日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.2 フランス革命 / 3.2.5 ナポレオン帝国の成立

3.2.5 ナポレオン帝国の成立

不安定な総裁政府を軍事力によって安定させたのがナポレオンであった。ナポレオンはフランス革命の精神である自由や平等を尊重して近代的政治体制を確立するとともに、軍事的勝利によってナショナリズムが高揚するなかで、皇帝に即位した。

図表3.12 ナポレオン帝国

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(1) ナポレオン登場

出生~砲兵将校へ註325-1

ナポレオンは、1769年8月15日、コルシカ島の有力貴族ボナパルト家の次男として生まれた。ボナパルト家は島では裕福な家であったが、フランスにおいては小貴族に過ぎなかった。コルシカ島は1768年にジェノヴァ共和国領からフランスに割譲されたばかりで、ナポレオンもフランス語はあまり得意ではなかった。
1779年、9歳のときナポレオンはフランス南東部の幼年学校に入学して軍人としての教育をうけ、1785年に士官学校を卒業、16歳で砲兵将校に任じられた。若きナポレオンは啓蒙思想に感化され、ルソーを信奉していた。

ロベスピエール派の将軍註325-2

1793年9月、ジロンド派を追放して権力をにぎったジャコバン派が牛耳っていた国民公会によって、ナポレオンはトゥーロン※1の砲兵隊司令官に任命された。トゥーロンはイギリス軍に占拠されていたが、ナポレオンは先頭に立って戦い、イギリス軍を撃退した。この戦功により、24歳の若さで准将となった。革命により、若くて有能な軍人に出世の道が開かれていたのである。

ナポレオンはこの後、ロべスピエールの弟の庇護を受けるようになる。そのため、1794年のクーデターでロベスピエールが失脚したとき、一時的に身柄を拘束されている。

※1 トゥーロン(Toulon)は、フランス南部地中海沿岸の港町。

王党派反乱の鎮圧註325-3

1795年10月、新しい国民公会の選挙方法に反発した王党派がパリで反乱を起こした(ヴァンデミエールの蜂起)。この反乱の鎮圧を命じられたナポレオンは、暴徒に向かって容赦なく砲弾を撃ち込み反乱を押さえ込んだ。この功績により名をあげたナポレオンは、1796年3月イタリア方面軍総司令官に任命され、イタリア遠征の指揮をとることになった。

(2) イタリア遠征とエジプト遠征

第一次イタリア遠征(1796-1797年)註325-4

1796年3月、ナポレオンは当時オーストリア領だった北イタリアに侵攻し、各地でオーストリア軍を破って1797年2月には北イタリアを支配下に置くことに成功した。この勝利はたくみな戦術だけでなく、新聞などを利用したプロパガンダにより兵士の忠誠心、団結心を鼓舞したことによるものであった。ナポレオンは総裁政府を無視して占領地に共和国を建設したり、オーストリアと和約を締結したりした。ナポレオンを賞賛する新聞はパリでも創刊され、フランス人の愛国心をくすぐり、熱狂を拡げていった。

エジプト遠征(1798-1801年)註325-5

オーストリアとの和約後、フランスはイギリス攻略を狙い、ナポレオンはその作戦の責任者に任命された。ナポレオンは、イギリス上陸作戦は不可能、イギリスの東方貿易の要衝であるエジプトに遠征するべきだ、と提案し、採用された。

1798年7月、遠征軍はカイロを攻略したが、翌8月にはフランス艦隊がイギリス艦隊に敗れ、9月になるとオスマントルコが参戦、1799年になると兵士の間にペストが流行して戦況は停滞した。そこへ総裁政府が深刻な状態にある、という知らせが届くと、ナポレオンは戦争を部下の将軍にまかせて密かにエジプトを脱出し、10月16日にパリにたどりついた。まだ、エジプト遠征の最新情況はパリに届いておらず、ナポレオンは勝利の栄光につつまれてパリ市民に迎えられた。

