日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.2 フランス革命 / 3.2.4 革命の終焉

3.2.4 革命の終焉

ロベスピエール処刑後も革命はブルジョア路線の右派と民衆路線の左派の間で綱引きが続く。1799年になると第2次対仏大同盟が結成されて戦況も悪化、強力な政府を作るためにナポレオンの支援を受けてクーデターが敢行された。新たに統領政府が成立し、ナポレオンが専制体制をしくことによってフランス革命は終了した。しかし、その後も、帝政(1804~)、復古王政(1814~)、立憲王政(1830~)、共和政(1848~)、帝政(1852~)と短期間で政体は変化し、1870年の共和政でようやく安定する。

図表3.7(再掲) フランス革命

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(1) テルミドール派の抗争註324-1

ロベスピエールらを打倒した人たちはテルミドール派とよばれたが、彼らは平原派や山岳派の右派と山岳派の左派による連合体だった。テルミドール右派は、公安委員会の権限縮小、革命裁判所の改組、総最高価格令の廃止など、ブルジョア路線に沿って革命政府の解体を進める。これに対して国民公会で少数派となったテルミドール左派はなすすべがなかった。

このような状況のなか、1795年4月と5月にパリで大きな民衆蜂起が起きる。民衆は物価高騰に抗議して国民公会の議場にまで侵入するが、その要求を受けて議会を動かそうとする議員はおらず、結局反乱は鎮圧されてしまった。

(2) 95年憲法と総裁政府註324-2

1795年8月、国民公会は新たな憲法※1を制定する。この憲法は91年憲法に規定された自由経済を復活させてブルジョア的共和政の実現をめざしたもので、選挙は所得による制限選挙に戻り、議会は上下両院の2院制、行政のトップは5人の総裁による共同統治となった。

1795年10月20日、新憲法にもとづく選挙が行われ、26日、国民公会は解散して、翌日総裁政府が発足した。この新政権の基盤となったのはブルジョアと中小土地所有農民層であったが、反革命の王党派も多数を占め、不安定な政権であった。

※1 正式には共和国第3憲法、通称95年憲法。

図表3.11 総裁政府発足時の議会党派勢力

総裁政府発足時の議会党派勢力

出典) 柴田「フランス革命」,P190をもとに作図

(3) 左右両派の主導権争い

総裁政府時代には、いくつかのクーデターが発生し、右に寄ったり左に寄ったりを繰り返した。以下、2件は比較的規模の大きなクーデターである。

パブーフの陰謀事件(1796年5月)註324-3

パブーフは貧しい農民出身の革命家で、旧山岳派の一部と民衆運動家の一部を糾合して秘密結社をつくり、財産の所有を否定する共産主義をかかげて決起しようとしたが、仲間の裏切りで未然に摘発され、パブーフは死刑になった。共産主義といってもマルクス主義とは違い、当時の農村にあった共同体的な土地共有のようなものであったが、秘密結社による革命運動の形式は19世紀前半のヨーロッパに広められた。

総裁政府によるクーデター(1797年9月、1798年5月)註324-4

1797年の選挙で議員の3分の1が改選されたが、その大部分が王党派の議員だった。議会の反動化を恐れた総裁政府は軍隊を動かしてクーデターを起こし、王党派議員の当選を無効にした(フリュクティドールのクーデター)。これまで議会が動かせたのはパリ市民の民兵組織である国民衛兵であったが、この頃になると軍部の政治への影響力が強くなってきていたのである。なお、このとき動いた軍隊にはナポレオンがからんでいた。

ついで98年4月の選挙で左派が進出すると政府は特別法を作って約100名の左派議員の当選を無効にした(フロレアルのクーデター)

(4) 軍部の形成註324-5

革命前、戦争は貴族の仕事であり、ほとんどの士官は貴族だった。兵士は士官が自分の出身地などから集め、国の資金で養う傭兵的な集団だった。このスタイルが革命後もしばらくのあいだ残る。
92年頃になると、それとは並列に義勇軍の部隊ができる。義勇軍の兵士たちは農民が多く、脱走が多かったので、これを正規軍と一本化することが進められ、それにともなって士官=貴族という構図は減少していった。

