日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.2 フランス革命 / 3.2.3 革命政府と恐怖政治

3.2.3 革命政府と恐怖政治

この項は、国民公会における派閥抗争から、革命独裁をリードしたロベスピエールが処刑されるまでを対象とする。ブルジョア路線をとるジロンド派は国民公会発足当初は優勢だったが、民衆路線をとる左派やロベスピエール派との抗争に敗れて没落した。かわってロベスピエールを中心とするグループが民衆の力を利用して主導権を握り、反革命勢力を恐怖政治によって弾圧したが、クーデターにより失脚し、革命は再びブルジョア路線に向かう。

図表3.7(再掲) フランス革命

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(1) ジロンド派没落註323-1

1792年9月に発足した国民公会ではじめに優勢だったのはジロンド派だった。8月10日の民衆蜂起により王権は停止されたものの、保守的な人たちはたくさん残っており、ジャコバン右派であるジロンド派の支持者は少なくなかった。

しかし、ジロンド派は次のようにしてしだいに民衆や議員の支持を失っていった。

一方、国民公会で新たに伸びたのは8月10日の民衆蜂起を指導したコルドリエ・クラブと合流した山岳派であった。ジロンド派も山岳派もいずれも中流ブルジョア出身者であるが、ジロンド派が民衆との間に距離を置いたのに対して、山岳派は民衆運動との連携を重視した。

図表3.9 ジャコバンクラブの系譜※1

ジャコバンクラブの系譜

※1 ジャコバンクラブは、1789年にパリのジャコバン修道院で結成された政治結社。各派の詳細については、3.2.2項(5)又は本レポートの用語集の「ジャコバン・クラブ」を参照。この当時は議員の派閥が組織化されていたわけではなく、議員個人がその都度自由に判断して支持する派を決めていたので、流動性が高かった。

(2) 山岳派独裁体制の形成註323-2

ジロンド派の没落は1793年6月2日のパリの民衆運動で決定づけられた。ジロンド派の指導者を議会から排除するための蜂起はパリの急進的セクションで計画され5月29日に行われたが、このときは失敗した。6月2日、約8万人の民衆をもって再び議会を取り囲んで、ジロンド派首脳の逮捕を要求し、議会でそれを決議させることに成功した。

この時に逮捕されたのはジロンド派首脳の29名と2名の大臣だが、自宅監禁されただけなので、多くの議員はパリを抜け出して地方に逃げ、そこで反乱を組織するが、議会内では力を失った。
こうして山岳派は国民公会で実権をにぎり、事実上の独裁体制を築いた。

(3) 民衆運動の成果

独裁体制を築いた山岳派は、民衆組織からの圧力を背景に重要法案を成立させる一方で、民衆運動を指揮する過激派の取り締まりも行った。

93年憲法(1793年6月24日)註323-3

92年8月10日の民衆蜂起により発足した国民公会の任務のひとつに新しい共和政に対応する憲法の制定があった。93年憲法は91年憲法よりリベラルなものになり、人権宣言で定めたことが実現された。主な内容はつぎのとおりである。

しかし、山岳派は10月10日、「憲法は平和の到来まで施行を延期する」と宣言し、その後94年7月に山岳派は崩壊したので、結局この憲法が施行されることはなかった。

その他の重要法案制定(1793年7月~9月)註323-4

国民公会は7月から9月にかけて次のような重要法案を次々と成立させていった。

民衆運動の抑制(1793年7月~9月)註323-5

92年8月10日の蜂起や93年6月2日の民衆運動はパリの行政区にあった住民組織が母体になって行われたが、その活動を制限したり、一部の過激指導者を逮捕して民衆運動の過熱を防ごうとした。

(4) 革命政府樹立註323-6

93年春になるとイギリスなどの参戦による戦争の激化に加えて、ヴァンデの反乱など内乱も激しくなっていた。この危機に対処するために革命裁判所※2の創設(1793/3/10-)、革命委員会※3(1793/3/21-)による地方行政、および軍事・外交・内政全般に強力な権限をもつ公安委員会※4の設置(1793/4/6-)などによって、権力の集中をはかった。

