日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.3 ウィーン体制 / 3.3.1 ウィーン会議

3.3 ウィーン体制

ウィーン体制とは、ナポレオン戦争後に開催されたウィーン会議の決定にもとづいてつくられたヨ―ロッパの国際秩序のことである。オーストリアの外相(後に宰相)メッテルニヒが主導して、勢力均衡と体制維持の基本方針のもと、大国間の紛争や革命の波及を会議によって抑制しようとした。革命や蜂起などを鎮圧する反動的な側面もあったが、武力によらず問題解決を図ろうとした点を評価する見方もある。19世紀前半はこの体制が機能して大きな戦争はなかったが、クリミア戦争(1853-56年)以降、弱肉強食の帝国主義の時代に向かっていく。

図表3.14 ウィーン体制

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3.3.1 ウィーン会議

(1) 会議は踊る…註331-1

ナポレオン戦争の戦後処理を討議する国際会議は、1814年9月から翌15年6月にかけてオーストリアの首都ウィーンで開かれた。オーストリアの外相メッテルニヒを議長に、ロシア、プロイセン、オーストリアは君主が、イギリスとフランスは外相が出席し、およそ200の国・侯国・都市の代表が集まり、会議関係者は1万人を超えた。

この会議は夜ごと開かれる舞踊会や晩さん会、サロンでの私的な会合、あるいは公園などを散歩しながらの個別交渉など、もっぱら舞台裏での交渉が主体となったため、「会議は踊る、されど会議は進まず」と揶揄された。しかし、それは外交的な妥協を得るまでの遊びの精神が重んじられたためでもあった。こうした各国代表の粘り強い交渉によって、1815年6月9日に最終議定書が調印された。

(2) 正統主義と勢力均衡註331-2

この会議の基本的な原則となったのは、「正統主義」と「勢力均衡」であった。「正統主義」とは、フランス革命以前の「正統な」統治者の復位と「旧体制」の復活を目指すものであり、それは自由主義的な革命や波乱を押さえ込むというものでもあった。ただし、ヨーロッパの平和を脅かす勢力拡大を諸国が協力して抑制しようという「勢力均衡」と折り合いをつけながら行う、という性格もあった。

{ メッテルニヒは、自国オーストリアが多民族国家であることから、フランス革命が広めたナショナリズムを恐れ、民族/国民単位の国民国家を封じ込めるために「正統主義」をかついだ。}(小川・板橋・青野「国際政治史」,P37<要約>)

{ 列強間の勢力均衡と政治地図の現状維持という点で、たしかに保守的な姿勢は明確であった。しかし他方では、むきだしの武力衝突を回避して、それなりに集団的な安全保障体制を実現しようとするものでもあった。
にもかかわらず、19世紀半ばまでのヨーロッパは政治的社会的運動にゆれる激動の時代となる。フランス革命とナポレオン体制を経験したあと、ウィーン体制の主導者たちが抑え込もうとすればするほど、そうした運動は抑えがたく台頭していたのである。}(福井「近代ヨーロッパ史」,Ps1256-<要約>)

(3) 各国の領土註331-3

フランスの領土は1790年時点の国境線に戻され、各国の国境線も同様に1790年の状態に復帰したものの全く同じではなかった。

神聖ローマ帝国が復活することはなかったが、ナポレオンによる征服で約40に集約されていたドイツ諸邦や都市は「ドイツ連邦」を組織した。連邦といっても、元首も中央行政機構もない君主同盟のようなもので、議長国オーストリアと強国プロイセンの合意によってのみ動かすことのできる組織体であった。
{ これは到底ドイツの統一国家とは言えないものであった。ヨーロッパの勢力均衡のためには、ドイツは強力な統一国家などにならない方がよい。それがむしろメッテルニヒの考えだったのである。}(坂井「ドイツ史10講」,Ps1895-)

