日本の歴史認識 > ヨーロッパが歩んだ道 > 第3章 / 3.5 ドイツ帝国の成立 / 3.5.1 フランス革命とドイツ
ウィーン会議により、ナポレオンが解散した神聖ローマ帝国に代わって「ドイツ連邦」が結成されたが、これは「主にドイツ人が住む地域」を諸邦国の主権を尊重したまま、ゆるやかに結合しただけのもので、統一国家と呼べるようなものではなかった。フランス革命が刺激したナショナリズムは、英仏露などの列強に対抗できる統一国家を求める動きと、憲法と議会を設立しようという活動を結びつけ、統一運動を活性化させていった。
「ドイツ人の国」の範囲については、プロイセンを中心とする「小ドイツ主義」、オーストリアを加えた「大ドイツ主義」があり、ドイツ連邦成立以来、活発な議論がなされてきたが、結論が出ないまま時間は過ぎていった。そこに登場したプロイセンの宰相ビスマルクは「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と演説し、普墺戦争をしかけてオーストリアを蹴落としたあと、フランスにも戦争を挑発して勝利することによりドイツ諸邦の同意を獲得、「ドイツ帝国」を成立させた。
ドイツ帝国は強大な軍事力だけでなく、重工業・化学・電機などの産業でもアメリカと並ぶ力を持つ強国になり、ビスマルクはその優れた外交力でヨーロッパのパワーバランスを維持したが、フランスからの報復の懸念は常につきまとうことになる。
なお、ドイツの統一とほぼ並行して行なわれたイタリア半島の統一についてもこの節の対象とする。
図表3.17 ドイツ帝国の成立
1789年7月にフランス革命が起こったとき、ドイツ諸国ではおおむね好意的に受けとめられた。知識人たちは、フランスの専制と暴虐に対する民衆の糾弾に共感したし、諸国政府としてもヨーロッパの支配国としてのフランスの権威がゆらぐことは悪いことではなかった。民衆の反乱は散発的にあったが、全国的に拡大することはなかった。
その後、ルイ16世の処刑、共和政の宣言、恐怖政治、と革命が過激化していくと、ドイツの世論は保守化する。そして、オーストリア皇女でルイ16世の王妃マリー・アントワネットが囚われるとフランス革命に干渉する構えを見せるようになった。
1792年、フランスがオーストリアに宣戦布告して戦争が始まった。当初はフランスが他国からの干渉を防ぐ戦争として始まったものが、ナポレオンが権力を握るとヨーロッパ支配のための戦争に変わっていった。
フランスは1794年にライン川左岸地域を占領、当時、神聖ローマ帝国の盟主だったオーストリアはナポレオンのイタリア遠征にやぶれ、1801年この地域をフランスの領土として承認した。これに伴って、他の地域の領邦国家も再編が進められ、大小約300もあった領邦諸国家は約40にまで集約された。
1805年12月にアウステルリッツの戦いでオーストリアがナポレオンに屈すると、頼るべき後ろ盾を失ったこれらのドイツ中小国は、ナポレオンを保護者として1806年7月「ライン同盟」を結成した。翌8月、神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位を宣言し、以後「オ―ストリア皇帝」となった。
ナポレオンは併合したライン川左岸地域とライン同盟の各国に対して、ナポレオン法典や陪審裁判制度など革命フランスに範をとった改革を推進させた。ナポレオンにとってこの地域は、東の大国(ロシア、オーストリア)に対する緩衝地帯であり、今後の軍事行動を進める上での人やモノの供給地であった。
これらの国では、行政・官僚機構を整備して中央集権体制を強化するとともに、憲法の制定、議会の開設を目指した。それは新たに編成された領土を国家としてまとめるためにも必要な改革であった。営業の自由や農村における封建制の廃止などは、フランスに併合された地域では進められたが、それ以外の地域ではあまり進展しなかった。改革は上から強制され国民に押しつけられたもので、国民の政治への参加は将来の課題となった。
プロイセンは、1795年に対仏大同盟から離脱して中立を決め込んでいたが、1807年10月ナポレオン軍と激突して完敗し、1807年のティルジットの和約で領土、人口の半分を失った。壊滅的打撃を被った国家を再建するため、財政再建を始めとする国力回復のための改革が進められた。
内閣制度の導入、領主への隷属関係からの農民解放、富裕市民への参政権付与、都市におけるギルドの廃止と営業の自由、ベルリン大学の創設、などの改革が行われた。軍制改革でも、将校の市民層への解放、市民層による民兵組織、体罰刑を始めとする非人道的規律の廃止、などにより、あらゆる階層の成年男子が国防義務を果たす環境が整えられた。
{ プロイセンは改革を通じて国の再建に成功した。その成功と改革能力がこの国に、ドイツの指導国としての道を開くことになる。他方、見るべき改革の実績を残さなかったオーストリアは、政治的公論において古い国と見なされるようになってゆく。}(坂井「ドイツ史10講」,Ps1849-)
はじめのうちナポレオンを「解放者」として歓迎した知識人は少なくなかったが、皇帝になりヨーロッパ諸国への侵略を始めると「征服者」としてうとまれるようになり、ドイツ全体にナショナリズムの高揚をもたらした。