※2 革命裁判所 1793年3月10日に反革命行動を裁くための法廷として成立したが、同年6月10日以降、弁護が禁止されて上訴も抗告もできなくなった。末期には有罪=死刑とされた。(Wikipedia「革命裁判所(フランス革命)」

※3 革命委員会 監視委員会とも呼ばれ、各市町村におかれて行政・治安の実権をもち、定期的に現状報告する任務をもつ国民監督官によって監督された。さらに、公安委員会の監督下におかれた国民公会の議員が派遣され、実施状況が監視された。1793年3月21日設置。(柴田「フランス革命」,P155、松浦「フランス革命の社会史」,P80)

※4 公安委員会 国民公会に設置された委員会で、委員は初めは9人、やがて12人で委員長はおかれなかった。財政以外の重要政策に介入し、恐怖政治の中心的存在となった。(コトバンク〔日本大百科全書〕)

9月4,5日にパリで起きた大規模デモは、革命軍の創設、反革命容疑者の逮捕などを要求し、これが革命政府樹立のきっかけとなった。国民公会は93年10月10日に「平和の到来まで憲法を停止する」という宣言を出し、公安委員会と治安を担当する保安委員会に権限を集中し、地方の革命委員会もこれに従属させた。この体制を革命政府というが、ロべスピエールが指導的立場にいた公安委員会を中心とする中央集権体制であった。

{ 公安委員会と保安委員会が、反革命容疑者を逮捕する権限を持つ各地の革命委員会によって形成されるネットワークのうえに立ち、派遣議員に媒介されながら、反革命容疑者法を運用し、反革命容疑者を革命裁判所に送致するという、恐怖政治の行政的構造ができあがるのである。}(松浦「フランス革命の社会史」,P81-P82)

(5) 恐怖政治註323-7

1793年9月4,5日のパリの大規模デモにより、同月17日に「反革命容疑者法」が制定されて、反革命とみなされた者は容赦なく投獄できるようになった。

パリでは、9月に民衆運動の過激な指導者たちが逮捕され、10月から11月にかけてマリー・アントワネットやジロンド派、旧フイヤン派などがギロチンにかけられた。リヨン、ナント、トゥーロンなどの都市や西部では内乱のために、その反乱者が大量に処刑された。93年3月から94年8月までに各地の革命裁判所で死刑を宣告され処刑された者は16,594人、ほかに裁判なしで処刑されたり獄死した者を加えると恐怖政治の犠牲者は35~40千人に達した、といわれている。

反革命とされたのは、マリー・アントワネットのような王党派やブルジョアの利益を重視して恐怖政治緩和を求める人々だけでなく、物資の買い占めや隠匿をした者、無統制な大衆運動を煽動する過激派なども含まれ、左右両派が摘発された。

{ 恐怖政治期とは、議会のコントロールのもとで機能する裁判システムが構築されていく時期であると同時に、軍隊などの国家による抑圧装置が整備されていく時期だった。したがって、恐怖政治は結果的に民衆による暴力を消滅させることになった。実際、1795年4月と5月にパリで2度にわたって勃発した民衆蜂起は、軍隊によって完全に鎮圧され、以後1830年まで民衆が蜂起することはない。}(松浦「同上」,P86-P87)

(6) 山岳派とロベスピエール

この頃の山岳派には次の3つのグループがあった註323-8

図表3.10 革命政府の構造

革命政府の構造

ロベスピエール(1758生~1794没)註323-9

ロベスピエールはアラスという地方都市で父が弁護士の家に生まれ、本人も弁護士になり三部会議員に選出されてパリに出てきた。はじめは目立った存在ではなかったが、しだいに頭角をあらわしてきた。1792年8月10日の蜂起が近づくと、それまでの91年憲法擁護の立場を捨て、行政・立法機関の全面的刷新を主張し、これが8月10日の蜂起に取り入れられ、国民公会の創設につながった。
以下は、彼の思想の一端を示す言葉である。