総裁政府の時期(1795年頃)になると、士官は家柄に無関係な実力主義で任命されるようになり、軍人の職業化が進む。そうすると士官は自分の昇進と利益のために戦争の続行を希望し、将軍とのあいだに主従関係が生まれ、私的人間関係の集団ができる。将軍は御用商人と関係を強め、御用商人は作戦に介入してくる。戦費はすべて現地での徴発によりまかない、軍隊は戦利品を政府に送ることもでてくる。こうして軍部の独立性が高まり、政府への発言力が増していったのである。

(5) ブリュメール18日※2のクーデター註324-6

1797年までフランスは、ナポレオンのイタリア遠征などで勝利をかさねていたが、1798年に入ると英・墺・露などによる第2次対仏大同盟が締結され、劣勢になっていった。

そのような情勢のもと、99年春に行われた選挙では再び左派が躍進する。これに危機感をもった総裁の一人シェイエスは強力な政府をつくるため、ナポレオンに協力を求め、ナポレオンは同年11月9-10日の軍事クーデターによって総裁政府を打倒した。新政府はシェイエスとナポレオンともう一人の統領からなる政府で、実権はナポレオンが握ることになった。

{ 1799年12月15日、共和国第8年憲法が短い宣言とともに公布され、… その宣言は「革命はそれを始めた原理のうちに固定された。革命は終わった」という言葉で締めくくられていた。}(上垣豊「ナポレオン」,P29)

※2 「ブリュメール18日」は、共和暦8年霧月18日で、西暦1799年11月9日。

(6) フランス革命の意義

フランス革命は、どういう革命だったのか、については、古くから様々な議論がなされてきたが、現在では革命をみる多様な視点から多様な見方が提示されてきている。

ブルジョア革命論註324-7

1920年代に現れ、現在でも一定の支持があるのが「ブルジョア革命論」である。これは、フランス革命を社会・経済の視点からとらえ、封建社会における資本主義の発展にともなってブルジョアの力が増大し、既存の支配階級である封建貴族との闘争がひき起こされた。その結果、ブルジョアが勝利し、資本主義体制が確立された、というものである。

これを支持する遅塚氏と服部・谷川氏は次のように述べている。

{ フランス革命は、その結果において、ブルジョワだけの利害に適合した社会、つまり資本主義の発展に適合した社会をもたらした。その意味で、フランス革命の基本的性格はブルジョワ革命なのだ、といってよい。}(遅塚「フランス革命」,P93)

{ この革命は、封建領主制の残存物と商品生産・流通に関する私的所有権の絶対性と経済活動の自由を確立して、資本主義の全面的展開のための法的・制度的前提条件をつくりだした。これらの事実からみて、フランス革命はまぎれもなく一個のブルジョワ革命であり、それがフランス近代史上の最大の画期をなすことは疑いない。}(服部・谷川「フランス近代史」,P73)

ブルジョア革命否定論註324-8

1960年頃からブルジョア革命論を否定する議論が出てきた。貴族とブルジョアは、生活様式や価値観、財産形態などに大きな差はなく、両者のあいだに階級対立はない。革命は、ブルジョアでなくブルジョアと貴族が融合した「エリート」の支配を強化したのであり、資本主義の確立に寄与したどころか、その発展を遅らせた、と主張した。

新たな視点註324-9

ブルジョア革命否定論はブルジョア革命論と同じように社会的・経済的な原因と結果を注視するところに特徴があった。しかし、1970年代以降になると、政治的や文化的なものに関心が向けられるようになった。また、革命をになった階級はひとつの階層ではなく、革命家集団は単純に分類しえないということが自覚され、フランス革命が謎と複雑性に満ちていることが再認識されている。

松浦氏は、{ フランス革命とはまずもって政治文化の変換の過程だった。}(松浦「フランス革命の社会史」,P11) とした上で、{ マス・プロパガンダ技術、大衆政党、下層階級の政治的動員、社会や日常生活の学校化と政治化、など現在の政治に関する観念や実践の多くを生み出した。}(同上,P88) という。

