日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.5 ドイツ帝国の成立 / 3.5.2 ドイツ統一への道

3.5.2 ドイツ統一への道

ウィーン会議(1814-15年)後のドイツ諸国の課題は、統一と自由であった。これらの活動は、オーストリアの宰相メッテルニヒが反動政策をとって自由主義化を抑えつけようとするなかで、市民運動や民衆を巻き込んだ革命によって推し進められた。

図表3.17(再掲) ドイツ帝国の成立

Efg317.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

(1) ドイツ統一3つの構想註352-1

「ドイツ人による国家」というのがドイツ統一の基本的な理念であったが、その中核となるプロイセン東部にはポーランド(スラブ)人の地域があり、オーストリア帝国はハンガリー人やイタリア人なども含む多民族国家であった。どの範囲で統一するか、という問題に対して、一般には「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」という2択で語られることが多い。

「大ドイツ主義」とは、オーストリア帝国のドイツ人地域を含めてドイツ人すべてによる国家にしようという構想であり、「小ドイツ主義」はオーストリアを含めるのは非現実的なので、それ以外の諸国だけで構成しようというものである。

「近代ドイツの歴史」の著者の一人である松本彰氏は、統一構想はつぎの3つに整理できるという。

<A> ドイツ関税同盟領域; すでに存在していた関税同盟(後述)の領域をそのまま統一国家とするもので、ここにはオーストリアは含まれないので、プロイセン主導の国家になる。プロイセン東部にはスラブ人とドイツ人が同居する地域があったが、ほぼ「小ドイツ主義」の構想に相当する。

<B> ドイツ連邦領域; 1815年に成立したドイツ連邦の領域をもとに「主にドイツ人の住んでいる地域」だけを統一するもので、「大ドイツ主義」に相当する。本来の意味での「統一と自由」を目指す方法であったが、プロイセンとオーストリアの領土はドイツ連邦の境界線の外にもあり、現実的には極めて困難だった。

<C> 中欧領域; <A>のドイツ関税同盟領域にオーストリア帝国全体をまとめて統一国家にしようという構想で、オーストリアが推進した方法で、「大ドイツ主義」の拡張版であるが、オーストリアによる支配が強まる恐れがあった。

図表3.19 ドイツ統一構想

Efg319.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

出典) 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P93 Wikipedia「ドイツ連邦」などから作成

(2) ドイツ関税同盟註352-2

ドイツ関税同盟とは、プロイセンとバイエルンやザクセンなどドイツ連邦の諸邦国との間で締結された関税同盟、すなわち同盟国間の関税は廃止し、同盟国以外の国との関税を共通化するものである。発端になったのは、1818年に制定されたプロイセン関税法である。

19世紀初頭のドイツでは、関税は諸邦国がそれぞれの都合にしたがって決めており、関税率や適用条件などは極めて複雑で、物流の阻害、密輸の横行、関税徴収費用の増大、などの問題を抱えていた。特にプロイセンの領土は東部と西部に分離しており、こうした問題の解決は経済発展や国庫収入の確保にとっても喫緊の課題になっていた。

プロイセンの関税法では、①国内関税の廃止、②輸出入の品目制限をなくし、③関税は重量にもとづく課税と消費税に統一した。これに触発されて、1828年に西南ドイツではバイエルンとヴェルデンブルクの間で南ドイツ関税同盟、ザクセン中心とする18カ国は中部ドイツ通商同盟が結成された。

プロイセンはこれらの国々と交渉し、1834年にドイツ関税同盟として統合した。その後、加盟国は増加して、1836年には25カ国2500万の人口となり、イギリスの人口2200万人を上回った。西部の工業地帯で作った工業製品を関税同盟各国で消費し、農業地帯の東部からは農産物を輸出するという経済循環が形成され、ドイツ商工業発展の基盤が整えられた。

オーストリアはこうした動きに後れをとり、ドイツ諸国の関税同盟からはじきだされた。

(3) 革命のエネルギー蓄積註352-3

ドイツ連邦成立直後に盛り上がった自由と統一を求める運動は、メッテルニヒの反動政策で一時的におさまったが、1830年7月にフランスで7月革命が起きるとザクセン、ハノーファーなどで下層民の騒擾事件が起こり、これに押されて憲法が制定された。

このような動きにメッテルニヒは、監視機関や秘密警察組織を作って言論の取り締まりに当たらせたが、活性化しつつあった市民運動をおさえることはできなくなっていた。知識階層の市民が市民団体を作り、下層民も巻き込んで官憲の目をごまかしながら政治活動を組織化していった。また、この時期には乳児死亡率の低下や食糧事情の改善などのために人口が急増した結果、大衆の貧困が進み、民衆の騒乱が増加していた。