(4) 神聖同盟と4国同盟註331-4

ウィーン会議での議論を通じて2つの同盟が成立した。一つは、ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した「神聖同盟」であり、キリスト教精神に基づいた「神の平和」を王政秩序にもとづいて実現するというもので、1815年9月26日、ロシア、オーストリア、プロイセンの間で成立し、その後、イギリスやローマ教皇をのぞくヨーロッパすべての王侯が参加した。

こうした理想主義的な考え方に反発して大国だけで協調体制を築こうとしたのが、メッテルニヒが提唱した4国同盟であった。1815年11月20日にオーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスの4大国間(のちにフランスも参加)で締結されたもので、大国間で定期的な会議をもつことにより平和を維持しようというものであった。これ以前の外交が2国間のもので、戦時や戦後処理であったのに対して、この体制において、平時でも多国間の制度として問題を処理しようとしたことは「ヨーロパ協調」時代の幕開けを告げるものであった。しかし、それは自由主義と国民主義の台頭を抑制する大国間の論理に基づいたものだったことは否めない。

この「会議体制」は、メッテルニヒの思惑通り、諸国の革命や反乱への対応では一定の効果を上げたが、しだいにその限界が明らかになっていった。


3.3.1項の主要参考文献

3.3.1項の註釈

註331-1 会議は踊る…

君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P206 小川・板橋・青野「国際政治史」、P36-P37 加藤「ハプスブルク帝国」,P62-P63

{ 「会議は踊る、されど会議は進まず」。これはベルギーの名門貴族ド・リーニュ侯の名文句である。たしかに、ド・リーニュ侯が皮肉ったように集まってはみたものの、本会議はあいつぐ延期でなかなか開かれなかった。午前閣僚たちがまとめた話も、夕方首脳が集まれば、覆されることがしばしばだった。… 各国の代表はスパイを放って互いに相手の動きをさぐりあった。…
市民たちは皮肉った。「ロシア皇帝は女遊びにほうけ、プロイセン王はもっぱら思索だ。デンマーク王はしゃべりまくり、バイエルン王はひたすら飲み、ヴュルテンベルク王は食べに食べる。つけはみんなオーストリアのフランツ帝さ」}(加藤「同上」,P63)

註331-2 正統主義と勢力均衡

君塚「同上」,P207 福井「近代ヨーロッパ史」,Ps1236-

{ メッテルニヒにとって、正統主義はヨーロッパに勢力均衡を回復させ、この回復された秩序を正当化するための方便であったように思われる。ヨーロッパ諸大国間に勢力のバランスを保つことで現行秩序を守り、ひいてはヨーロッパに平和を維持するというのが彼の政治のエッセンスで、ウィーン会議後ヨーロッパがともかくも半世紀近く戦争なしに過ごすことができたのは、それなりに評価されなければならない。}(坂井「ドイツ史10講」,Ps1875-)

註331-3 各国の領土

君塚「同上」,P207-P213 加藤「同上」,P64 栗生沢「ロシアの歴史」,P84 坂井「ドイツ史10講」,Ps1884-

{ 民族統一などメッテルニヒにとってはもとより論外であった。そもそも彼の率いるオーストリア帝国が、チェコ・ハンガリーから北イタリアにも延びる多民族国家であって、この帝国自体、民族統一や民族自決などという原理とは全く相容れない性質の国なのである。そんな原理がまかり通ったら、オーストリア帝国は解体するほかないのである。(第1次世界大戦後そうなった)}(坂井「同上」,Ps1897-)

註331-4 神聖同盟と4国同盟

君塚「同上」,P207-P214 小川・板橋・青野「同上」,P39-P41

{ 四国同盟条約の6条には、次のような一文が見られた。「君主の直接的な援護もしくは特定の全権大使の派遣により、定期的な会合を開いていく。それは共通の利害を相談し合い、その時々において諸国民にとっての安寧と利益に最も有益と考えられる政策を検討し、ヨーロッパの平和を維持するためである」}(君塚「同上」,P209)