日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.5 ドイツ帝国の成立 / 3.5.4 普仏戦争

3.5.4 普仏戦争

普仏戦争は、ビスマルクが改ざんした電報を発信し、それにフランス、プロイセン両国のナショナリズムが反応して起きた戦争である。プロイセンの近代的軍隊に対して、旧態依然たるフランス軍はあっけなく負け、皇帝ナポレオン3世は捕虜となった。勝利したプロイセンは念願のドイツ統一を成し遂げただけでなく、アルザス・ロレーヌ地方の領有と高額の賠償金を受取ったが、それはフランス人に復讐心を植え付けることになった。

図表3.17(再掲) ドイツ帝国の成立

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(1) 背景註354-1

普墺戦争により、プロイセンは北ドイツ連邦の盟主となったが、ドイツ統一にはバーデン、バイエルンなど南ドイツ諸邦の併合が必要であり、その機会を狙っていた。

一方、ナポレオン3世は、ルクセンブルクの買収を試みたが失敗、メキシコ遠征にも失敗して外交上の失点を重ねていた。ルクセンブルクの買収は南ドイツ諸邦に動揺を与えたが、ビスマルクはこの機をとらえて、1866年から67年にかけて諸邦とのあいだに攻守同盟を締結した。ドイツ統一のためには、さらにもう一押しが必要な状態になっていた。

(2) エムス電報事件註354-2

1868年9月、スペインで無血革命が起きて女王イサベル2世が退位させられると、次の王としてプロイセン王族の傍系ホーエンツォレルン家のレオポルト大公に白羽の矢がたった。ドイツ系の王国に東西を挟まれるのを嫌ったフランスは強硬に反対、プロイセン王ヴィルヘルム1世はレオポルト大公に辞退を促した。

それでも満足しないフランスはヴィルヘルム1世に特使を送り、「将来にわたって承認しない」ことを確約させようとした。1870年7月13日、フランスの特使はドイツ西部の温泉地エムスで療養中のヴィルヘルム1世を訪問して謝罪状と「保証書」を書くように要求した。国王はこれを拒絶し、会見の模様をビスマルクに電報で知らせた。

ビスマルクはこれを受取り、その内容の一部を改ざんして新聞記者に公開、さらに各国政府にも送った。改ざんした電報では、国王自身が特使に対して「今後は引見しない」と述べたように読めるものだった。原文では「これ以上特使に言うことはない」となっているものを、ビスマルクはフランスの非礼と国王の怒りを強調した内容に改ざんしたのである。

この電報に対してフランスでは「プロイセン国王は非礼だ! という声が高まり、プロイセンや南ドイツ諸邦では「国王に対する侮辱だ」と反応した。

(3) 開戦

宣戦布告註354-3

フランスでは7月13日にビスマルクが発した電文が内閣に届き、特使からも国王との面談の様子が電報で送られて来たが、特に問題となることはなく、非戦派が多数を占めていた。

ところが翌14日になると空気は一変する。パリの市街では大群衆があちこちで「戦争を!ベルリンへ!」と叫び始めた。この声に押されて内閣は開戦を決断し、予備役の召集を決める。翌日、議会が開かれ、賛成多数で開戦を決定、7月19日プロイセンに公式に宣戦布告を通知した。ナポレオン3世は開戦に乗り気ではなかったが、世論の圧力を受けて開戦に同意せざるをえなかった。

プロイセンではこれを受けて7月19日、連邦議会が開かれ全会一致で宣戦布告を返すことを決定した。

同盟工作註354-4

南ドイツ諸邦は7月15日にフランスが宣戦を決定した旨が伝わると、エムス電報でドイツ人としての衿持が問われたと考えた民衆はフランスとの開戦を支持、17日までにすべての邦国で動員令が発出された。

フランスは、デンマーク、イタリア、オーストリアに対して同盟を呼びかけたが、いずれも国内事情などにより中立を決め込んだ。イギリスもロシアも中立であった。

開戦註354-5

ドイツ軍の開戦時戦力は、主力となる3軍(右翼、中央、左翼)が合計38.4万人、後備軍10万人だったが、主力3軍は7月末までに動員を終わってフランス国境付近に配置され、7月31日にはマインツに大本営が設置された。