こうして革命に向けたエネルギーが蓄積されていったのである。

(4) ドイツ3月革命勃発

1848年2月22日、パリで民衆が蜂起(フランス2月革命)し、24日に共和政樹立が宣言されると、その報はまたたく間にヨーロッパ全域に広がり、各地で騒乱が発生した。ドイツ連邦諸国でも3月革命(1848年革命とも呼ばれる)が勃発した。

諸邦国の革命註352-4

ドイツ連邦における革命の先陣をきったのは、ドイツ南西部フランス国境沿いにあるバーデン大公国の都市マンハイムで、2月27日に民衆集会が開催された。立憲君主派と共和派の市民が参加し、出版・結社・集会の自由、民衆武装、陪審裁判性の導入、ドイツ議会の召集、の4点を中心にする「3月要求」が採択され、政府もこれに応じて自由主義的な内閣が組閣された。

続いて、ヴェルテンブルクなどでも自由主義内閣が成立し、3月末までにはほとんどの邦国で君主は民衆の要求に譲歩を示した。

オーストリア註352-5

ウィーンでは3月13日、民衆と警官隊が衝突し死者を出したことから、怒った民衆は建物に放火したり、工場や商店を襲った。ウィーン大学の学生もデモに立ち上がった。政府は検閲の廃止や憲法制定を約束し、メッテルニヒは辞任を余儀なくされロンドンに亡命した。オーストリアは、北イタリア、ハンガリーなど各地に民族紛争を抱えており、ブダペストやプラハなどでも騒乱が発生した。

皇帝フェルディナント1世はインスブルックに避難し、軍を導入して巻き返しにのりだした。最後まで暴動が続いたウィーンを10月に鎮圧してようやく革命は抑え込まれた。12月に新しい皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が即位すると、中央集権的な欽定憲法を制定し、反動政治にもどった。

プロイセン註352-6

首都ベルリンでは3月18日、民衆と軍隊が衝突し市内にバリケードが築かれた。国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は軍隊を引き揚げ、憲法制定を約束して自由主義的内閣を組閣したため、暴動は終息した。

(5) 国民議会註352-7

憲法は全ドイツのためにも作られることになり、各邦から選ばれた議員により1848年5月8日にフランクフルトの教会で「憲法制定ドイツ国民議会」が開かれた。この議会は「教授議会」と呼ばれるほどに学者が多かったが、実際には司法・行政の官吏の方が多く、革命というよりも改革路線であった。

議会ははじめに「国民の基本権」の問題に取り組んだが、多くの時間を費やし、政体や領土に関する議論が始まったのは10月であり、この頃には革命の熱は冷め、反動的な動きが出てきていた。

ドイツの範囲

ドイツの領土の範囲をどうするかについては、ドイツ連邦の範囲と一致させることで合意ができつつあった。その場合、オーストリアはドイツ人領域と非ドイツ人領域に分け、ドイツ人領域のみを統一ドイツに含めるが、非ドイツ人領域はドイツ人領域と同君連合のかたちで結びつけるものとした。これにオーストリアは反発し、1849年3月、オーストリア帝国全土を統一ドイツに組み込むことを国民議会に要求した。

国民議会は最終的にオーストリアをはずした小ドイツ主義的なドイツを前提とした憲法を成立させた。

プロイセン国王の拒絶

この憲法では、世襲皇帝制のほか、連邦制、議院内閣制、2院制(下院は男子普通選挙)を主な内容とした。しかし、ドイツの世襲皇帝に選ばれたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、「議会の恩恵による」帝位を拒否した。憲法は28の邦国で承認されたが、プロイセンはじめオーストリア、バイエルン、ザクセンなど有力邦国は拒絶し、憲法は宙に浮いたまま国民議会は活動を停止した。

その後、1849年5月から7月にかけてドイツ全土で国民議会の憲法承認を求める運動が燃え広がったが、プロイセン軍が出動して鎮圧され、革命は終わった。

(6) 革命の総括註352-8

ドイツ3月革命は、農民解放が実現したこと、多くの邦国が立憲国家としての体裁を整えたこと、ドイツ統一問題の関心が民衆に浸透したこと、などの成果があったものの、国民主導によるドイツ統一は失敗に終わった。

かといって、ドイツ統一への動きが萎んだわけではない。この後、オーストリアがクリミア戦争でロシアとの関係を悪化させ、イタリア統一戦争に敗れ、中央集権的な憲法にするなどの失点を重ねたのに対して、プロイセンは関税同盟で主導権をとり、1850年発布の憲法で立憲国家としての体制を整えたことにより、統一の核としてのプロイセンへの期待が高まっていくのである。


