日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.2 フランス革命 / 3.2.6 帝国の絶頂から崩壊へ

3.2.6 帝国の絶頂から崩壊へ

ナポレオンは、皇帝即位の前後にナポレオン法典やフランス銀行の創設など重要な政策を実行したが、まもなくイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアなどとの戦争に突入する。最初のうちは勝利を重ねていたが、1812年のロシア侵攻に失敗、1813年に諸国連合に大敗して退位した。百日天下で復帰するもワーテルローの戦いに敗れ、絶海の孤島に流された。

図表3.12(再掲) ナポレオン帝国

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(1) ヨーロッパ大陸制覇

イギリスとの戦争再開(トラファルガーの海戦_1805年10月)註326-1

1803年になるとナポレオンはイギリス侵攻を計画し、そのための資金を得るためにアメリカ合衆国にフランス領ルイジアナを1500万ドルで売却した。ナポレオンはフランス北部ブーローニュに赴き、艦船の建造や演習を指揮したが、オーストリアとロシアが戦争の準備をしている知らせを受取ると、ブーローニュを離れて東進した。

1805年10月21日、フランス・スペイン連合艦隊は、ネルソン提督率いるイギリス艦隊とスペイン南西部トラファルガー岬沖で激突したが、士気も練度も高いイギリス軍に撃破された。

オーストリアとの戦い(アウステルリッツの戦い_1805年12月)註326-2

ナポレオンは驚異的な速度で東進し、1805年10月ドイツ南部ウルム※1でオーストリア軍を蹴散らし、12月、アウステルリッツ※2でオーストリア・ロシア連合軍を破った。オーストリアは、イタリアをフランスに、ドイツの領土をフランスの同盟国バイエルン※3とヴュルテンベルク※4に割譲した。

1806年7月、バイエルンなど西南ドイツの16邦がナポレオンを保護者に戴いた「ライン連盟」を結成し、神聖ローマ帝国から離脱を宣言した。皇帝フランツ2世は神聖ローマ皇帝を退位してオーストリア皇帝を名乗り、ここに西暦800年からおよそ1000年間続いた神聖ローマ帝国は姿を消した。

※1 ウルム(Ulm)は、ドイツ南部ミュンヘンの西北西にある。

※2 アウステルリッツ(チェコ名はSlavkov u Brna)は、チェコ中部、ウィーンの北方にある。

※3 バイエルンは、ドイツ南部、州都はミュンヘン。

※4 ヴュルテンブルクは、ドイツ南部/スイスの北側。

プロイセンとの戦い(イエナ・アウエルシュテットの戦い_1806年10月)註326-3

1806年10月、プロイセンはフランスに宣戦布告し、イエナ・アウエルシュテット※6の会戦でナポレオン軍と激突したが完敗した。続いて1807年にナポレオンは、当時ロシアとプロイセンが分割領有していたポーランドに侵攻し、同年7月にロシアとプロイセンと講和(ティルジットの和約)を結んだ。この和約により、ポーランドはフランスの従属国として「ワルシャワ公国」となり、ドイツ西部ではウェストファリア王国がライン同盟の加盟国として成立し、ナポレオンの末弟が王位についた。
こうしてプロイセンは領土のおよそ半分を失い、ロシアは下記の「大陸封鎖」への参加を強制された。

※5 イエナ(Jena),アウエルシュテット(Auerstedt)は、いずれもドイツ中部ライプツィヒの西南。

ナポレオンはこれ以降も大小の戦争を繰り返して支配地域を拡大し、1812年には最大版図を獲得する。

図表3.13 ナポレオン帝国の最大版図(1812年)

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(2) 大陸封鎖註326-4

1806年11月21日、ナポレオンはベルリンで勅令を発した。従属国や同盟国に対して、イギリスとの交易を一切禁止するもので、「大陸封鎖令」とも呼ばれる。イギリスを経済封鎖し、フランスの工業の保護育成とヨーロッパ大陸の市場を確保しようとしたものだった。

イギリスは大陸諸国との密貿易や南アメリカとの貿易で、経済的打撃はさほど大きくはなかった。ただ、対抗策としてフランスを海上封鎖したことにより、ヨーロッパ貿易に打撃をうけたアメリカの反発をうけ、米英戦争(1812-15年)を戦うはめになった。(注.米英戦争の原因はほかにもある)

一方、フランスは繊維工業や製鉄業などが発展したが、貿易業や海運業は打撃をうけた。また、密某易を完全に取り締まることはできず、封鎖体制を強化するためにポルトガル、オランダ、スウェーデンなどをこの体制に加入させることになった。そして、ティルジットの和約で参加を強制されたロシアは輸出入ともにイギリスへの依存度が高く、不満がたまっていくのである。

(3) スペイン独立戦争(1808-1814年)註326-5

破竹の勢いでヨーロッパを制覇していったナポレオンに最初にブレーキをかけたのがスペインだった。スペインは第1次対仏大同盟(1793-97年)に参加してフランスと戦ったが、戦況が悪化すると1796年に親フランスに方針転換し、トラファルガーの海戦(1805年)ではフランスとともにイギリスと戦った。

