日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.5 ドイツ帝国の成立 / 3.5.5 イタリア統一

3.5.5 イタリア統一

たくさんの独立国家で構成されていたイタリアは、フランス革命の影響を強く受けた。北イタリアはナポレオンの支配下でナポレオン法典が導入され地方行政もフランスの制度が導入された。
ナポレオン戦争終了後、フランス革命前の状態にリセットされたが、自由主義的政治・経済とイタリア統一への運動は盛り上がり、フランスやプロイセンの力も利用しながら統一への道を歩んでいった。

図表3.17(再掲) ドイツ帝国の成立

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(1) ウィーン体制におけるイタリア註355-1

ナポレオン戦争終結後、ウィーン会議によってイタリア半島はほぼフランス革命前の状態に戻されることになった。それは大きく次の4つに区分されるが、①と③はオーストリアの支配下にあった。

図表3.22 統一前のイタリア

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(2) イタリア統一をめぐる考え方註355-2

フランス革命~ナポレオン帝国の時代に、フランスの支配下で自由の空気を吸ったイタリア北部と中部の人々は、反動的なウィーン体制下で言論や集会の自由が厳しく制限されることには我慢ができなかった。外国支配からの解放を目指す人々は秘密結社を作って活動を始めた。こうした活動――リソルジメント(復興、再興)と呼ぶことがある――を通じてイタリア統一については様々な方法が提示された。以下はその例である。(カッコ内は提唱者)

(3) 1848年革命註355-3

憲法制定を求める反乱は、1821年にサルディーニャ王国で発生したのを皮切りに1830年7月には教皇国家と隣接するモーデナ公国、パルマ公国でも反乱が起きたが、いずれもオーストリア軍の介入により鎮圧された。

1848年になると1月にシチリアで民衆反乱が起き、3月にウィーン革命でメッテルニヒが失脚するとヴェネツィアやミラノでも民衆が蜂起し、ミラノでは臨時政府が成立した。これを見たサルディーニャ国王は、ロンバルディアの領有を狙ってオーストリアに宣戦布告した(第1次イタリア独立戦争)が、オーストリア軍に敗れ、8月に休戦協定を結んだ。

翌1849年初めには教皇国家内で制憲議会のための選挙が行われ、2月に「ローマ共和国」の成立が宣言された。しかし、4月にオーストリア軍が侵攻してローマ共和国は崩壊、シチリア、ミラノ、ヴェネツィアなどの抵抗も鎮圧され、1848年革命は終息した。

(4) (第2次)イタリア独立戦争(1859-60年)註355-4

開戦の経緯

1848年革命の後、サルディーニャ王国はイタリア諸国家のなかで唯一の憲法と議会による政治を維持する国家となり、革命を目指す他国の人々を多数受け入れた。1852年に首相に就任したカヴールは、教会の影響力排除と経済発展に力を注ぐとともに、外交においても1853-56年のクリミア戦争に参戦してナポレオン3世とのパイプを作った。

1858年7月、カヴールはナポレオン3世と会談し、サルディーニャ王国が北イタリアを統一することにフランスが協力する見返りにサヴォイワとニースをフランスに割譲することが決められた。

開戦

1859年4月、サルディーニャ・フランス連合軍は、オーストリアとの戦争を開始した。同年6月のソルフェリーノの戦いは激戦になり連合軍は勝利したが、両軍におびただしい犠牲者がでた。この悲惨な戦いがのちに国際赤十字設立につながったのだが、ナポレオン3世もフランス国内からの世論におされてオーストリアとの休戦を決めた。その結果、ロンバルディアのみがサルディーニャに併合されることになった。

中部の統一

この間、中部イタリアのトスカーナなどでは、統一を求める民衆の動きがあり、1860年3月に住民投票を実施した結果、圧倒的多数でサルディーニャ王国への併合が決められた。
この時点で、イタリア半島で統一されていないのは、いまだオーストリア支配下にあったヴェーネト、ローマ周辺だけになった教皇国家、そしてナポリ・シチリアの両シチリア王国だった。