3.5.2項の主要参考文献

(注)この本は複数の執筆者が章ごとに分担して執筆しており、ここで参考にした第3章「国民国家の黎明」(P57-P80)は丸畠宏太氏が、第4章「ドイツ統一への道」(P85-P105)は松本彰氏、第5章「工業化の進行と社会主義」(P110-P134)は若尾裕司氏が執筆を担当している。

3.5.2項の註釈

註352-1  ドイツ統一3つの構想

坂井「同上」,Ps1970- 若尾・井上「同上」,P87-P93

{ オーストリアとプロイセンはヨーロッパ5大国のうちの2国だったが、その性格は対照的だった。オーストリアが中世の神聖ローマ帝国以来の伝統を誇るのに対し、プロイセンは1701年に王国になったばかりの新興国家であった。オーストリアは大土地貴族が支配する多くの民族を抱えた多民族国家だが、プロイセンは19世紀初頭になって西部のライン地方を獲得したあとは経済的成長を続ける産業資本家層が大きな影響力を持つようになっていた。こうした両国の性格の違いは、ドイツ統一への方向の違いとなっていった。}(若尾・井上「同上」,P89-90<要約>)

註352-2 ドイツ関税同盟

若尾・井上「同上」,P112-P114 坂井「同上」,Ps1999- 蔵本忍「1818年のプロイセン関税法について」,1985-4-20、明治大学学術成果リポジトリ

{ オーストリアは関税同盟の発展に加われなかった。加盟の交渉はしたのだが、自国の工業力に自信をもって低関税の自由貿易政策に傾くプロイセンと、未発達の国内工業を高関税で保護しなければならなかったオーストリアでは関税政策で一致することはできなかった。}(坂井「同上」,Ps2008-)

註352-3 革命のエネルギー蓄積

若尾・井上「同上」,P70-P73

{ 協会団体などを通じて運動が組織化された。… 特に有名なのは、男声合唱協会と体操協会であり、… 両協会は政治運動に対する官憲の厳しい目が光るなかで、ナショナリズムを広域的に発展させただけでなく、それが社会の下層へと深化するのにも大いに貢献した。}(若尾・井上「同上」,P71<要約>)

註352-4 諸邦国の革命

若尾・井上「同上」,P74-P75 坂井「同上」,Ps1922-

{ ドイツ各邦では、ナポレオン時代に始まる改革で滞っていた部分が急いで仕上げられる。改革はすでにある程度進んでいたから、その仕上げは比較的スムーズであった。代表的には農民解放による領主制の解体だが、いわゆる「近代化」のための改革はドイツの場合、総じてナポレオン時代に始まり、1848年の革命で完成をみた、と言っていいように思う。}(坂井「同上」,Ps1928-)

註352-5 オーストリア

加藤「ハプスブルク帝国」,P69-P73 若尾・井上「同上」,P74 Wikipedia「ドイツにおける1848年革命」

{ オーストリアは革命当初、ウィーンを中心とする立憲主義の運動によってだけでなく、領内各地の民族主義運動によっても大きく揺さぶられた。当時オーストリア領だったヴェネツィア、ロンバルディアとハンガリーでイタリア人とマジャール人の民族独立運動が起こり、ボヘミアでもチェコ人が民族運動を起こした。多民族国家オーストリア帝国は、国家崩壊の寸前まで行ったのである。}(坂井「同上」,Ps1953-)

註352-6 プロイセン

若尾・井上「同上」,P74-P75  Wikipedia「ドイツにおける1848年革命」

註352-7 国民議会

坂井「同上」,Ps1934- 若尾・井上「同上」,P76-P79

{ 国民議会は … 「公論」によって新しい国民国家をつくり出そうとした壮大な試みだったといえる。… 議会は「国民の基本的権利」の制定から始めたのだが、後のワイマル共和国憲法や現在のドイツ基本法の基礎にもなったこの基本権の条文ができあがって公布されたのは12月、その時にはもうドイツの政治世界は「反革命」に向かって動いていたのである。}(坂井「同上」,Ps1947-)

註352-8 革命の総括

坂井「同上」,Ps1987-、Ps2016- 若尾・井上「同上」,P79

{ 1848年の革命はウィーン体制の政治的行きづまりに加え、… 社会・経済構造の転換に伴う前近代社会の危機も重なるという、複雑かつ多面的な危機状況の産物であった。この危機は多面的であったがゆえに、革命を担う諸勢力に共通の基盤が形成されにくく、それどころか革命勢力内部に深刻な対立関係も生じたため、反革命勢力の牙城を根底から崩すことができなかった。}(若尾・井上「同上」,P79)