1807年、ナポレオンは、大陸封鎖を無視してイギリスと交易を続けるポルトガルを攻略するため、フランス軍のスペイン内通過を認めさせた。しかし、ポルトガル攻略後もフランス軍がスペイン内に駐屯すると、食糧危機なども重なって民衆は暴動を起こした。ナポレオンはこの暴動に介入し、兄ジョセフをスペイン国王に据えた(1808年6月)が、それがさらに民衆を刺激し、暴動はスペイン全土に拡大した。

フランス軍は1811年までに主要都市を占領したが、各地の民衆は貴族・ブルジョア知識人などの指導を受けてゲリラ戦を展開し、ついに1813年、ジョゼフはスペイン国王を退位せざるを得なくなった。この戦争中の1812年、スペインは国民主権を宣言する「1812年憲法」を制定した。

(4) マリー・ルイーズとの結婚(1810年)註326-6

ナポレオンは、フランス貴族の娘ジョゼフィーヌと1796年に結婚していたが、子どもは授からなかった。皇帝位を世襲させるために子どもを欲しがったナポレオンは、19歳のオーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚することにした。もちろん、オーストリアとの同盟強化という政治的理由もあった。結婚式は1810年4月ルーヴル宮で行われた。翌1811年に待望の男子を得るが、帝国はその子が相続する前に滅びた。

(5) ロシア遠征(1812年)註326-7

ロシアはナポレオンの大陸封鎖に参加せざるを得なかったが、穀物などの一次産品をイギリスに輸出し、工業製品などを輸入しており、そのイギリスの代わりを穀物を自給し工業も遅れていたフランスが務めることは不可能だった。1810年12月、ロシアはイギリスが隠れ蓑にしていた中立国船舶に港を開いた。

ナポレオンはフランスのみならずドイツ、オーストリア、イタリアからも兵を集め、総勢60万の大軍を率いて、1812年6月23日、ロシア遠征に出発した。ちなみに、ヒトラーがソ連侵攻を開始したのは1941年6月22日だった。ロシア軍は正面衝突を避けて退却を続け、敵を消耗させる作戦に出た。ナポレオンは9月14日にモスクワに入城したが、住民はすべて疎開してもぬけの殻、ロシア軍はそこへ火を放った。食糧調達を狙っていたナポレオン軍はあてがはずれて退却せざるを得なくなった。食糧補給もなく酷寒のなか、コサック兵の追撃にあって、ナポレオン軍は大量の死者を出し、プロイセンにたどり着いたのは数万人にすぎなかった。

(6) ライプツィヒの戦い(1813年10月)註326-8

1813年2月にロシアとプロイセンが同盟を結び、ここにイギリスやオーストリア、ライン同盟なども加わって第4回対仏大同盟が結成された。同年10月16-19日、ライプツィヒ※6でナポレオンは決定的な敗北を喫した。意気揚々たる同盟国軍はフランスに迫り、1814年3月31日、パリに入城した。

※6 ライプツィヒは、ベルリンの南西にある。

(7) ナポレオン退位註326-9

1814年4月1日、元老院はタレーラン※7を首班とする暫定政府を樹立し、4月4日ナポレオンは退位させられてエルバ島に移された。エルバ島は、コルシカ島とイタリア半島の間に位置する小さな島だが、公国であり、ナポレオンは宮廷生活を送ることができた。

ナポレオン退位後、ルイ16世の弟ルイ18世が王位に復帰した。復古王政はナポレオン帝政の制度を大枠では踏襲したが、カトリックを国教の地位に戻すなど、反革命精神が貫かれていた。

※7 タレーラン(1754生~1838没) 自由派の名門大貴族。1797年から外務大臣、ナポレオン帝政下でも外務大臣を務めたが1807年ナポレオンと対立して辞任。ウィーン会議ではフランス代表として出席。(上垣「ナポレオン」,P24)

(8) 百日天下とナポレオンの最後註326-10

1814年12月の王令によって、多くの士官を予備役にまわし、その上俸給を半額にしたので、軍人たちの不満が募っていた。1815年2月26日、ナポレオンは監視の目を盗んでエルバ島を脱出し、カンヌ付近に上陸、支持者を集めながらパリに向かった。3月20日にルイ18世が脱出したパリに入城し権力を掌握した。多くのフランス人は平静さを保ったが、ヨーロッパ諸国はこれを容認しなかった。

6月18日、ベルギーのブリュッセル郊外ワーテルローでナポレオンは敗北し百日天下は終わった。7月15日、ナポレオンはイギリスの軍艦に乗せられて大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島に幽閉され、そこで1821年5月5日、波乱に満ちた51歳の生涯を終えた。


3.2.6項の主要参考文献

3.2.6項の註釈

註326-1 イギリスとの戦争再開

ホーン「同上」,P87-P88 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P188 上垣「同上」,P65-P66

