日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.2 フランス革命 / 3.2.2 立憲王政から共和政へ

3.2.2 立憲王政から共和政へ

この項では、国王ルイ16世の逃亡(ヴァレンヌ事件_1791年6月)から、国民公会の発足(1793年9月)までについて述べる。立憲王政を目指していた議会の保守派が、王の逃亡によって”はしご”をはずされ、それでも何とか王政を維持しようとしたものの、1792年8月の民衆による王宮襲撃により革命の方向が変わって保守派は力を失い、共和政の主体としての国民公会が発足した。

図表3.7(再掲) フランス革命

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(1) 国王一家の逃亡

ヴァレンヌ事件(1791年6月20日~)註322-1

人権宣言にもとづく法制化が進んでいたころ、国王一家がパリから逃亡するという事件が起きた。1791年6月20日の深夜、国王ルイ16世とその家族は変装してパリの王宮を脱出し、王妃マリ・アントワネットの実家であるウィーンの宮廷に逃げ込もうとした。しかし、翌21日夜、フランス東部国境近くのヴァレンヌで逮捕され、パリに送還された。

この逃亡事件は、「貴族の陰謀」という疑念を証明するかたちになり、国王や貴族に対する国民の信頼は地に落ち、民衆の不安と不満が高まった。

シャン・ド・マルスの虐殺(1791年7月17日)註322-2

こうした事態に対して、立法議会で多数派を占めていた保守派(のちのフイヤン派)は、「国王は誘拐の犠牲者であって無実なのだ」という偽情報を発して事態収拾を図ろうとしたが、火に油をそそぐことになった。左派の議員たちは7月17日に民衆を集めて国王廃位のための請願大会を開いた。この運動は国民衛兵により血を見るかたちで鎮圧されたが、これ以後、国王は「暴君」、「裏切り者」とされるようになった。

(2) ヨーロッパ諸国の干渉

ピルニッツ宣言(1791年8月27日)註322-3

王が逮捕されたことを憂慮したオーストリア皇帝とプロイセン王は、ドイツのチェコ国境に近いピルニッツで宣言を出し、ヨーロッパ全体が圧力をかけてフランス王政を維持すべし、と提唱した。

宣戦布告(1792年4月20日)註322-4

1791年秋以降、フランス国内では食糧暴動や農民一揆が続発し、国外に逃亡した貴族たちが武力干渉の構えを見せるなど、反革命の脅威が拡大していた。これに対して10月に発足した立法議会の左派でのちにジロンド派と呼ばれるグループは、反革命運動を粉砕しようと猛烈な戦争推進キャンペーンを繰り広げた。立法議会には反戦論も少なくなかったが、圧倒的に開戦を支持する世論を背景に1792年4月20日、オーストリアに対して宣戦を布告した。

開戦後註322-5

フランス軍は、革命により士官だった貴族が亡命したことや訓練・装備の不足のために緒戦は劣勢だった。1792年7月になるとオーストリアと同盟を組んでいたプロイセンが国境に迫り、議会は7月11日「祖国は危機にあり」と宣言したのに応じて、全国から義勇兵が続々とパリに集まってきた。マルセイユから来た義勇兵が出陣するときに歌ったのが「ラ・マルセイエーズ」で、これがのちにフランス国歌になった。

フランス軍は9月20日ヴァルミの戦いでプロイセン軍をやぶり、勢いにのったフランス軍は国境を越えてベルギーを占領し、ライン川左岸にも進出していく。

第1次対仏大同盟註322-6

フランスが国境を越えてベルギーを占領し、さらに当時の金融の中心地であったオランダにせまったことはイギリスに参戦を決断させた。1793年1月、ルイ16世が処刑されると、革命の波及を恐れたスペインなども加わって第1次対仏大同盟が結成され、フランスは再び窮地に追い込まれた。しかし、1793年8月には「国家総動員令」により国民を徴兵して反撃に転じ、オランダやスペインに侵攻、さらに1796年にはナポレオンがイタリア北部を攻略し、第1次対仏大同盟は1797年10月に崩壊する。

(3) 王権停止

92年8月の蜂起註322-7

1792年4月の開戦以来、劣勢が続き、7月にはプロイセン軍が国境に迫ってくると、国王や王妃が外国と共謀しているという噂は真実味を持って受け止められ、パリのほぼすべての行政区や地方都市から、国王の廃位を求める請願書が立法議会に次々と寄せられた。