司令官を失ったフランス軍はかろうじて抵抗を続けるが、1801年にイギリス、オスマン帝国に降伏した。なお、このエジプト遠征時に「ロゼッタ・ストーン」が発見されている。

(3) 政権掌握

統領政府註325-6

1799年11月9日、ブリュメール18日のクーデター(3.2.4項(5)参照)により総裁政府は解体し、統領政府(執政政府ともいう)が成立した。同年12月15日に共和国第8年憲法が公布され、この憲法に基いてナポレオンは任期10年の第1統領に就任した。統領はほかに2人いたが、第1統領の相談役にすぎなかった。

新憲法は国民投票に付された。政府の公式発表で賛成票は300万票をこえ、反対票はわずか1562票であった。その後の研究により、賛成票の水増しがあり、実際には150万人程度、投票率にして20数%しか投票していなかったことがわかっている。この時点でナポレオンの権力基盤はさほど強いものではなく、徐々に反対派を除去して独裁体制を固めていった。

国内秩序の回復註325-7

フランス西部では反革命の反乱が続いていたが、1800年1月にヴァンデ地方(3.2.2項(6))の指導者たちと講和を結んで収拾した。1802年には革命中に追放された亡命者に大恩赦を実施する一方で、革命支持者を弾圧した。1800年12月にはナポレオン暗殺未遂のテロが起き、1804年には同様のテロの陰謀が発覚したが、犯人とされた者たちは断頭台に送られた。

このように警察による厳しい監視によって、治安は安定したが、言論・出版・集会の自由は制限され、検閲は新聞のみならず文学、演劇などにも及んだ。

束の間の平和註325-8

1800年4月、総裁政府末期に失っていた北イタリアを奪還すべく、ナポレオンは再び北イタリアに遠征しオーストリア軍を撃退した。ついで1802年3月にはイギリスとの間でアミアンの和約を締結した。アミアンの和約は1803年5月にイギリスが宣戦することにより破られるが、それまでのわずかの間、束の間の平和が訪れた。

(4) 皇帝ナポレオン註325-9

1802年6月の国民投票により、ナポレオンは終身統領になったが、彼の野望はそこでとどまらなかった。1804年1月に王党派によるナポレオンの暗殺計画が発覚し、王党派の首謀者らが処刑された。この事件はナポレオンによる帝政に格好の口実を与えることになった。同年5月元老院決議によって帝政が成立し、国民投票が行われた。投票250万、投票率42%でナポレオンの皇帝即位が承認された。

1804年12月、パリのノートルダム寺院の大聖堂でローマ教皇ピウス7世を招いて戴冠式が行われた。ナポレオンは教会に従属的な姿勢を見せないよう、祭壇の前にひれ伏すこともなく、自分の手で戴冠した。

エトワ―ル凱旋門

パリ・シャンゼリゼ通りとエトワール凱旋門。1806年ナポレオンの命により建設が始まったが完成したのはナポレオンの死後1836年だった。

(5) ナポレオンの政治

議会と選挙註325-10

統領(皇帝)の諮問機関として法案や行政規則の起案、行政に関する紛争等の解決を担ったのが国務院で、法律、行政、軍事などの専門家で構成された。立法院には次の3院があったが、発議権はなかった。なお、護民院は帝政発足後に廃止されている。

議員は多段階の間接普通選挙で選ばれた。まず、21歳以上男子の普通選挙によって市町村の「名士」が選ばれ、その名士の互選で県の名士が選ばれ、さらにその名士の互選によって全国的な名士リストが作成されて、そのリストから元老院が護民院と立法院の議員を選ぶことになっていた。このように民意の反映度は小さく、議会の権限も限られていたので、統領/皇帝に強大な権力が集中する体制であった。