(7) 山岳派の分裂註323-10

革命独裁をリードしてきたのはロベスピエール派だったが、革命政府内で彼らは少数派だった。それぞれ12人の委員で構成される公安委員会と保安委員会の委員のうちロベスピエール派は前者が3名、後者は2名しかいなかった。彼らを支えていたのは、山岳派の左右両派と平原派の議員の支持であり、その微妙なバランスの上で活動していたのである。1793年末から94年夏にかけてこの微妙なバランスが崩れてきた。その原因は多岐にわたるが、その主なものを以下に掲げる。

(8) テルミドール9日のクーデター(1794年7月27日)註323-11

こうした状況のなか、ロベスピエールは独裁者であるという不満が噴出するが、ロべピエールは逆に国民公会に出席しなくなった。1794年7月26日、ひさしぶりに議会に出席したロベスピエールは、粛清すべき議員がいる、と演説をしたが、それが誰かは言わなかった。不安になった議員たちによってその夜、策謀がめぐらされた。

翌7月27日、ロベスピエールに発言の機会が与えられないまま、山岳派の左右両派から独裁者だという攻撃と非難そして逮捕の動議が出され、ロベスピエールはじめ5名の議員が議会内で逮捕された。その夜、パリ市議会は国民衛兵の動員をかけ、ロべスピエールらを救出しようとするが、それに同調する民衆クラブはなく、逆に国民公会側が動員した国民衛兵がパリ市議会を襲って市議会のメンバーを逮捕してしまった。ロべスピエールは民衆からも見放されたのである。
そして7月28日、ロベスピエールと議員およびパリ市議会のメンバー合計22人はギロチンにかけられた。

{ ロべスピエールは、自分に対して非常に厳しいピューリタン的な性格をもっていると同時に、人に対しても厳しく、包容力に欠けるとの印象がぬぐえない。}(柴田「フランス革命」、P174) という彼のまじめな性格が、逆に人々の反感をかってしまうという面もあったのかもしれない。

(9) 非キリスト教化運動註323-12

18世紀半ば以降、啓蒙思想の普及とともに、都市ブルジョア層を中心に脱キリスト教化の動きが出てきていた。1793年10月にグレゴリオ暦の廃止と共和暦の導入を国民公会が決めると93年秋から94年春にかけて非キリスト教化運動が各地で活発に行われるようになった。

運動は様々な形態で展開されたが、地域によって強弱があり、パリやフランス中部はとりわけ激しかった。

こうした運動はロベスピエールが処刑されると急速にその勢いを失っていった。しかし、そのあいだに忠誠の宣誓を拒むなどして処刑されたり、追放された聖職者の数は3万人を越えた。キリスト教は復古王政の時代に復興されるが、聖職者の欠員補充はままならなかった。運動が激しかった地域では、20世紀半ばまで非キリスト教の傾向が定着し、政治的に左翼の勢力が強い地域であり続けた。


3.2.3項の主要参考文献

3.2.3項の註釈

註323-1 ジロンド派没落

柴田「フランス革命」,P132-P138・P140-P145

柴田氏は、ジロンド派も山岳派も本質的にはあまり差はないという。

{ 狭義のジロンド派の多くは、立法議会の段階で議員となり、パリに出てきて人的コネクションをつくり権力に近い座にいた。しかも大都市出身なので、民衆運動に対してはもともと強い警戒感をもっている。
対して、山岳派は地方の中小都市出身者が多く、国民公会になってからパリに出てきた。こういう議員からジロンド派をみると腐敗していると映る。彼らはかつてのジロンド派がそうであったように、この革命を乗り切るには民衆運動のエネルギーを無視できないと考えた。
山岳派の形成は徐々に行われ、中間派の多くも徐々に山岳派の支持に傾いた。しかし、その多くはロベスピエール没落以後になると民衆運動から離れ、それを警戒するようになった。}(柴田「同上」,P136)

註323-2 パリの民衆蜂起

柴田「フランス革命」,P145-P146

註323-3 93年憲法

遅塚「フランス革命」,P110-P112

註323-4 その他の重要法案制定

柴田「フランス革命」,P153-P154 遅塚「同上」,P120 松浦「フランス革命の社会史」,P81-P82

註323-5 民衆運動の制限

柴田「フランス革命」,P158-P159 松浦「同上」,P81

{ 国民公会は民主運動の主要な要求をとりいれたあとで、9月には過激派の指導者ジャック・ルーとヴァルレを逮捕し、10月にはオランプ・ド・グージュとクレール・ラコンプのひきいる「革命的共和主義女性協会」を閉鎖に追い込んだ。}(松浦「同上」,P81)