戦況の緊迫とともに、パリの行政区では住民総会が連日のように開かれ、7月11日に非常事態宣言が発せられると緊張はますます高まったが、戦争をあおったジロンド派はなすすべがなかった。

8月10日未明、パリの行政区の活動家たちが連携して民衆が蜂起し、これにパリに集まっていたマルセイユなどの義勇兵が加わった。王一家は議会へ避難し、民衆が王宮を占拠して蜂起の成功が確定すると議会は王権の停止を宣言した。そしてルイ16世は議会によって修道院の塔に幽閉された。

この事件まで、ブルジョアと民衆とは一定の距離を置きながら立憲君主政を前提に革命を進めてきたが、この事件をきっかけにブルジョアは民衆と手を結んで共和政を目指す路線に転換することになった。

9月の虐殺(1792年9月2~6日)註322-8

王権停止後、多くの反革命容疑者がパリの監獄に投獄された。9月2日、フランス東部のヴェルダン要塞がプロイセン軍により陥落した、との報がパリに届くと民衆の怒りは反革命容疑者に向けられ、監獄を次々と襲撃して1100人から1400人の囚人を即決裁判により首や四肢をめった斬りにするなど残虐な方法で殺害した。虐殺された囚人の大半は反革命派とは無関係だった。

(4) 国民公会発足(1792年9月21日)註322-9

立法議会は、それまで国王の手中にあった行政権を臨時行政府に移し、新しい憲法を制定するために「国民公会」を設置することを決めた。国民公会の議員選挙は、成人男子の普通選挙――選挙人を選び、選挙人が議員を選ぶ2段階選挙――で選ばれたが、そのほとんどはブルジョア出身者であった。

立法議会で右翼を占め立憲王政を推進していたフイヤン派は姿を消し、穏健共和派で民衆とは距離を置きたいジロンド派が右翼、急進共和派で民衆の意見を取り入れようとする山岳派が左翼となった。1792年9月21日に開会した国民公会は、王政の廃止と共和政の樹立を正式に決めた。

(5) 議会党派の推移

図表3.8は、フランス革命における議会の党派の推移を示している。

図表3.8 フランス革命期の議会党派

フランス革命期の議会党派

出典)遅塚「フランス革命」,P108 から作図

右翼/左翼は、憲法制定国民議会において、議長席からみて右側に保守・穏健派が、左側に共和派や急進派が陣取ったことに由来している。

(6) ルイ16世処刑(1793年1月21日)註322-10

1791年6月20日の逃亡事件以後、国王ルイ16世の責任問題が議論され、裁判にかけることも提議されてきたが、ジロンド派は何とか避けようとした。しかし、8月10日の蜂起により裁判は不可避となった。裁判は1793年1月15-17日に国民公会議員によって行われ、投票者総数721名のうち、387人が国王を死刑に処すことに賛成した。ジロンド派は反対したものの、山岳派に加えてかなりの数の平原派が賛成した。

ルイ16世は、1月21日、革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンの露と消えた。

パリ コンコルド広場

パリのコンコルド広場

(7) ヴァンデの反乱(1793年3月~)註322-11

93年2月1日、フランスはイギリスに宣戦布告し、国民公会は30万人の徴兵を決定したが、ほどなくして、フランス各地で徴兵忌避の反乱が発生した。とりわけ、大きな反乱を起こしたのが、フランス北西部ブルターニュ半島のつけ根にあるヴァンデ地方の農民たちだった。都市のブルジョアは金を払って徴兵を免れているのに、革命の恩恵に浴しない自分たちが兵隊に行かなければならないのか。都市の民衆や農村の貧農は、反領主と同時に反ブルジョアの傾向をもっていた。

暴動は、最初は自然発生的に起きたが、王党派の貴族が乗り込んできて、これを反革命の運動に組織した。議会は鎮圧軍を送り、手を焼きながらも93年末になんとか下火になった。しかし、暴動はこのあと何度も再燃することになる。

このように、革命は必ずしも民衆に受け入れられたわけではなかったが、{ 自由・平等な個人にもとづく一体的な国民をつくりだそうとする革命への信仰にとりつかれていた国民公会議員は、そのような理想的な革命に敵対するヴァンデの民衆反乱を理解しえず、貴族や司祭の陰謀による「反革命」とみなして、きびしく対応した。}(松浦「フランス革命の社会史」,P70-P71)


