日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.4 フランス7月・2月革命 / 3.4.1 フランス7月革命

3.4 フランス7月・2月革命

ナポレオンが失脚したあと、革命で処刑されたルイ16世の弟ルイ18世が即位して復古王政が始まった。ルイ18世が死去し、あとを継いだ弟シャルル10世は反動的な政治を行ったため、1830年7月パリの民衆が暴動を起こし(7月革命)、ルイ・フィリップを王に迎えて立憲王政(7月王政)をうちたてた。だが、7月王政もしだいに大ブルジョア中心の政治になり、中小ブルジョアや民衆の不満が蓄積されていった。
1848年2月の民衆蜂起(=2月革命)によってまたもや王政は倒され、共和政が樹立された。男子普通選挙によって選ばれた議会により憲法が制定されて大統領選挙が行われ、ナポレオンの甥ルイ・ナポレオンが当選した。ナポレオンは1850年12月、クーデターを決行して帝政(=第2帝政)をしき、専制政治を行ったが、1870年普仏戦争に敗れて失脚した。

図表3.15 フランス7月・2月革命

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3.4.1 フランス7月革命

(1) ルイ18世の復古王政註341-1

1814年5月3日、イギリスで亡命生活をおくっていたルイ16世の弟プロヴァンス伯が、ルイ18世(1757生~1824没、在位1814-15,15-24)としてパリに戻った。ナポレオンの百日天下のために一時パリを離れるが、1815年7月8日に帰ってきた。王と前後して亡命していた貴族たちも続々と戻ってきた。

この頃、フランスには2つの大きな派閥があった。彼らのように革命を憎悪し、革命以前の王政への復帰を目指す過激王党派(ユルトラ)と、革命思想を守り立憲王政を志向する自由派(リベロー)である。英、墺、普、露などの列強もフランス革命の再発を防ぐために一定のリベラリズムを許容する空気があった。

こうした情勢のなかでルイ18世は中道政治を選択し、1814年6月4日に憲章を発布した。この憲章では、法の前の平等、所有権、出版の自由が認められ、イギリスをモデルに世襲の議員からなる貴族院と選挙によって選ばれる代議院の2院制が採用された。国王は行政権、司法権、法の発議権をもち、神聖不可侵で無答責であり、緊急大権も認められていた。つまりアンシャン・レジームと91年憲法の折衷であった。

議会は、一時的に自由派が優勢になった時期もあったが、多くは過激王党派(ユルトラ)が多数派となり、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺体を改葬して贖罪のセレモニーも行われた。

(2) シャルル10世の反動政治註341-2

1824年9月16日、ルイ18世が68才で死去すると、弟シャルル10世(1757生~1836没、在位1824-30)が即位した。彼は皇太子時代はユルトラの首領であり、即位すると反動的な政治を行った。フランス革命時に財産を没収された亡命貴族に賠償を行う法案を成立させ、ランスの大聖堂で伝統にしたがって聖別式も行った。1827年の選挙では自由派が勝利したが、1830年7月25日、シャルル10世は憲章の緊急大権事項を根拠に、出版の自由を停止し、議会を解散した。これが7月革命のきっかけとなった。

(3) 7月革命註341-3

上記7月25日の勅令に対して、翌26日に自由派の新聞「ル・ナシオナール」に抗議文が掲載された。これに触発されたパリの労働者、学生、市民は三色旗を翻して7月27日、パリ市内にバリケードを築き、その夜から軍隊との衝突が始まった。兵士たちに戦意はなく市民側に寝返る者もいた。29日は議会のあるブルボン宮が民衆側に占拠された。3日間で市民の犠牲者は死者約800人、負傷者約4000人であった。

シャルル10世は国外に亡命し、かわりに王に推戴されたのは、ブルボン家の支流オルレアン家のルイ・フィリップであった。8月9日、ルイ・フィリップ(1773生-1850没、在位1830-48)は改正された憲章を遵守することを誓って即位した。聖職者の介在もないシンプルな儀式であった。なお、憲章は復古王政時代のものをもとに、選挙権の税額引き下げのほか、王権神授の否定、緊急大権の廃止など立憲王政にふさわしい改正が行われた。こうしてできた王政を7月王政と呼ぶ。

(4) 7月王政註341-4

7月王政は復古王政よりはリベラルな立憲王政で、ブルジョアが主導権を握ったが、民衆と王政の結合により成立した不安定な政体であった。発足後、共和派や正統王朝派の蜂起が多発し、政府はこれを武力で抑え込んだ。1836年2月、「ル・ナシオナル」紙の元編集者ティエールが政権を掌握し、ナショナリズムをあおってスペイン内乱へ介入しようとしたり、ナポレオンの遺骸をフランスへ帰還させたりしたが、戦争を恐れた国王ルイ・フィリップが介入して失脚した。

(5) ギゾー政権註341-5

ティエール失脚後の1840年10月29日、外相だったギゾーが事実上の首班となる内閣が発足した。ギゾー政権は1848年2月の2月革命で7月王政が倒れるまで政権を維持した。ギゾーは、イギリスとの協調を軸とした平和外交と国内の秩序維持を基調とした中庸政策をとった。一方で、ロスチャイルドのような大ブルジョア・大銀行家を優遇したり、イギリスとの親密な関係が中小ブルジョアたちの不信をかっただけでなく、共和派が提出した選挙法や議会の改革を拒否したことから、中小ブルジョアや民衆は不満をつのらせていった。

