日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.6 イギリスの繁栄 / 3.6.1 自由主義改革

3.6 イギリスの繁栄

17世紀末から続いていた第2次英仏百年戦争※1の最後になったナポレオン戦争がイギリス勝利のうちに終了すると、広大な植民地と強力な経済力を背景にイギリスが世界の覇権を握った。産業革命により、農業主体の社会から商工業が発展して都市中心の社会に移行するなかで、様々な問題への対応が迫られたが、いち早く立憲王政が成立していたイギリスは他のヨーロッパ諸国と比べるとスムーズに改革を進めることができた。

しかし、イギリスの栄華も19世紀半ば過ぎまでで、急速に台頭してきたドイツやアメリカにその地位を少しずつ蚕食されていくことになる。

※1 第2次英仏百年戦争: 1688~1815年までの約 130年間にわたるイギリスとフランスの戦争。プファルツ継承戦争,スペイン継承戦争,オーストリア継承戦争,七年戦争,フランス革命戦争,ナポレオン戦争を含み,これらの戦争で両国は常に敵対し,植民地争奪戦を並行させつつ,覇権を争ったので,中世末の百年戦争になぞらえて呼ばれる。(コトバンク「第2次百年戦争」〔ブリタニカ国際大百科事典〕)

図表3.23 イギリスの繁栄

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3.6.1 自由主義改革

(1) フランス革命とイギリス註361-1

当時のヨーロッパにおいて最も自由で優れているといわれていたイギリスの名誉革命体制にも、フランス革命は少なからぬ影響を与えた。特に、1792年以降にフランス革命が過激化すると、名誉革命体制下で苦しい生活を強いられていた無産階級の人々は不満の声をあげ、保守的な人々はフランスからの侵略に対する恐怖心を高めた。政府は民衆を扇動するような活動を抑える一方、対仏大同盟に加わって革命の波及を抑え込もうとした。

フランス革命の時期にイギリスは、近代化のための多くの課題を認識せざるを得なくなったものの、ドイツやオーストリアのような「革命」を経験することなく、「改革」でそれを乗り切ることができた。坂下史※2氏は、その原因として次の2点をあげている。

ひとつは、地方行政の多くが地方当局に任され、中央政府の干渉が最小限のもとで地域の事情に即した行政が行えたことである。これは意図的にそうしたのではなく、18世紀のイギリスは「財政軍事国家」※3として戦争とそれを支える財政の問題に手をとられて、地方に干渉する余裕がなかったからである。

もうひとつは、支配層であるエリート(有産者)と民衆のあいだで共有する規範があった。すなわち、民衆は物価高騰や生活困窮に対して条件反射的に蜂起するのではなく、伝統的な権利意識に基づいて、怠慢な当局者のかわりに買い占められた食糧を奪って再分配するものだ、と考えていた。これに対してエリートの側も家父長主義的な世界観のなかで民衆の抗議行動を理解し、ある程度まで容認していた。こうした相互理解がある限り、蜂起が体制破壊にまで至ることはなかったのである。

※2 坂下史(さかした ちかし)氏は、東京女子大学教授(2010年)、専門は欧米史。(https://kenkyu-db.twcu.ac.jp/Profiles/1/0000050/profile.html)

※3 財政軍事国家; { 王権が軍事・戦争を主な起動力として行財政を整備し、強国化していく現象は広範に見られた。今日の歴史家はこうした国家を財政軍事国家と呼んでいる。}(岩崎「ハプスブルク帝国」,P194)

(2) 近代化に向けた改革

18世紀後半から19世紀にかけて、経済のグローバル化や都市化が大きく進展し、それにともなって様々な問題に対応を迫られた。

穀物法註361-2

ナポレオンによる大陸封鎖令で高く設定されていた穀物価格を戦後もその水準を維持するために1815年穀物法が制定された。これは当時の議会で多数派を占めていた地主貴族の収入を維持するためのもので、勤労者や産業資本家であるブルジョアは猛反対した。1839年、穀物法反対同盟が結成されて激しい運動が展開された末に、1846年ピール内閣で廃止された。

穀物法の廃止は保守党の分裂を招いたが、1848年のフランス2月革命でヨーロッパ中が高揚した「諸国民の春」はイギリスでは散発的事件にとどまった。

選挙法註361-3

中世以来、イギリスの選挙権は土地を基準とする財産資格に応じて決められていた。しかし、18世紀後半の産業革命以降、都市のブルジョアが納税するようになると、農村部では有権者が数人しかいない選挙区がある一方で、都会では多数の納税者がいるのに議席がない、というような状況が出てきた。こうした不公平を打破すべく、1832年に第1次選挙法改正が行われた。これで選挙権は下層中産階層(商店主など)まで拡大され、地域バランスもある程度解消された。

しかし、この改正でも選挙権を得られなかった労働者や職人は、1838年「人民憲章(People's Charter)」をかかげて、普通選挙、秘密投票などを要求して運動をはじめた。彼らは「チャーティスト」と呼ばれ、請願デモなどを繰り返したが、政府の弾圧によって1848年にその活動は空洞化させられた。