註323-6 革命政府樹立

松浦「同上」,P79-P82 柴田「フランス革命」,P154-P156

註323-7 恐怖政治

松浦「同上」,P82-P85 遅塚「同上」,P151-P152

{ 約16千人の人々が死刑判決をうけて処刑されたが、うち75%は「反革命(陰謀、亡命、裏切り、敵との共謀)の罪で処刑され、犠牲者の2%は宣誓拒否の聖職者、1.5%は買占め人だった。社会職業上の分類では、犠牲者の80%を旧第三身分が占め、なかでも農民(28%)、日雇い労働者(31.25%)が大きな割合を占めていた。地域的にはパリ(16%)、リヨンやトゥーロンが位置する南東部(19%)、ヴァンデの反乱が起こった西部(52%)での犠牲者がきわだっていた。}(松浦「同上」,P84)

註323-8 山岳派の3グループ

柴田「フランス革命」,P151

註323-9 ロベスピエール

柴田「フランス革命」,P149-P150・P152・P180-P181 遅塚「同上」,P152

{ 彼は、反革命容疑者の土地を貧民に無償で分配しようという法案を国民公会に提案している。古代ローマのように国民全員が小所有者になる平等な共和国を理想の社会と考えていた。}(柴田」「同上」,P181<要約>) この法案は他派の合意を得られず廃案となった。

註323-10 山岳派の分裂

柴田「フランス革命」,P163-P174

遅塚氏は革命独裁が崩壊に至る経緯をきわめて簡単にのべている。

{ ロベスピエールをはじめとする山岳派の努力によって、社会的デモクラシーの理想に一歩近づこうという試みがなされた。しかし、それは一方でブルジョワに大きな不安を感じさせ、他方で大衆にとっては不十分なものだった。したがって、山岳派の内部にブルジョワの利害を優先しようとする右派(ダントン派)と、大衆の要求をさらに受け入れようとする左派(エベール派)との対立が生じた。両派の中間にたつロベスピエール派は、94年3月にエベール派を処刑し、4月にダントン派を処刑した。
こういう恐怖政治の進行は、議会内外でロベスピエール派にたいする強い反感を生んだ。もともと山岳派の独裁と恐怖政治は、内外の反革命派の脅威から革命を守るためだったが、94年春には共和国軍の勝利によって脅威が薄らいだので、独裁や恐怖政治を維持する必要はなくなった。}(遅塚「同上」,P126<要約>)

註323-11 テルミドール9日のクーデター

柴田「フランス革命」,P174-P176

{ ロベスピエールの片腕といわれたサン・ジュストが書き残した手記で、「革命は凍りついた」と書いている。民衆運動のエネルギーが革命独裁を生み出したにもかかわらず、それが革命独裁によってコントロールされると、もはや本来の民衆運動ではなくなる。なぜなら、そのエネルギーはコントロールされない自律性のなかにあるからである。革命独裁を生み出した民衆運動の熱狂的な力を革命独裁が自身の手で圧殺したことを物語っている。}(柴田「同上」,P176)

註323-12 非キリスト教化運動

松浦「同上」,P59-P62 服部・谷川「フランス近代史」,P82-P98

非キリスト教化運動は後世にも大きな影響を残した。

{ 宗教的実践の後退を促さずにはおかない。… 復活祭での聖体拝領への男性の忌避は「女は教会、男は居酒屋」という、19世紀における社交の場の基本的構図をもたらした。革命はまた、日常生活サイクルの中心としての教会の比重を著しく減殺した。都市部をはじめとする世俗婚、世俗葬の増大は、人々の結婚や死(ひいては生)に対するまなざしの変化を物語っている。さらに重要なのは、地方自治体と戸籍法の定着が、教会の戸籍業務からの撤退を余儀なくし、その公的地位の後退を決定的にした。}(服部・谷川「同上」,P97)

※ フランス革命前まで、戸籍の管理は教会が行っていた。