3.2.2項の主要参考文献

3.2.2項の註釈

註322-1 ヴァレンヌ事件

柴田「フランス革命」,P113 遅塚「フランス革命」,P101-P102  Wikipedia「ヴァレンヌ事件」

{ 立憲君主制憲法がいよいよできようというその土壇場に、立憲君主制の中心になるべき肝心の君主がフランスを見捨てて国外に逃亡しようというのだから、保守派の議員は苦境に立たされた。彼らは調査委員会をつくり、「国王は誘拐された」という調査結果を議会で大演説した。これはだれも信用しない。それでも議会はなんとかおさまったが、パリ市内で共和政を要求する動きがはじまった。}(柴田「同上」,P113-P114)

註322-2 シャン・ド・マルスの虐殺

松浦「同上」,P39 Wikipedia「シャン・ド・マルスの虐殺」

註322-3 ピルニッツ宣言

君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P183

註322-4 宣戦布告

服部・谷川「フランス近代史」,P63-P64 柴田「フランス史10講」,P126-P127 遅塚「同上」,P103

{ ジロンド派は、軍事的手段によって宮廷や亡命貴族の反革命運動を一挙に粉砕しようとして、猛烈な戦争キャンペーンを展開した。… 国王も戦争に賛成したが、… フイヤン派のなかの三頭派は慎重論を唱え、またロベスピエールも … 開戦に強く反対した。しかし、結局、世論の圧倒的な支持を背景に、4月20日、議会はほとんど満場一致で … オーストリアに対して宣戦を布告したのである。}(服部・谷川「同上」,P63-P64)

註322-5 開戦後

遅塚「同上」,P102-P103 服部・谷川「同上」,P64-P65

註322-6 第一次対仏大同盟

柴田「フランス革命」,P142 君塚「同上」,P183-P185

第一次対仏大同盟に参加したのは次の国々である。(Wikipedia「第一次対仏大同盟」)
イギリス、オーストリア、南ネーデルランド(オーストリア領)、プロイセン、ナポリ、サルデーニャ、スペイン

註322-7 92年8月の蜂起

柴田「フランス革命」,P122-P123・P140 松浦「同上」,P40-P41 遅塚「同上」,P103

{ この蜂起は共和政の樹立が目標で、パリの行政区の活動家が中心になって計画され、組織的に実行された行動である。}(柴田「同上」,P122-P123<要約>)

註322-8 9月の虐殺

柴田「フランス革命」,P138-P140 松浦「同上」,P74-P77

{ フランス革命期の群衆の暴力は、いくつかの共通の特徴を示している。まず暴力的な群衆は、貧民や賃労働者だけで構成されていたのではなく、小ブルジョワがそこに加わっていた。そして略奪よりも破壊の方が頻繁だった。また、たとえ即決裁判であっても裁判のない殺人はなかったし、死体の冒涜を伴わない殺人もほとんどなかった。民衆は暴力を行使しながら法を適用していると意識しており、民衆騒擾の大部分において法による正当化が存在したのである。}(松浦「同上」,P76)

柴田氏は、この事件はのちの革命独裁政権に影響を与えた、という。

{ のちのジャコバン独裁はこの9月の虐殺の経験と関連があると思う。反革命に対する民衆の危惧を盲目的に爆発させてはならず、それをコントロールする必要があるが、そのためには、内部に妥協的分子をふくむ2重権力ではなく、民衆の正当な要求を先取りしてゆく強力な革命的集中権力の樹立が前提条件となる。これがのちの恐怖政治の論理である。}(柴田「同上」,P140<要約>)

註322-9 国民公会

柴田「フランス革命」,P129-P131 遅塚「同上」,P107

国民公会の議員の選挙は、ヨーロッパで初の普通選挙だったが、その実態はつぎのようなものであった。

{ 普通選挙といっても21才以上の男子による間接選挙である。有権者数は約700万人、うち投票した人は約70万なので投票率は10%。 … これには急な選挙のため宣伝不足とかの理由があるだろうが、考慮すべきは、当時の一般の民衆には議会というものは自分たちの代表を送るところではない、という意識があるという点である。…自分たちの願望や意見を表明するには別の組織や方法があると考えていた。政治意識が低いのではなく、政治の観念が違うのである。}(柴田「フランス革命」,P130<要約>)

註322-10 ルイ16世処刑

柴田「フランス革命」,P140-P141 松浦「同上」,P43-P44

註322-11 ヴァンデの反乱

柴田「フランス革命」,P143-P144 松浦「同上」,P70-P71