註326-2 オーストリアとの戦い

ホーン「同上」,P88-P89 君塚「同上」,P188-P189 上垣「同上」,P66-P67

{ ナポレオンはあたりの地形を綿密に検証し、午前の半ばごろになれば陽の光が差し込んで霧が晴れていくことを知った。彼は味方の軍勢を谷間に隠した。やがて予想通り、霧が晴れて谷間に降りていく敵軍勢の姿が浮かび上がった。谷間の味方を側面から叩こうという作戦だ。ナポレオンは敵の兵力が最も手薄になった方角から不意打ちをしかけた。その日が暮れる頃には敵軍は壊滅状態に追いやられていた。}(ホーン「同上」,P88-P89<要約>)

註326-3 プロイセンとの戦い

ホーン「同上」,P89-P90 君塚「同上」,P188-P189 上垣「同上」,P67-P68

{ ティルジットの和約によって、ナポレオンに真の味方ができたわけではなかった。彼には念願だった権力が差し出されただけだった。この男の中に厄介な変化が生じた。「彼の独裁政治は日増しに強権的になり」、権力への情熱があらゆる分野に及ぶようになった。}(ホーン「同上」,P99<要約>)

註326-4 大陸封鎖

上垣「同上」,P69-P70 君塚「同上」,P189-P190 M・ハワード「ヨーロッパ史における戦争」,P153-P154

{ イギリスとフランスが互いに課した相互封鎖は、当初、商人の戦争、すなわち交易の略奪により財政的に相手を亡ぼそうとする重商主義的企てへの逆戻りだ、と考えられていた。… フランスをはじめヨーロッパ各国の国民もイギリスの国民も商品の欠乏や物価高騰への不満が蓄積されていった。… 戦争は全体的になり始めたのである。すなわち、軍隊の対立ではなく、国民の対立になりつつあった。}(M・ハワード「同上」,P152-P155)

註326-5 スペイン独立戦争

立石・内村「スペイの歴史を知るための50章」,P169-P174 上垣「同上」,P72

{ 自由主義的性格をもった1812年憲法」は、… 1814年に廃止されてしまった。しかし、1812年憲法は短命であったがゆえに、その後長らくスペイン本国の自由主義者の希望の灯となり続け、ヨーロッパ諸国やラテンアメリカ諸国の憲法に対しても影響を与えることになった。}(立石・内村「同上」、P185)

註326-6 マリール・イーズとの結婚

上垣「同上」,P174 ホーン「同上」,P216-P217

註326-7 ロシア遠征

上垣「同上」,P76-P78 ホーン「同上」,P228-P229 栗生沢「ロシアの歴史」,P83-P84

{ ナポレオンは移動の迅速さこそ戦争の基本であると考えた。ナポレオンはその軍隊が、輜重車による補給に煩わされずに戦闘に従事できることを望んだ。そこで彼は古式ゆかしい手法に頼った。それは必要とする物資のすべてを、兵士たちがその土地から徴発し自給自足するという手段に他ならない。}(A・バルベーロ「近世ヨーロッパ軍事史」,P171-P172<要約>)

註326-8 ライプツィヒの戦い

上垣「同上」,P79 ホーン「同上」,P236-P237

{ ナポレオンに見切りをつけたマリー・ルイーズは、戴冠式で皇帝が身につけた1800万フラン相当のダイヤモンドを持ってウィーンの実家に戻った。1800万フランはハプスブルク家が被った損害のすべてを考えれば、妥当な賠償額かも知れない。}(ホーン「同上」,P236)

註326-9 ナポレオン退位

上垣「同上」,P79-P81 ホーン「同上」,P238-P241

{ 6月4日、憲章が公布された。この憲章は… イギリスをモデルにし、二院制をとり、世襲の議員からなる貴族院と選挙によって選ばれる代議院が設置された。}(服部・谷川「フランス近代史」,P101)

{ 1944年のアメリカ軍がそうであったように、しばらくは同盟国が人気を集めた。「ロシア万歳」の声が聞かれもしたが、「北方の野蛮人」呼ばわりが再び始まるのに時間はかからなかった。(ホーン「同上」,P240)

註326-10 百日天下とナポレオンの最後

上垣「同上」,P81-P83 ホーン「同上」,P241-P250

{ ワーテルローの征服者たちは、パリまでの全行程に破壊という爪痕を残してきた。… 1814年の占領時にはこれほどまでに険悪なムードは漂わなかったが、今回は … プロシア軍とフランス人の間で喧嘩騒ぎ、小競り合いが頻発した。…
1945年に支配下のベルリンでロシア兵が行った残虐行為と比較すれば、同盟国側の破壊行為が極端なまでに抑制されていたことは確かである。意外なことにこちらの方がよほど文明化された時代だった。… ナポレオンにしてもヒトラーほどではなかった。19世紀の戦争は20世紀の大量殺戮の戦闘に比べればまだ穏やかで、まだ人間味があったということだ。}(ホーン「同上」,P247-P248<要約>)