行財政改革註325-11

革命期に売官制と世襲制は廃止されており、ナポレオンの時代になると官僚は元首による任命制となり、現代まで続く近代公務員制度が確立された。地方行政は統領によって任命される県知事が配置され、治安維持、徴税、徴兵、教育問題に責任を負い、地方産業の育成や土木事業も管轄した。

1800年、パリの有力な個人金融業者の出資により、政府への貸付と商業手形の再割引を主要業務とするフランス銀行が創設され、1803年には銀行券発行の権利を与えた。

ナポレオン法典註325-12

フランス革命の精神に基づく民法典の編纂作業は1793年に始められていたが、議論が紛糾してまとまらなかった。ナポレオンはその議論に介入し、1804年に議会で採択された。民法典により、封建制の廃止、私的所有権の絶対性、契約・労働・信仰などの自由、法の前での平等などが宣言されたが、女性は従属的地位におかれ、離婚、資産の贈与や売却などには厳しい条件が課された。

民法典に続いて、民事訴訟法典、商法典、刑法典などが成立、これらは近代民法の基盤として世界各国で参照されるようになった。日本の民法にも影響を与えている。

レジオン・ドヌール勲章註325-13

ナポレオンは伝統的な特権を排除する一方で実力本位の新たなエリート層を作るとともに旧来の貴族層との融合を図ろうとし、1802年5月に新たな褒章、レジオン・ドヌール勲章をもうけた。ナポレオンはこの勲章について「子どもだましのようなもので、人は人を思いのままにできる」と豪語したというが、この勲章で栄誉を与えられ、ナポレオンに忠誠を誓うエリート層が形成された。この勲章は現代フランスでも運用されている。

{ ナポレオン帝国は言論・出版を統制し、レジオン・ドヌール勲章を制定し、新しい貴族をつくって宮廷を復活させた。この新しい社会序列の規準は「国家への奉仕」である。つまりナポレオン帝国は全国民に皇帝への服従を求める専制国家だった。社会各層は一部をのぞき皇帝独裁を歓迎した。
あとは、軍事的勝利によってナショナリズムを高揚させ、それによって国民の自発性を権威主義的に動員すればよい。}(柴田「フランス史10講」、P132-P133<要約>)


3.2.5項の主要参考文献

3.2.5項の註釈

註325-1 出生~砲兵将校へ

上垣「ナポレオン」,P6-P11 ホーン「ナポレオン時代」,P9-P10

{ 1784年10月にはパリ士官学校に入学したが、父の急死もあって、わずか1年後に卒業している。ナポレオンは理系の教科で才能を示したが、卒業時の席次は58名中42番目と芳しくなかった。}(上垣「同上」,P10)

註325-2 ロベスピエール派の将軍

上垣「同上」,P15-P16

註325-3 王党派反乱の鎮圧

上垣「同上」,P16-P18

{ ナポレオンはためらうことなく発砲命令を下した。… ぶどう弾(ぶどう状の小鉄丸の対人用砲弾)は文字どおり民衆を吹き飛ばし、… 恩義は感じても、バラスは権力中枢に近すぎるところにナポレオンを配することに不安を抱き、27歳の彼をイタリア方面フランス軍司令官に任じた。}(ホーン「ナポレオン時代」,P10)

※ バラスは、5人の総裁の一人で、この反乱の鎮圧責任者としてナポレオンを抜擢した。

註325-4 第一次イタリア遠征

上垣「同上」,P18-P22

{ イタリア遠征に続くカンポ・フォルミオ条約(1797年10月17日)で、フランスはベルギーを【オーストリアから】譲渡され、ライン川左岸を支配するようになった。… オーストリアはヴェネツィアの領有と引き換えに、その領土(ネーデルラント)の割譲とイタリアにおけるフランスの従属国の建国を承認した。}(ホーン「同上」,P13-P14)

{ カンポ・フォルミオ条約は総裁政府に相談せずに結ばれたものである。総裁政府はこの講和(ヴェネツィアがオーストリアの支配下にとどまったこと)が不満だったが、世論を気にして何も言えなかった。}(上垣「同上」,P21-P22)