1812年、ナポレオンのロシア遠征が失敗すると、プロイセンはロシアと同盟を締結し、フランスに宣戦布告した。まもなく、オーストリア、イギリス、スウェーデンなども合流した。オーストリアのメッテルニヒは勢力均衡の見地からナポレオンの完全な没落を望まなかったが、ナポレオンはメッテルニヒの説得に応じず、戦争で決着をつけることを選んだ。ライン同盟諸国は、当初はナポレオン側についたが、形勢不利と見るや続々と同盟側に乗り移った。1813年10月のライプツィヒの戦いでナポレオンはやぶれ、ドイツ諸国はナポレオンの支配から解放された。
1815年のウィーン会議(3.3.1項参照)で作られたドイツ連邦は、オーストリア、プロイセン、ライン同盟諸国を母胎に約40の君主国と自由都市で構成されたゆるやかな連合体であった。旧神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、プロイセン東部やオーストリア帝国のハンガリーなどは領域外となった。
ドイツ連邦はフランクフルトに連邦議会をもち、オーストリアが恒常的議長国であった。国の大きさに合わせて4票から1票持っていたが、事実上、オーストリアとプロイセンが一致すれば他の国も従わざるをえないが、一致しなければ動きがとれない、というものでもあった。
また、ハノーファーの君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ヨーロッパ国際社会の縮図のようなものだった。
図表3.18 ドイツ連邦
ドイツ連邦は、ドイツの国民的統一とは相容れないものであったから、統一国家を求める動きが、改革の時代に実現されなかった国民の権利の確立や政治参加など自由主義と結びついたのは自然の成り行きであった。
自由と統一を求める血気さかんな学生たちは、1815年「ブルシェンシャフト」という団体を結成し、活動をはじめた。この運動はドイツ各地に広まったが、1817年10月にルターゆかりのヴァルトブルクの山城で宗教改革と解放戦争を記念して気勢をあげた。1819年には反動の牙城ロシアのスパイと噂されていた作家を暗殺するという事件が起きた。
この事件のあと(1819年9月)、メッテルニヒはドイツの主要国君主を集め、言論・集会・結社などの厳しい取り締まりを決議させ、学生運動の弾圧に向かった。
しかし、その一方で旧ライン同盟諸国のなかには憲法を発布し、議会を開設した国もあらわれたが、メッテルニヒはそれを抑えることはできなかった。1821年になると憲法と議会を有していた邦国は21にもなっていた。
(注)この本は複数の執筆者が章ごとに分担して執筆しており、ここで参考にした第3章「国民国家の黎明」(P57-P80)は丸畠宏太氏が、第4章「ドイツ統一への道」(P85-P105)は松本彰氏、第5章「工業化の進行と社会主義」(P110-P134)は若尾裕司氏が執筆を担当している。
坂井「ドイツ史10講」,Ps1787- 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P59-P60
{ 【革命勃発時に】人々が期待した未来は、フランス革命の初期の指導者たちが望んだのと同じで、王権の立憲的制限と国民のある程度の政治参加といったところである。この革命が民衆の暴力的支配や、王権の転覆に至るなどということは、まったく想像の外のことであった。}(坂井「同上」,Ps1792-)
坂井「同上」,Ps1800- 若尾・井上「同上」,P62-P63
坂井「同上」,Ps1828- 若尾・井上「同上」,P63-P65
{ 「国づくり」の観点からすれば、諸国の改革は相当程度に成功した。そう言ってよいだろう。そのことは、当時のバイエルンやバーデン、ヴュルテンブルクが、そのまま今のドイツのバイエルン州やバーデン=ヴュルテンベルク州になっていることにも示されている。}(坂井「同上」,Ps1844-)
坂井「同上」,Ps1852- 若尾・井上「同上」,P65-P66
{ 当時のナショナリズムが特定の政治プログラムと結びつくことはなかったし、【実体のないドイツよりも】領邦ナショナリズムのほうが優勢だった。}(若尾・井上「同上」,P66)
坂井「同上」,Ps1883- 若尾・井上「同上」,P68-P69 Wikipedia「ドイツ連邦」
{ ドイツの対外的・内部的な安全保障と、個別邦国の独立性と不可侵性の維持を目的に結成されたのがドイツ連邦である。… この連邦こそがヨーロッパ中央部における勢力の均衡を維持する装置であり、連邦内部で革命的な動きが出ることを共同で抑制する装置にもなっていた。}(君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P212)
坂井「同上」,Ps1900- 若尾・井上「同上」,P69-P70
{ ヨーロッパの勢力均衡のためには、ドイツは強力な統一国家などにならない方がよい。それがむしろメッテルニヒの考えだったのである。民族統一などメッテルニヒにとってはもとより論外であった。そもそも彼の率いるオーストリア帝国が、チェコ・ハンガリーから北イタリアにも伸びる多民族国家であって、この帝国自体、民族統一や民族自決などという原理とは全く相容れない性質の国なのである。}(坂井「同上」,Ps1894-)
{ 1821年にギリシア独立戦争が始まると、ドイツでの活動を厳しく制限されていた自由主義者はこの運動を支持する団体を結成した。… 「ギリシア独立支援運動」は … 水面下で自由主義運動・国民運動を維持・発展させるうえで、無視できない役割を果たした。}(若尾・井上「同上」,P69-P70)