一方のフランス軍はナポレオン3世本人が総司令官となって従軍することになったが、軍の編成が皇帝の鶴の一声で変更になったり、動員計画がずさんだったりして、兵士の召集や武器・弾薬・食糧などの調達が遅れた。7月28日の時点で前線に25万人を配置したつもりが20万しかそろわない、というような情況であった。

それでも、先手を取ったのはフランス軍であった。8月2日、国境を越えてドイツに入ったところにあるザールブリュッケンという町を攻撃し、プロイセン軍を駆逐して占領した。

図表3.21 普仏戦争関連地図

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(4) スダン攻防戦註354-6

国境付近で仏軍連敗

初戦でフランス軍は小さな勝利を得たものの、8月4日から6日にかけて行われた独仏国境線での戦闘(8/4ヴィサンブール、8/5フシュヴィレール、8/6スピシュラン、8/6フォルバック)には連敗し、フランスの劣勢が明確になった。近代化し士気も高いドイツ軍に、フランス軍は歯が立たなかったのである。

パリの政変

フランス軍敗北の知らせは8月6日にパリに届き、内閣の責任を追及する声が高まる。開戦時のオリヴィエ内閣は辞任し、新たにアロー戦争(1856-60年)で名をはせたパリカオ将軍(シャルル・クーザン=モントーバン伯爵)を首班とする内閣が発足した。

ナポレオン3世の逡巡

ナポレオン3世が率いるフランス軍本隊はメッスに本拠地をおいていた。敗報を聞いてナポレオン3世は大きな衝撃を受け、撤退を口に出すようになる。ドイツ軍はフランス領内に侵入し、メッス付近にもせまっていた。8月12日、ナポレオンは総司令官を辞任し、14日シャロンを目指してメッスを離れた。

8月14日から18日にかけてメッスの攻防戦が行われたが、決定打がないまま、メッスはドイツ軍に包囲される。

8月17日、フランス軍はシャロンでの御前会議でパリに戻って再起を期すことを決めたが、それを聞いたパリのパリカオ内閣は皇帝のパリ帰還に反対し、メッス守備軍の救援に向かうべし、と主張した。皇帝はやむなく、マク・マオンの指揮する軍とともに、メッスに戻ることになった。

といっても、すでにメッス周辺はドイツ軍に包囲されていたので、直接メッスにもどるのではなく、迂回していったん北上し、その後メッスに向かうことにした。

スダンの決戦

皇帝とマク・マオンの軍は、8月21日にシャロンを発って、ランス経由で北東を目指した。この動きをつかんだドイツ軍は、マク・マオンの軍を追って北上し、8月30日両軍はボーモンで激突した。フランス軍はドイツ軍に押されて後退し、スダンに入城した。

8月31日からスダン周辺で戦いが始まり、9月1日には本格的な戦闘が行われたが、まもなく、マク・マオン将軍は負傷して動けなくなった。ドイツ軍の猛攻撃の前に、フランス軍は夕方5時半、ナポレオン3世の指示により白旗を掲げて降伏した。

こうして、ナポレオン3世を含む将兵8.4万人がドイツ軍の捕虜となり、ドイツに移送された。なお、ドイツ軍はフランス軍が降伏するまで、そこにナポレオン3世がいることを知らなかった。

(5) パリ包囲戦

国防政府_帝政の崩壊註354-7

皇帝が捕虜になった、という情報は、9月4日未明に開かれたパリの議会で公式に報告された。夜明けとともにその情報はパリ中に拡がり、群衆が集まってきてコンコルド広場やブルボン宮は黒山のひとだかりとなった。議会穏健共和派のファーブルらは、この群衆の前で帝政の廃止と共和政の宣言を行い、共和派議員を閣僚とする国防政府の樹立を群衆に承認させた。立法議会もこれに反対することはできなかった。こうして、いわば無血革命によって帝政は廃止され共和政が発足した。

