日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.5 ドイツ帝国の成立 / 3.5.3 普墺戦争

3.5.3 普墺戦争

ドイツ統一の議論は、1848年以降も熱を帯びてきたが、オーストリア、プロイセンの間でどちらが統一の主導権を握るかは、戦争で決着をつけるしかなくなった。そのきっかけになったのが、ドイツ北方の領土についてデンマークと争った戦争である。この戦争にプロイセン・オーストリア連合軍は勝利したものの、戦後処理で紛糾した。ビスマルクの巧妙な策略にのせられてオーストリアはプロイセンとの戦争を開始したが、鉄道や電信を活用したプロイセン軍の機動作戦にオーストリアはあっけなく敗れた。

図表3.17(再掲) ドイツ帝国の成立

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(1) ビスマルク登場註353-1

ビスマルク(独: Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen、1815生-1898没)は、プロイセン東部の地主貴族(ユンカー)出身で、1847年に超保守派の代議士として政界入りし、1851年にドイツ連邦議会でプロイセン大使としてオーストリアとの折衝に当たった。1861年にプロイセン国王に即位したヴィルヘルム1世は軍制改革を目指したが議会に反対されている状況を打破するために、1862年、軍備増強を主張するビスマルクを宰相に登用した。

ビスマルクは就任直後、「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」という有名な演説を行って鉄血宰相の異名を奉られた。議会は軍制改革を否決したが、ビスマルクは無視して軍備増強を強行した。しかし、彼は国民の声をまったく無視したわけではなく、経済政策では国民の要望に沿った政策を実行したし、普墺戦争後には議会無視の政治が正常ではないことを認めて予算の事後承認を求めた。{ 政府と議会が交渉と妥協を通じて政治を運営するという「協商議会主義」とでもいうべき路線が、ドイツの今後の政治運営の在り方として浮上してきた。}(坂井「ドイツ史10講」,Ps2049-)

(2) ドイツの政党と統一運動組織註353-2

1861年、プロイセンでは資本家、ブルジョアジーの利害を代表する近代的政党として「ドイツ進歩党」が成立し、営業の自由や自由貿易など、自由主義を主張した。一方、労働者階級の組織化も進み、労働者協会が各地に設立され、やがてドイツ社会民主党の成立へと発展していく。

ドイツ統一運動については、次の2つの組織が設立された。

・ドイツ国民協会(1859年設立); 名望家市民層を中心に広い層が参加し、関税同盟領域構想(図表3.19の<A>)、ドイツ連邦構想(同<B>)、中欧構想(同<C>)などさまざまな構想を支持する人たちがいた。

・ドイツ改革協会(1862年設立); オーストリアが中欧構想(同<C>)を実現するためにつくった組織である。

(3) デンマーク戦争(1864年)註353-3

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題

デンマークのあるユトランド半島の付け根に北からシュレースヴィヒ、ホルシュタインという2つの公国があった。この公国の君主は両方ともデンマーク王だったが、ウィーン体制ではホルシュタインはドイツ連邦、シュレースヴィヒはデンマーク王国の領域とされ、デンマーク王はドイツ連邦に加盟していた。この2つの国はともにドイツ人の多い国であり、1848年の3月革命のときにドイツに帰属させようと運動が活発になったが、諸外国の仲介で現状が維持されていた。

そのような状況下で、1863年デンマーク王クリスティアン9世はシュレースヴィヒのデンマークへの併合を強行した。

戦争とその結果

1864年2月、ビスマルクはオーストリアを誘いプロイセン=オーストリア連合軍でデンマークに侵攻した。途中でイギリスの仲介があったが決裂し、同年7月には戦闘が再開されたがデンマークは敗れ、シュレースヴィヒ・ホルシュタインはプロイセンとオーストリアの共同統治となった。この結果にビスマルクは満足せず、1865年のガシュタイン条約でプロイセンがシュレースヴィヒ、オーストリアがホルシュタインを統治することになったが、これが普墺戦争のきっかけになる。

(4) 普墺戦争(1866年)註353-4

外交戦

ビスマルクは、デンマーク戦争が終るやいなや、1865年10月フランスのナポレオン3世と会見、フランスが中立を約束する見返りにライン川左岸を割譲する、という密約(ピアリッツの密約)を結んだ。また、イタリアと交渉し、ヴェネツィアの割譲を条件に参戦する約束を取り付けた。こうしてプロイセンは1866年2月にはオーストリアとの開戦を決意していた。

一方、オーストリアも1866年6月にナポレオン3世と密約を結び、勝利したときにはライン川左岸を譲渡する約束で協力を要請していた。ナポレオン3世は2枚舌外交でライン川左岸を入手しようとしていたのである。

開戦

1866年6月7日、シュレースヴィヒに駐屯していたプロイセン軍は、オーストリアが統治するホルシュタインに侵入した。6月11日、オーストリアはドイツ連邦議会でプロイセンを非難し、連邦軍の動員を決議させた。ドイツ連邦の諸邦国のうち、ザクセン、バイエルン、ハノーファーなど主要国はオーストリア側について戦うことになった。