都市労働者が選挙権を獲得するのは1867年の第2次選挙法改正である。この改正により、1832年時点で32万人だった有権者は247万人に増え、全人口の1割が国政に参与できるようになった。
なお、農村労働者が選挙権を獲得するのは1884年、男子の普通選挙は1918年(日本は1925年)、男女平等の普通選挙は1928年(日本は1945年)だった。

工場法、労働組合法註361-4

産業革命以降、こどもや女性の工場での労働や男性の長時間労働などが問題になっていた。1833年、9才未満の子供の労働禁止などを定めた工場法が制定され、以降、労働時間や労働条件の改善が制定されていった。
また、1871年には労働組合法により組合の法的地位が承認された。

その他の改革註361-5

(3) トーリー・ホィッグから保守党・自由党へ註361-6

イギリスの議会政治は、選挙権の拡大により貴族の声を代弁するものから大衆の声にもとづく議会政治に変貌していった。17世紀以来のトーリー※4、ホイッグ※5両党は、下図のように分裂・統合をくり返しながら、保守党、自由党の2つの政党に再編された。

この当時、政権は国王により任命された首相が担っていたが、1868年の総選挙では政権を握っていたディズレーリ率いる保守党が大敗し、ディズレーリは女王に辞表を提出、後任として選挙に勝利した自由党のグラッドストーンが推挙された。これは総選挙の結果が政権交代に直接結びついた初めてのケースとなった。

{ こうして1870年代以降のイギリス政治は、2大政党制のもと、貴族政治の時代から大衆民主政治(マス・デモクラシー)の時代へと徐々に移行を遂げていくのである。}(木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P95)

図表3.24 トーリー・ホイッグから保守党・自由党へ

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出典)木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P86-P94 Wikipedia「イギリスの首相一覧」、「ダービー派」、「ピール派」、「保守党」、等を参考にして作成。

※4 トーリー(Tory) もとは「アイルランドの強盗」から来ている。貴族・聖職者などを支持基盤とする政党。現在の保守党の前身。

※5 ホイッグ(Whig) もとはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ている。都市の商工業者や中産階級を基盤にした政党。のちの自由党の前身。


3.6.1項の主要参考文献

(注)この本は複数の執筆者が章ごとに分担して執筆しており、ここで参考にした第3章「名誉革命体制と帝国の再編」(P53-P78)は坂下史氏が、第4章「貴族政治の黄金時代」(P79-P103)は、君塚直隆氏が執筆を担当している。

3.6.1項の註釈

註361-1 フランス革命とイギリス

木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P67-P68・P71-P72

{ フランス革命、ナポレオン戦争は中断を挟みながら20年以上続き、その間の軍事関係費用総額は開戦時の国家予算の6倍に及んだ。国内では1795年、1801年、1802年と深刻な不作に見舞われた。こうした状況下でなお戦争が継続されたのは、それがヨーロッパにおける名誉と覇権をかけての戦いであっただけでなく、植民地獲得による世界経済の中心への道の奪い合いでもあったことによる。政府はフランス革命に共鳴する人々の動きを警戒していたが、対仏戦争は広範な社会層からの支持を集めていた。}(木畑・秋田「近代イギリスの歴史」、P70<要約>)

註361-2 穀物法

近藤「イギリス史10講」,P209-P210 木畑・秋田「同上」,P85・P91

{ ピール首相は穀物法の廃止を決意した。しかし、政権の基盤となる与党保守党には、農業利害の代表である地主貴族が大勢いたのである。…ピールはジョン・ラッセル卿率いる野党ホイッグと提携して、翌46年6月に穀物法の廃止を実現した。しかしその直後に、党内からの造反に遭ったピール政権は総辞職に追い込まれ、保守党は…分裂してしまった。}(木畑・秋田「同上」,P91)

註361-3 選挙法

近藤「同上」,P207-P208・P240 木畑・秋田「同上」,P88-P93

{ 【チャーティストの運動は】北部の工業都市バーミンガムを拠点に全国的に展開し、膨大な数の中産階級や労働者を糾合した大衆政治運動に発展した。しかし、指導者や地域同士の対立が重なり、彼らの運動は48年のロンドン大集会を最後に雲散霧消していった。}(木畑・秋田「同上」,P90)

註361-4 工場法、労働組合法

近藤「同上」,P202・P237-P238 木畑・秋田「同上」,P88・P95

{ 19世紀の労働者はブルジョワに搾取されていただけではない。彼ら独自の誇りと共同性というものがあって、拠金による任意団体/友愛組合が認められていた。
熟練労働者の組合運動が力をもち、すでに1851年に「合同機械工組合」が結成されていた。… 熟練と自負心をもつリスペクタブルな労働者が団結し、ときに「労働貴族」ともよばれる集団のプレゼンスが増した。}(近藤「同上」,P237<要約>)

註361-5 その他の改革

近藤「同上」,P202・P207 木畑・秋田「同上」,P87-P88・P91

{ 33年にはイギリス帝国全土において、奴隷主たちに総額2000万ポンドの賠償金が支払われることで、奴隷制度が廃止された。}(木畑・秋田「同上」,P88)

註361-6 トーリー・ホィッグから保守党・自由党へ

木畑・秋田「同上」,P86-P95