パリの防衛と反撃註354-8

政府首脳は「勝機なし」と考えていたが、フランス革命の幻影を追う群衆はあくまでも徹底抗戦を叫んでおり、当分の間、籠城戦を続けざるをえなかった。9月中にパリでは、大砲や監視小屋の設置、バリケードの構築などの工事が行われ、即席の防衛体制が整えられた。

パリにはフランス正規軍総勢8万がいた。ほかに国民衛兵が30万いたが、こちらは訓練不足などで使えなかった。対するドイツの正規軍は9月30日時点で23.5万。フランス正規軍は包囲するドイツ軍への反撃を何回か行ったが、いずれも退けられた。

ドイツ軍の方針註354-9

ビスマルクは戦争が長引くことによる悪影響――イギリスなどの介入、ドイツ世論の厭戦気分など――を恐れて、早期終結を望み、パリの砲撃や焼き討ちもやむなし、と考えていた。参謀総長モルトケも最初はビスマルクに同調して9月末に総攻撃を予定していたが、しだいに籠城戦に考えが変わっていった。敵主力を野戦に誘い出して壊滅的打撃を与えない限り、突入は多大な犠牲を出すだけ、と判断したのである。

パリの窮迫註354-10

パリの公道のガス灯が止まったのが10月26日、家庭へのガス供給は11月30日に停止、食糧価格はうなぎのぼりに上昇、備蓄食料が底を尽くのは2月5日、ということがわかり、期待していた地方からの援軍も困難なことが判明してきた。

パリ以外の地方都市の戦闘でも11月にはメッスが陥落するなど、各地でフランス軍は敗北していった。地方ではこうした情況が伝わるにつれて厭戦気分がたかまり、多くの地方で早期終戦を望むようになった。

休戦協定註354-11

講和条件や休戦の条件については9月の初旬から、非公式な打ち合わせが行われていたが、休戦協定に関する正式な交渉は1871年1月23日から始まった。ビスマルクが提示した休戦条件は、①パリ外部要塞の引き渡し、②パリ軍の軍事物資の引き渡しと引き換えにパリへの補給実施、③憲法制定議会のための選挙と議会の開催、④戦闘停止、であり、この条件で1月26日に休戦協定は合意された。

食糧を満載した最初の列車がパリに入ったのは2月4日、選挙は2月8日に実施された。
臨時議会は2月13日、治安の悪いパリを避けてボルドーで開催され、アドルフ・ティエールを「行政長官」に選出した。ティエールは73才の高齢であったが、7月革命後に首相を務めた保守的な共和派で、すでにパリ包囲中に列強を訪問したり、ビスマルクと休戦協定について非公式会談を行っていた。ティエールの最大のミッションは、講和条約の締結であった。

(6) ドイツ帝国成立註354-12

まだ休戦協定も成立していない1871年1月18日、パリ郊外ヴェルサイユ宮殿鏡の間で、プロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝への戴冠式が挙行された。普仏戦争を通してドイツ人としての連帯感が高まり、南ドイツ諸邦もプロイセンを中心にしたドイツ統一を受容するにいたったのである。

(7) 講和交渉註354-13

当時のヨーロッパの慣行で和平へのプロセスは、休戦協定→仮講和条約→本条約の3段階になっていた。ティエールは、2月21日から仮講和条約の交渉をビスマルクとはじめた。

ドイツの要求

ドイツの主たる要求は、アルザスとロレーヌの割譲と賠償金の支払いである。ティエールは11月初旬にビスマルクと会談した際、この条件を聞いていた。特に問題となったのはアルザス、ロレーヌの割譲で、フランス側はこれに猛反発したが、ビスマルクは一歩もひかなかった。普墺戦争ではオーストリアの賠償を軽くしたため、オーストリアのドイツへの反感は小さく抑えられたが、ドイツ軍部には大きな不満が残り、今回はビスマルクとしても軍部の要求を削ることはできなかったのである。

仮講和条約の調印

結局、賠償金の額を60億フランから50億フランに減額することで、2月26日、ティエールは仮条約に合意せざるを得なかった。1871年3月1日、フランス国民議会は仮条約を批准した。