(5) イタリア統一の完成註355-5

ガリバルディは、ニース出身の革命家でジェノヴァの蜂起で死刑判決を受け、アメリカに亡命していた。1854年にイタリアに戻った彼は、シチリア人活動家の提案を受け入れ、両シチリア王国を支配するブルボン家を打倒するために挙兵した。1860年5月、彼は千人隊と呼ばれる義勇兵を募ってシチリアに渡り、現地の義勇兵と合流してシチリア島を制覇し、イタリア半島を北上してナポリで両シチリア王を追いつめた。

これを見たカヴ―ルは機先を制してシチリア島と半島南部で住民投票を行うことを決め、10月それを実施した結果、圧倒的多数で合併が支持された。
こうして、1861年3月17日、イタリア王国が成立したが、ヴェネツィアのあるヴェーネト地方はまだオーストリア領であり、ローマには教皇が居座っていた。

1866年、イタリアは普墺戦争にプロイセン側で参戦し、オーストリアに勝利した結果、同年10月ヴェ―ネト地方がイタリアに併合された。

教皇ピウス9世は最後までローマをイタリアに併合することを拒んでいたが、1870年普仏戦争により後ろ盾だったフランスが敗北すると、イタリア政府は軍を送ってローマを占拠し、首都をフィレンツェからローマに移した。このあと、しばらくの間、ローマ教皇庁とイタリア政府の間は絶縁状態が続くことになる。


コラム 日本とイタリア

日本は明治維新によりイタリアは統一により、ほぼ同時期に近代化に向けた歩みを始めたが、その後の歩みには似た部分が多い。近代国民国家の形成と工業化、政治の民主化から一転して全体主義化し、植民地獲得競争に参加、第2次世界大戦で同盟を組んだが敗戦、戦後の民主化と高度経済成長、などである。

しかし、両者の出発点はまったく異なっていた。日本は封建的なものが残ってはいるが一つの国家として継続していたのに対して、イタリアは古代ローマ帝国以降1500年以上続いた分裂状態から一つの国家を形成したのである。そのため、イタリアという国家の存在を民衆に自覚させることは、日本とは比べようもなく困難な事業であった。「イタリアは作られたが、イタリア人を作るのはこれからだ」というのが、統一後のイタリアで語られたスローガンだった、という。

(参考文献; 北村「イタリア史10講」,Ps2064-)


3.5.5項の主要参考文献

3.5.5項の註釈

註355-1 ウィーン体制におけるイタリア

北村「イタリア史10講」,Ps1825-

{ ウィーン会議の結果、おおむねフランス革命以前の体制が復活することになった。しかし、消滅したヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国が復活することはなく、 前者は旧ミラノ王国と合併してロンバルド・ヴェーネト王国となり、後者はサルディーニャ王国に併合された。ハプスブルク家による支配が復活したトスカーナ大公国や、オーストリア軍が北部に常駐することになった教皇国家とあわせ、オーストリア支配はいっそう強化された。}(北村「同上」,P1825-<要約>)

註355-2 イタリア統一をめぐる考え方

北村「同上」,Ps1726-・Ps1867-

{ 19世紀前半のイタリアは、しばしば「リソルジメントの時代」と呼ばれる。「リソルジメント」とは復興、再興を表すイタリア語で、すでに18世紀後半から用いられていた言葉である。イタリア諸国を再生し、過去の栄光を取り戻すということであり、その際に参照されるのがルネサンス期における文化の輝きであった。
日本ではリソルジメントを「イタリア国家統一運動」と訳すことがあるが、本来この言葉には、イタリア諸国を単一の国家にするという意味合いは込められていなかった。… しかし、この時期のさまざまな動きを経て、結果的にイタリアに統一国家が誕生したことは事実であり、その意味でリソルジメントをイタリア統一にいたる一連の過程としてみることは可能であろう。}(北村「同上」,Ps1726-)

註355-3 1848年革命

北村「同上」,Ps1887-

註355-4 イタリア独立戦争

北村「同上」,Ps1949- Wikipedia「イタリア統一運動」

{ カヴ―ル(1810-61)は、ビエモンテの貴族の家に生まれ、フランス語とビエモンテ方言の環境で育った。士官学校に入学後、パリやロンドンに遊学し、自由主義的な政治や経済の実態に触れた。… カヴ―ルは農商相、財務省を歴任したのち、1852年に首相に就任する。議会内の左派勢力と連携し議会の安定多数を確保した上での政権運営であった。}(北村「同上」,Ps1949-)

註355-5 イタリア統一の完成

北村「同上」,Ps2007-