註325-5 エジプト遠征

上垣「同上」,P22-P26 ホーン「同上」,P16-P17

{ ヤッファ(イスラエル西部の港)の戦いでは捕虜が大量殺戮され、ナポレオンの無慈悲さ残虐さが露見した。29歳のこの若者は、占領地カイロに学術協会を創設するよう指示して感動を呼んだと思えば、… 「武装捕虜の首を片端からそぎ落として」反乱を制圧するよう命じるといったように、その内面に多くの矛盾を抱えていた。… ナポレオンのあとを引き継いだクレベール将軍は「ナポレオンは月々1万人の入隊がなければやっていけないタイプの将軍だ」と不平をもらしている。}(ホーン「同上」,P16-P17)

註325-6 統領政府

上垣「同上」,P29-P33 ホーン「同上」,P18-P19

註325-7 国内秩序の回復

上垣「同上」,P33-P34 ホーン「同上」,P42・P50-P51・P171-P175

{ ナポレオンが権力をにぎった当時、パリだけで70紙を超える新聞が発行されていたが、1年のうちに13紙に減少し、すべてが厳しい検閲下に置かれるようになった。… 検閲制度はたちまち書籍や芝居にも波及し、政治への当てつけが少しでも感じられる場合には出版、上演が禁止された。}(ホーン「同上」,P171)

註325-8 束の間の平和

上垣「同上」,P34-P36 ホーン「同上」,P18・P36-P37

{ (北イタリアの)マレンゴでオーストリア軍と戦った。戦局は思わしくなく、… ドゼー将軍の率いる援軍が来なければナポレオンは敗北していたであろう。ドゼー将軍はこの戦いで戦死し、ドゼーに帰せられるべき軍功もあわせてナポレオンのものとなった。}(上垣「同上」,P34-P35)

{ (アミアンの和約後)イギリス人観光客…などが大挙して海峡を渡り、総裁政府後のパリの奔放な楽しみを満喫した。… ロンドンの人口が85万人だったのに対して、人口54万7千人のパリの町は、初めて訪れるイギリス人の目に映ったものから判断すると荒廃の地だった。ぬかるんだ地面は悪臭を放ち、下水道には依然として蓋もなく、牛や馬が市場に続く道を引かれていた。}(ホーン「同上」,P37)

註325-9 皇帝ナポレオン

上垣「同上」,P44-P46 ホーン「同上」,P64-P69

{ 戴冠式の後、パリではコンコルド広場で夜通し舞踊会が開かれたが、国外では非難の声が上がった。ウィーンではベートーヴェンが交響曲「英雄」から自らの名(ボナパルトへの賛辞)を削り取った。…
(パリの人々は)幻惑的祝典(=戴冠式)に伴ってふるまわれる無料のごちそうと花火に、つまり典型的「パンとサーカス」に心を奪われていた。}(ホーン「同上」,P68-P69)

註325-10 議会と選挙

上垣「同上」,P29-P30 Wikipedia「共和暦12年憲法」 コトバンク「コンセイユ・デタ」〔世界大百科事典〕

註325-11 行財政改革

上垣「同上」,P39-P40 服部・谷川「フランス近代史」,P74

註325-12 ナポレオン法典

上垣「同上」,P42-P43 ホーン「同上」,P54-P55・P289

{ 非軍事分野でナポレオンが発揮したその行政的手腕を総合的に見れば、彼は歴史に残る偉人の一人と見なされて然るべきである。彼は自らセントヘレナ島で次のように回想している。 「私の真の栄光は40の戦いに勝利したことにあるのではない。私が手掛けた民法典こそ何によっても拭い去られることのない私の栄光である」…}(ホーン「同上」,P55)

註325-13 レジオン・ドヌール勲章

ホーン「同上」,P43・P56-P57 上垣「同上」,P54