(6) 7月王政の弱点_イギリスとの比較註341-6

7月王政は「名望家体制」と呼ばれる。名望家とは、ローカル社会のエリートであり、日本でいえば「地域の名士」と呼ばれるような人たちであろう。彼らは、財力、教養、などに由来する威信のほかに、議員として直接あるいは人脈を通して中央政治と結びついていた。その名望家の力の基礎は富であり、大地主が過半を占めていた。

①名望家を構成する貴族とブルジョアの混交

イギリスでは貴族とブルジョアの一体化が進んでいたのに対して、フランスでは両者の間に深い溝があり、さらにブルジョア内でも分裂があって、政治的に統一されていなかった。亡命先から帰還した貴族は領地にひきこもり、中央政府とは距離をおいた。ブルジョアは、金融業務で政府に食い込む一握りの大ブルジョアと、それ以外の中小ブルジョアの間に激しい対立があった。

②制限選挙の範囲と王権

イギリスでは、1832年の選挙法で選挙権保持者は30人に1人の割合になったが、フランスでは1846年の選挙法改正でようやく150人に1人になった。また、イギリスではこの時期になると王は「君臨すれど統治せず」の状態になっていたが、フランスではまだ王は多くの権限を持っていた。大ブルジョアはそれを認めたが、中小ブルジョアの共和主義者は王政の廃止を目指していた。

③ブルジョアによる労働者の統合

イギリスではブルジョアが配下の労働者をある程度制御できていたが、都市化が遅れたフランスでは、都市の工業労働者の多くは伝統的な熟練労働者であり、彼らは従来のギルドが再編成された組織に所属し、労働運動の自律性が重視されたため、ブルジョアとの対決姿勢が強かった。

以上を一言でいえば、イギリスは{ 市民社会が成熟し、それが中央の弱い国家権力を下から支えるリベラリズムの国家 }(柴田「フランス史10講」,P147) だったのに対し、フランスは市民社会が未成熟で、ブルジョアや貴族たちは強力な国家の権威を後ろ盾にしないと地域住民を納得させられない、にもかかわらず中央政界を牛耳る貴族とブルジョアの間には深い溝がある、こういうジレンマを抱えた社会であった。


3.4.1項の主要参考文献

3.4.1項の註釈

註341-1 ルイ18世の復古王政

柴田「フランス史10講」,P143-P144 服部・谷川「フランス近代史」,P101-P104

{ 憲章は、反革命の精神によって貫かれていた。信仰の自由を認めたものの、カトリック教を国教とし、神授権を権力の正統性原理にしていた。
ルイ18世は憲章を … 王国基本法を維持する枠内での部分的な修正としてしか考えておらず、危うく勅令とするところであった。}(服部・谷川「フランス近代史」,P102)

註341-2 シャルル10世の反動政治

柴田「同上」,P144-P145 服部・谷川「同上」,P104-P107

註341-3 7月革命

柴田「同上」,P145 服部・谷川「同上」,P107-P108 Wikipedia「ルイ・フィリップ」

{ カトリックは国教から「フランス人の多数派の宗教」に格下げされ、ユダヤ教にも宗教予算が配分されるようになる。…また、自由の女神も議会の議場によみがえり、エトワール凱旋門に現れる。}(服部・谷川「同上」,P108)

註341-4 7月王政

柴田「同上」,P149-P150 服部・谷川「同上」,P110-P116

{ ギゾーは理論家で、人民主権も国王主権も共に拒否し、主権は理性にあり、という理論をあみだした。}(服部・谷川「同上」,P112<要約>)

註341-5 ギゾー政権

柴田「同上」,P149-P150 服部・谷川「同上」,P111-P115

{ 中小ブルジョワが要求する選挙権の拡大にたいして、ギゾーは断固として譲らなかった。彼の政治信念は「金持ちになりたまえ。そうすれば選挙に加われるだろう」という言葉で有名だ。… 理性とは社会の奥に隠れているものであり、選挙とは能力のある者がこの理性を抽出する作業なのだ。投票は権利ではなく、機能であり、その能力は資産によって資質を保障されている有産者、特に地主にある。}(柴田「同上」,P150)

{ 当時のフランスは資本不足に悩まされていた。必要な資本は一方ではイギリスから導入され、他方ではロスチャイルド … といった大銀行家に依存した。ギゾーはしばしばロスチャイルドと食事をし、そのエージェント外交で利用していた。このため、中小のブルジョワのみならず、新興工業勢力さえ、ほとんど参加の余地がなくなり、銀行資本への不満を募らせていった。}(服部・谷川「同上」,P114-P115<要約>)

註341-6 7月王政の弱点

柴田「同上」,P146-P149 服部・谷川「同上」,P113-P115

{ 19世紀前半まで、貴族の財産とブルジョワの財産の間では明白な格差が存在していた。貴族は最低2つの館を所有し、夏は田舎の城館で過ごしたのに対し、そのようなライフスタイルを享受していたブルジョワはごく少数だった。社会生活の格差もあった。ティエールの夫人は裕福なブルジョワの娘だったが、社交界は当初、彼女にはきわめて冷淡だった。ブルジョワの奥方は、サロンにふさわしい教養を有していなかったのである。}(服部・谷川「同上」,P114)

7月王政はカトリックの抱き込みにも失敗した。

{ 宗教予算が増額される一方、自由カトリックというカトリックの改革派の登場によって、教会と7月王政の和解への道が準備された。自由カトリックは中等教育の自由を求めるキャンペーンを張り、ギゾーも好意的であった。だが、中等教育の自由を認めるとユニヴェルシテという公教育を統括する組織の解体につながるため、改革はできなかった。カトリック教会は失望し、政府との関与を避けるようになった。}(服部・谷川「同上」,P113)