柴田氏は、{ フランス革命は18世紀後半からはじまる近代世界体制の第2期への転換という枠組みのなかでの国家構造の変革としてとらえる。}(柴田「フランス史10講」,P115-P116<要約>)、とした上で、{ 経済的階級としてのブルジョワが資本主義の確立を主目的としておこした革命、という意味ではブルジョワ革命論は成り立たないが、ブルジョワを社会・政治的概念として民衆層から上昇する新興中間層としてとらえるのであればブルジョワ革命と規定することができる。}(柴田「フランス史10講」,P135<要約>) という。

近代世界システムからの見方註324-10

I.ウォーラーステインは、近代世界システムという視点からみるとフランス革命は転換点ですらない、という。

{ ブルジョア革命というカテゴリも、自由主義革命のそれも、いずれも実際に起こったことをうまく表現してはいない。…
フランス革命は、基本的な経済の転換点でもなければ、基本的な政治構造の転換点でもなかった。フランス革命とは、「資本主義的世界経済」の枠組みでいえば、上部構造としてのイデオロギーが、下部構造としての経済のあり方に、ようやく追いついた瞬間なのである。…
フランスはイギリスより100年以上も遅れてその「ブルジョワ革命」をもったのだが、その「ブルジョワ革命」こそは、産業革命の前提条件だったのである。}(I.ウォーラーステイン「近代世界システムⅢ」,P34・P36-P37)


コラム 明治維新とフランス革命

明治維新とフランス革命は、封建制が残る政治・社会体制を近代的な体制に変革した、という意味では共通しているが、遅塚忠躬氏は2つの違いがあるという。

一つは、革命の主体がフランス革命の場合、ブルジョアと民衆の力が結合して革命を進めたが、日本の場合に主体となったのは武士で民衆はほとんど関与していない。もう一つは、フランス革命が民権の回復を実現したのに対して、日本の場合は国民の基本的人権がなおざりにされた、ということである。それを象徴するのが中江兆民の次の言葉であるという。

{ 民権と呼ばれているものには2種類ある。イギリスやフランスの民権は回復の民権、すなわち下からすすんで取ったもの、一方、日本の場合は恩賜の民権とでもいうべきものである。前者は獲得する民権の量を民衆が決めることができるが、後者は上から与えられるので民衆は分量を決められない。}(遅塚「フランス革命」,P166…中江兆民「三酔人経綸問答」からの引用をさらに要約して引用)

フランス革命で民衆は多大な犠牲を払ったが、日本で犠牲を払ったのは武士で民衆の犠牲はほとんどなかった。民衆が基本的人権を回復するのは第2次大戦の敗戦までかかることになった。

これと同様のことを柴田三千雄氏は次のように述べている。

{ 日本は民衆のローカル共同体を権力の基盤として再編成し、保守的な秩序の基盤となった。対してフランス革命では革命的な側面を際立たせた。フランス革命では民衆のエネルギーを反特権の方向に解き放つことにより古い共同体を解体したが、日本の近代国家の成立は、これを反自由の方向へ嚮導しつつ変質させたといえる。そう考えないと、現在の日本社会を蔽っている画一主義は説明できない。}(柴田「フランス革命」,P242-P243<要約>)

なぜ、日本の近代化がヨーロッパなどとは異なる独自の方法で進められたか、については遅塚・柴田両氏ともにふれていない。この問題はとても奥が深く、簡単に言い切れることではないと思うが、私なりに思いついたことを3点指摘させていただく。1点は明治維新のヴィジョンが変化していったこと。「尊王攘夷」を掲げて「革命」は始まったが、気がついてみたら「富国強兵」の近代化路線になっていた。これでは民衆がついていく余地はなかっただろう。次に、幕末に豪商や豪農はいたが、経済の発展はヨーロッパほどではなく、武士と民衆の中間勢力にはなり得なかった。最後に、士農工商という身分制度はあったが、ヨーロッパほど身分間の距離は広くなく、対立もさほど大きくはなかった。