本条約(フランクフルト講和条約)の調印

仮条約後、両国の間で賠償金の支払い方法、割譲する具体的な地域など詳細についての交渉が行われた。賠償金の支払いは3年間の分割払いで完済するまでドイツ軍が駐屯する、割譲地域はフランス側要求を入れて若干の変更はあったが、アルザス、ロレーヌの大半を割譲することに変わりはなかった。1871年5月10日、フランクフルトで両国は調印した。

(8) パリ・コミューン註354-14

1871年3月18日、パリ・モンマルトルの丘で国民衛兵の所有する大砲を、休戦条約に基づく武装解除のために正規軍が接収しようとしたとき、それに反発して集まった国民衛兵たちが反乱を起こした。国防政府はヴェルサイユに待避し、国民衛兵中央委員会はパリ住民による選挙を実施して、3月28日パリ・コミューン(=自治都市)の成立が宣言された。

しかし、5月21日ティエールは軍を派遣して鎮圧に乗り出し、パリ以外の都市で起きた同様の蜂起も含めて、5月末までには多数の関係者を摘発し死刑、流刑、追放などに処した。

この事件はのちの社会主義運動に影響を与えたが、その具体的な評価については諸説がある。

(9) フランスの戦後

賠償金の返済註354-15

賠償金の返済は国債の発行によって賄われた。1871年のうちに15億フランを返済、その後も順調に返済を続け、予定より半年ほど早く1873年9月までに完済した。賠償金の返済に伴って、駐留していたドイツ兵は少しずつ撤退し、完済とともにすべてのドイツ兵が撤退した。ドイツ兵とフランス人とのあいだのトラブルは問題になるほど多くはなかった、という。

アルザス・ロレーヌ問題註354-16

ドイツがアルザス・ロレーヌを要求したのは、将来のフランスからの報復戦における防塞拠点とするためであった。アルザス・ロレーヌ地方では言語はドイツ語が多く使われているが、文化はフランス的だった。住民の意志を聴くことなしにドイツ帝国に編入されてからは、ドイツへの反発が募っていった。領土を奪われたフランス本土の住民のドイツに対する怨念もそれに負けぬくらい強かった。

{ フランス国民の大部分は第1次大戦に際し、ドイツからアルザス・ロレーヌを奪還する戦争目的を納得し、正義が自分たちにあることを疑わなかった。}(柴田「フランス史10講」,P185<要約>)

共和政の安定化註354-17

講和条約締結と終戦処理にティエールは指導力を発揮したが、事態が落ち着いてくると議会の王党派と共和派、左派の対立が表面化してきた。1873年にティエールは失脚し、後任にマク・マオンが就いた。議会はそれまで王党派が多数を占めていたが、共和派が勢力をのばすなかでマク・マオンも1879年に辞任し、かわって穏健共和派のジュール・クレヴィが大統領に就任した。これ以降、共和派による政治が続くことになる。

(10) ドイツの戦後

ヨーロッパのパワーバランスの変化註354-18

これまでのヨーロッパの勢力均衡は、統一されないドイツにおいてオ-ストリアとプロイセンが牽制しあうことで成立していた。しかし、プロイセンがドイツを統一した結果、他国はヨーロッパのパワーバランスの変化を感じざるを得なくなった。ビスマルクはドイツがこれ以上の勢力拡大を望んでいないことを示す必要があると考えた。

一方で、フランスの対独復讐熱は脅威であり、独墺同盟(1879)、独墺伊同盟(1882)などを締結して、フランスへの包囲網を作った。さらに、ヨーロッパで戦争が起きないよう、「鉄と血」ではなく、「公正な仲介人」として外交力で平和を維持しようとし、それは一定の成果をあげた。しかし、そのバランスはビスマルクが政界から去ると崩れていく。

経済発展註354-19

フランスから得た莫大な賠償金50億フランは、当時の帝国予算の2倍という高額であり、ドイツ政府は負債をすべて返却し、再軍備や議会建設などの費用にあてた。これにより重工業や建設業へ大量の発注が行われ、企業設立ブームが起きた。1873-74年の世界的な「大不況」に対応するなかで、ドイツは軍国主義化、帝国主義化への動きを加速し、経済成長は第1次大戦(1914-18)まで継続する。