6月15日、プロイセン軍は宣戦布告を行って、ザクセン、ハノーファーなどに侵攻した。プロイセン軍は参謀総長モルトケのもと、電信や鉄道など最新のインフラを活用した電撃的戦略や高性能な大砲・銃でオーストリア軍を圧倒し、7月3日ボヘミア中部ケーニヒグレーツでの決戦に大勝した。ナポレオン3世はあわてて介入しようとしたが、出る幕はなかった。

終戦

1866年8月23日にはプラハ条約が締結され、ドイツ連邦の解体、ドイツ統一に関するオーストリアの不干渉、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン及びハノーファーのプロイセンへの併合、ヴェネツィアのイタリアへの割譲、オーストリアの賠償金支払い、などが決まった。ビスマルクはナポレオン3世との密約を反故にし、これが次の普仏戦争の原因のひとつになる。

(5) 北ドイツ連邦註353-5

オーストリアはドイツ統一から完全にはずされ、プロイセンによるドイツ統一が進められることになった。
プロイセンは1867年4月、バイエルン、バーデン、ヴュルテンブルクなど南ドイツの邦国を除く22カ国により「北ドイツ連邦」を形成した。

図表3.20 北ドイツ連邦

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(6) オーストリアの再編註353-6

オーストリア(=ハプスブルク帝国)は、ハプスブルク家の世襲領のほかに多数の王国や公国で構成される多民族国家で、中世以来の仕組みがそのまま残っていた。最も多いドイツ人が総人口の4分の1弱を占め、次がハンガリーで約2割、以下、スラブ系のチェコ人、クロアチア人、セルビア人、ポーランド人などが1割ほどを占めていた。

かといって、ドイツ統一への動きが萎んだわけではない。この後、オーストリアがクリミア戦争でロシアとの関係を悪化させ、イタリア統一戦争に敗れ、中央集権的な憲法にするなどの失点を重ねたのに対して、プロイセンは関税同盟で主導権をとり、1850年発布の憲法で立憲国家としての体制を整えたことにより、統一の核としてのプロイセンへの期待が高まっていくのである。


3.5.3項の主要参考文献

(注)この本は複数の執筆者が章ごとに分担して執筆しており、ここで参考にした第3章「国民国家の黎明」(P57-P80)は丸畠宏太氏が、第4章「ドイツ統一への道」(P85-P105)は松本彰氏、第5章「工業化の進行と社会主義」(P110-P134)は若尾裕司氏が執筆を担当している。

3.5.3項の註釈

註353-1  ビスマルク登場

坂井「ドイツ史10講」,Ps2026- 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P95-P96 Wikipedia「オットー・フォン・ビスマルク」

{ 1860年代初頭、選挙の結果、議会で自由派が優勢になり、政府が出した軍備増強策を含んだ予算案を否決し、紛糾していた。プロイセン憲法では予算の議会承認を規定していたが、否決された場合の規定がなく、議会と政府、両者は憲法解釈をめぐって激しく対立していた。… そこに登場、首相としてプロイセン政府を主導することになったのが、ビスマルクだった。}(若尾・井上「同上」,P95)

註353-2 ドイツの政党と統一運動組織

若尾・井上「同上」,P96-P98

{ 1860年代の【ドイツ統一運動の】中心は中部ドイツの都市コーブルクだった。コーブルクは、公爵エルンスト2世を領主とする国の宮廷都市だった。エルンスト2世の弟はイギリスのヴィクトリア女王の夫、ベルギー国王は叔父、プロイセンの王家やロシア皇帝家とも親戚関係にあった。そのような関係を背景にエルンスト2世はドイツ統一をめぐる運動に積極的にかかわろうとしたのである。}(若尾・井上「同上」,P97-P98)

註353-3 デンマーク戦争

若尾・井上「同上」,P99-P100 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P243-P245 Wikipedia「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」

{ ビスマルクの野望は、1848年革命でオーストリア、プロイセンの2元主義が崩れたいま、プロイセンを再び強国化し、その後にプロイセン主導でドイツを統一することであった。}(君塚「同上」,P245)

註353-4 普墺戦争

若尾・井上「同上」,P100-P101 君塚「同上」,P245-P247 Wikipedia「普墺戦争」

{ 【普墺戦争後】ビスマルクと鋭く対立していたドイツ進歩党は分裂、ビスマルク支持の国民自由党が生まれた。保守党からもビスマルク支持の自由保守党が生まれ、以後、ビスマルクはこの新しい「自由主義と保守主義の同盟」によって支えられ、自らの政策をおしすすめていく。}(若尾・井上「同上」,P101)

註353-5 北ドイツ連邦

若尾・井上「同上」,P102 君塚「同上」,P247 Wikipedia「北ドイツ連邦」

註353-6 オーストリアの再編

若尾・井上「同上」,P101-P102 加藤「ハプスブルク帝国」,P78-P80

{ ワルツ王ヨハンシュトラウス2世のワルツ「美しき青きドナウ」は、普墺戦争での敗北後、意気消沈していたウィーンの人々を励ますためにつくられた。}(若尾・井上「同上」,P101-P102<要約>)