3.2.4項の主要参考文献

3.2.4項の註釈

註324-1 テルミドール派の抗争

柴田「フランス革命」,P183-P187

{ 95年4,5月の蜂起が挫折したのは、2つの原因がある。一つは、民衆運動の活動家が恐怖政治の時期に排除されるなどしていなくなっていたこと、もう一つは民衆運動の圧力を受けとめる議員も少なくなっていたことである。この2回の蜂起で左派の議員は逮捕され、左派は壊滅した。}(柴田{同上},P186<要約>)

註324-2 95年憲法と総裁政府

柴田「同上」,P187-P190 服部・谷川「フランス近代史」,P71

{ 最大勢力の共和派穏健・中間勢力は、かろうじて過半数を確保したにすぎず、何かしようとすると王党派の一部又は共和派(左派)と結ぶ必要がある。この不安定な状態は総裁政府時代の終りまで続く。}(柴田「同上」、P190-P191)

註324-3 パブーフの陰謀事件

柴田「同上」,P191-P192 服部・谷川「同上」,P71

註324-4 総裁政府によるクーデター

柴田「同上」,P192-P194 服部・谷川「同上」,P71

{ ナポレオンは当時微妙な立場にいた。その年の4月、彼は中央の意向を無視してオーストリアと仮の和平条約を結び政府を怒らせていた。これを政府に認めさせる取引でクーデタに協力した。}(柴田「同上」,P194)

註324-5 軍部の形成

柴田「同上」,P198-P200

註324-6 ブリュメール18日のクーデター

柴田「同上」,P204-P205 服部・谷川「同上」,P72

註324-7 ブルジョア革命論

松浦「フランス革命の社会史」,P4-P5

註324-8 ブルジョア革命否定論

松浦「同上」,P5

ブルジョア革命論はマルクス主義の唯物史観に影響を受けており、次のような問題も指摘されている。

{ 一国史規模で封建制、資本主義、社会主義の必然的な発展段階を想定していたが、… ソ連邦が崩壊してしまったので、この発展段階理論も同時に崩壊した。}(柴田「フランス史10講」,P115)

註324-9 新たな視点

松浦「同上」,P7-P11

本文に掲げた柴田氏の主張はやや難解だが、1989年の著書「フランス革命」ではつぎのように述べている。

{ フランス革命が発生したのは、16世紀以来できてきたヨーロッパ中心の世界体制がイギリスの産業革命の開始とともに、政治体制・国家構造の転換期にさしかかった時期における一つの変化だといえる。それが革命という形をとったのは、18世紀後半のフランスが占めていた位置に由来する。フランスは当時のヨーロッパのなかでは最も骨組みの硬い中央集権制と、発達した商工業とが共存した国家だった。イギリスは工業的には最先進国だが、その国家の制度は相当リベラルに変わってきている。ドイツのプロイセンは、官僚・集権国家だが、工業は未成熟。中央集権制と経済発展という二つの要素の組合せをもつフランスなればこそ、自由主義的な新エリート層の出現を生んだことになるし、民衆には封建的な負担と資本主義的負担とが二重にかかり、その自律的な運動を激化させた。}(柴田「フランス革命」,P244-P245<要約>)

日本ではフランス革命を「市民革命」と呼ぶことがあるが、これについて柴田氏は次のように述べている。

{ 「市民革命」はその目的として「市民社会」の樹立を含意している。市民社会(civil society)とは、民間の経済行為や文化活動など国家に包摂されない社会生活の自律的分野――民間公共社会――をさす。「ブルジョワ革命」は新しい公共圏をつくり出すので、「市民革命」でもあるが、それは20世紀の独裁国家においてもおこりうるので、やはり政治社会学的な別のカテゴリに属する概念である。}(柴田「フランス史10講」,P135-P136<要約>)

註324-10 近代世界システムからの見方

「近代世界システム」については、2.9節(3)を参照。