産業の未発達が明らかになり、近代化に向けた「大改革」を推進していくことになる。

(5) 大改革註371-5

ニコライ1世のあとを継いだアレクサンドル2世(在位1855-81)は、積年の課題だった農奴解放をはじめ、近代化のための改革を行った。

農奴解放

農奴とは、領主の所有物のようにして農作業やときには出稼ぎなどをさせられていた農民のことである。19世紀半ばのロシアの農村人口は約2240万人(成人男性)だったが、このうち半分近い1099万人が農奴であった。農奴はその非人道性だけでなく、労働生産性の悪化や労働力の流動化を妨げることによって、ロシアの産業発展を妨げる要因のひとつであった。

アレクサンドル2世は、1861年2月、多くの領主の反対を押し切って農奴解放令を発布した。農奴は2年間の準備期間を経て人格的に開放されるが、土地は用益権が与えられるものの、それを買いとるには20%の手付金を支払い、残額を49年かけて返済しなければならなかった。しかも土地は新たに設けられた村団と呼ばれる共同体に所属せしめられたので、農民は領主のかわりに村団に縛りつけられることになった。農民の不満は募り、各地で一揆などが頻発した。

農民は完全な自由を手にしたわけではないが、それでも解放後は都市に出てきて工場などの労働者となる人たちも多かった。

その他の諸改革

アレクサンドル2世は、ロシアの近代化にむけて次のような改革も行った。

(6) 南下政策と外交註371-6

東アジア

中国の清朝を武力で脅すなどして、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約でアムール川左岸と沿海州を獲得、ウラジオストクという不凍港を手に入れた。

日本とは、1855年の日露通好条約で国交を開き、1875年のサンクトペテルブルク条約で樺太全島をロシア領とするかわりに千島列島を日本領とした。

中央アジア

1868年から76年にかけて西トルキスタン(アフガニスタン北方)のコーカンド・ハン国などを併合し、綿花をもたらした。

バルカン半島

1877年、反オスマンの運動が活発になったボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ブルガリアなどのスラブ民族を救済するという大義のもとに、オスマン・トルコに宣戦布告し、露土戦争(1877-78年)がはじまった。ロシアはこの戦争に勝利して大ブルガリア公国を建国したが、バルカンにおけるロシア勢力の拡大を恐れたイギリスやオーストリアの介入を招き、ブルガリアの領土は大きく縮小されて南下政策は頓挫した。

アラスカ売却

1867年、イギリス領カナダからの防衛が困難だったことなどにより、アラスカをアメリカに720万USドル(2016年現在の価値で1億2300万ドル)で売却した。

(7) 文学者や音楽家の活躍註371-7

19世紀後半のこの時代は、優れた文学者や音楽家が活躍した時代でもあった。トゥルゲーネフ(1818生-83没)、「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を書いたドストエフスキー(1821生-81没)、「戦争と平和」でナポレオンの侵入に戦うロシア人を描いたトルストイ(1828生-1910没)、チェーホフ(1860生-1904没)、チャイコフスキー(1840生-93没)、などを輩出した。


コラム ナイチンゲール

ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820生-1910没)は、イギリスの裕福なブルジョア家庭に生まれ育ち、ロンドンの病院で看護師をしていた。クリミア戦争の野戦病院が悲惨な状態にあることを聞き、1854年11月、38人の女性を率いてスクタリ(現在のユスキュダル…イスタンブールの対岸)の野戦病院に入った。

到着時には傷病兵の42%が死亡していたのを衛生状態の改善などにより、死亡率2.2%にまで低減させた。死亡原因の多くは衛生不全による感染症だったらしい。このときの彼女の活動は赤十字の設立(1863年)にも影響したと言われている。

彼女の功績はこのときの看護活動よりも、統計調査にもとづく衛生改革や看護教育によるものが大きい。レーダーチャートと呼ばれる表現方式を発明して統計学会のフェローに任じられ、私財を投じてロンドンの聖トーマス病院に看護婦養成学校を設立した。

参考文献: 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P238-P239、近藤「イギリス史10講」,P218-P219、Wikipedia「フローレンス・ナイチンゲール」


3.7.1項の主要参考文献

3.7.1項の註釈

註371-1 デカプリストの乱

栗生沢「ロシア史」,P86-P87 和田編「ロシア史」,P211-P214

{ デカプリストの乱は一定の政治目的を掲げたロシア最初の革命の試みであったが、蜂起自体の準備が十分でなかっただけでなく、広く国民に訴え組織化することもなされず、簡単に鎮圧されてしまった。国民を組織化するためには、世論ないし教養ある社会というものが存在していなければならなかったが、その創造こそが、その後のロシアが取り組まなければならない課題であった。}(栗生沢「同上」、P87<要約>)

註371-2 ニコライ1世の専制政治

栗生沢「同上」,P87-P91 和田編「同上」,P213-P221

{ ニコライ治世が「最も暗い時代」であったにせよ、それは後の20世紀になって人類が経験するような徹底した全体主義的統制とはまったく次元の異なるものであった。実際この時代、作家たちはいわゆる「イソップの言葉」を用いるなどさまざまな工夫をして、検閲の網を何とかかいくぐろうと苦闘し、ある程度それに成功したのである。}(栗生沢「同上」,P89)

註371-3 対外政策

和田編「同上」,P218-P222 Wikipedia「露土戦争(1828年-1829年)

註371-4 クリミア戦争

栗生沢「同上」,P91 和田編「同上」,P222-P224 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P237-P240

{ 英仏軍の成功は、補給面の優位のたまものであった。セヴァストポリは、クリミア半島の先端に位置するが、海上からの接近路は英仏同盟軍が遮断しており、北に広がる人跡まれな草原地帯を横切って物資を運ぶことは困難を極めた。農民が使う馬車を約12万5千輌も徴発したが、軍港に届く物資の量は一度として満足すべき水準に達しなかった。}(W.H.マクニール「戦争の世界史(下)」,P26<要約>)

{ 「ヨーロッパの半分を向こうにまわした現在の戦さにおいて、われわれが、国力のどの面で、どの程度敵から遅れているかを公式の自画自賛で覆い隠すことはもはやできなかった。 … どこの国よりも必要な鉄道もなく、街道すらもないわが国には十分ではないのだ」と告発したのは現職の県知事ヴァルーエフの意見書(…)であった。}(和田編「同上」、P223-P224)

註371-5 大改革

栗生沢「同上」,P92-P97 和田編「同上」,P222-P235

{ 改革全体における一つの顕著な特徴は、それが国家の上からのイニシアティブでなされたことである。しかもそれは皇帝の意志に全面的に依存していた。… 上からの改革は、いわば「市民社会」の形成が不十分であったロシアにおいて唯一可能な改革形態であったといえるが、それがまた主たる問題の根源でもあった。}(栗生沢「同上」,P97)

註371-6 南下政策と外交

栗生沢「同上」,P99-P100 和田編「同上」,P235-P237,P240-P241  Wikipedia「アラスカ購入」

註371-7 文学者や音楽家の活躍

生没年は各人の「Wikipedia」による。