ドイツの経済成長をけん引したのは、はじめは鉄と石炭であり、続いて化学や電機という技術産業で世界をリードした。20世紀初め、総輸出額でアメリカについで世界第2位、農業生産も増加し、人口は41百万人から65百万人になった。


3.5.4項の主要参考文献

(注)この本は複数の執筆者が章ごとに分担して執筆しており、ここで参考にした第3章「国民国家の黎明」(P57-P80)は丸畠宏太氏が、第4章「ドイツ統一への道」(P85-P105)は松本彰氏、第5章「工業化の進行と社会主義」(P110-P134)は若尾裕司氏が執筆を担当している。

3.5.4項の註釈

註354-1 背景

松井「普仏戦争」,P49 Wikipedia「普仏戦争」

{ 普墺戦争が終ってから、プロイセンとフランスのあいだに挟まれた南ドイツ諸邦は、普仏両国の抱き込み工作の草刈場になっていた。ナポレオン3世がルクセンブルクを要求したことは南ドイツ諸国をひどく動揺させていた。}(松井「同上」,P49<要約>)

{ たび重なる外交上での失敗に、ナポレオン3世は焦りを見せ始めた。第二帝政においては、内政と外交をつねに連動させながら、皇帝は国民からの支持を得ていた。}(君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P249)

註354-2  エムス電報事件

松井「同上」,P26- 立石・内村編著「スペインの歴史」、P196-P198 Wikipedia「普仏戦争」

<ビスマルクが作った偽電報・・・下線が改ざんした部分>

エムスにて発信、1870年7月13日。スペイン王国政府からフランス帝国政府に対し、ホーエンツォレルン王子が断念したという知らせが伝えられた後に、フランス大使はエムスで陛下になお次のことを要求した。すなわち、ホーエンツォレルン家は改めて立候補することがあっても、国王陛下が決してそれを承認しないことを将来にわたって約束すると、パリに打電する許可をいただきたい、と。その後、国王陛下はフランス大使を引見することを断り、勤務中の侍従を通して、陛下は大使にこれ以上何も伝えることはない、と大使に伝えさせた。}(松井「同上」,P27)

①は追記されたもので、国王自身が電文を発信したかのような印象を与えた。

②は原文では侍従が国王に言ったことになっているが、ビスマルクはこれを国王自身が言ったかのように書き換えている。

註354-3 宣戦布告

松井「同上」,P31-P45

{ 皇帝の本音は軍隊への宣言文に端的に表れている。すなわち、「諸君はヨーロッパ最強の軍隊と戦うことになろう。戦争は長く、辛いものとなろう」――これはどうみても主戦論者の主張ではない。}(松井「同上」,P40)

{ 連邦議会は討論に移ったが、… ドイツが戦うのは皇帝(ナポレオン3世)に対してであり、フランス人に対してではないことが繰り返し強調された。つまり、ドイツ人が直面しているのは、「ナポレオン」が惹き起こした侵略から国土を防衛すること、だった。}(松井「同上」,P44-P45<要約>)

註354-4 同盟工作

松井「同上」,P46-P49

註354-5 開戦

松井「同上」,P86-P147 Wikipedia「普仏戦争」

{ 【フランスの】陸相ルブーフは宣戦を決めた7月15日の立法院での答弁で言い切った。「われわれは、準備万端整っており、たとえ戦争が1年続くようなことになっても、ゲートルのボタンひとつですら、新たに購入する必要はない」。}(松井「同上」、P55)

{ 対仏戦を想定した作戦計画はすでに1年半前に完成していた。… プロイセンの戦時体制は軍事・民事・外交面において臨機応変の処置を可能にしたという意味で合理的であり、余力さえ感じさせるものがあった。}(松井「同上」、P70)

註354-6 スダン攻防戦

松井「同上」,P49-P50 Wikipedia「普仏戦争」

スダン(sedan)はフランス北東部の町。"セダン"とも表記する。

{ 【ナポレオン3世の】皇帝親書にはこう書かれていた。  「わが軍の真直中で死ぬことができなかったため、私の剣を陛下の前に差し出す以外に術がなくなりました。 ナポレオン。 スダンにて 1870年9月1日 」
… プロイセン王は皇帝宛ての短い書面をしたためた。  「わが兄弟へ。 われわれが出会った運命を遺憾と思いつつ私は陛下の剣を受け取ります。陛下の命令のもと 勇敢に戦うも敗れるにいたった貴軍の降伏条件について交渉するための全権を付与された貴軍将校を指名していただきたく存じます。私の側ではこのためにモルトケ将軍を指名しました。 ヴィルヘルム。 スダンを前にして、 1870年9月1日 」}(松井「同上」,P135-P136)

註354-7 国防政府

松井「同上」,P150-P167 Wikipedia「普仏戦争」 コトバンク〔日本大百科全書〕「国防政府」

註354-8 パリの防衛と反撃

松井「同上」,P174-P190、P206-P209、P232-P242 Wikipedia「普仏戦争」

註354-9 ドイツ軍の方針

松井「同上」,P192-P193、P249-P250

{ 早期陥落を求める宰相と陸相は、包囲が2カ月以上も経つというのに、パリがまだ陥ちないことに苛立ちを隠せなかった。それというのも、中立国特に英国の世論がパリ封鎖への同情を呼び込み、自国政府に対し戦争介入を迫っていたからだ。焦るあまり、宰相は11月28日、パリ砲撃を国王に直訴した。それが実現するのは1カ月以上も後のことである。}(松井「同上」,P249)

註354-10 パリの窮迫

松井「同上」,P244-P249

註354-11 休戦協定

松井「同上」,P49-P50 Wikipedia「普仏戦争」

註354-12  ドイツ帝国成立

松井「同上」,P376

註354-13 講和交渉

松井「同上」,P227-P229、P274-P283、P307-P312 Wikipedia「普仏戦争」

{ 【仮条約調印後】ティエールとファーブルは馬車でパリに向かった。道すがら、ファーブルは悲痛な手紙を書く。 「ドイツ人は晴れやかである。… ティエール氏はこの英雄的な試練を耐え抜いた。… 車内で彼は涙を流した。われわれはこんな調子でパリまで来た。彼はずっと涙を流していた。私は悲しみいっぱいで潰されそうだった。午後は快晴である。私は死にたくなった」。}(松井「同上」,P280)

註354-14 パリ・コミューン

服部・谷川「フランス近代史」,P157-P161 Wikipedia「パリ・コミューン」

{ 4月19日ほぼ満場一致で票決した「フランスの民衆に対する宣言」が要求しているのは、… すべての公務員の直接選挙とリコール制の導入、公務員の給与は一般の労働者を上回らないこと、政治警察の廃止、徴兵制と常備軍を廃止し国民衛兵にとって替えることなどである。これらは国家レベルのものではなく、パリに限られた問題であり、自治都市パリの回復が謳われていた。}(服部・谷川「同上」,P159)

註354-15 賠償金の返済

松井「同上」,P310-P331

註354-16 アルザス・ロレーヌ問題

松井「同上」,P419-P422

{ フランス第3共和政は王政か共和政かで10年間揺らぐが、究極的に政治的安定に向かうのは国民全体がドイツという仮想敵を持ち続けることができたからである。それは、フランス人のアルザス・ロレーヌに対する贖罪意識の裏返しの表現ともいえるのではないだろうか。}(松井「同上」,P422)

註354-17 共和政の安定化

柴田「フランス史10講」,P166-P168 松井「同上」,P332-P333 Wikipedia「アドルフ・ティエール」

註354-18 ヨーロッパのパワーバランスの変化

坂井「ドイツ史10講」,Ps2180- 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P274-P275

{ 「ビスマルク体制」は3本の柱によって支えられていた。 ①バルカン半島におけるロシアとオーストリアとの確執を緩和すること、②イギリスとロシアの両国がドイツを必要とする状態を生みだすこと、③フランスの孤立化であり、フランスがいずれの国とも同盟を結ばないように画策した。}(君塚「同上」,P275)

註354-19 経済発展

坂井「同上」,Ps2228- 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P131-P133