日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 古代・中世のヨーロッパ / 1.8 まとめ

1.8 まとめ

この章の原稿を書き始めたのは2021年の2月頃で、最初はもっと簡単に終わらせるつもりだったのが、あれもこれもと書いていくうちに、6ケ月近い時間を費やすことになってしまった。それでもヨーロッパの古代・中世を自信をもって理解した、という状態にはなっていないけれど、これまで私が得た知識をもとに、ヨーロッパの古代・中世と日本の同時代を超概括的に比べることをもって、まとめとしたい。

結論を先に書いてしまえば、この時代のヨーロッパと日本は、人々の生活、社会構造、文明や技術レベルなどにおいて、細かな相違点はたくさんあるだろうが、大きく見れば思った以上によく似ている、ということだ。
ただ、近世以降の歴史に大きな影響を与えたと思われる違いが2点ある。ひとつは、ヨーロッパが多民族、多国家であるのに対して、日本は単民族、単一国家になったことである。もう一つは、ヨーロッパでは社会の規範および君主の権威を裏付けるものとしての宗教が大きな影響を及ぼしたが、日本では宗教が社会的に果たした役割はヨーロッパほど大きくはなく、君主の権威は天皇によって裏付けられた。

(1) 人口

まずは、下表でヨーロッパと日本の人口変化を比較してみる。人口は食糧供給と密接な関係にある。

ヨーロッパの人口は紀元1年の47百万人から1000年の43百万人にやや減少しているが、同時期、日本は0.3百万人から7百万人に大きく増加している。ヨーロッパの伸び悩みの原因は、ゲルマン人などの侵入により社会的に不安定な時期にあったこと、農業生産技術の改善が進まなかったこと、等であろう。一方、日本では弥生時代後期から奈良時代にかけて稲作が急速に普及したことなどが指摘されている註18-1

1000年から1600年のヨーロッパの人口はペストの流行や百年戦争の影響などもあって、いったん減少したがその後は増加し、約2.2倍の伸びとなった。同時期、日本も2倍近く増加している。この時期はヨーロッパも日本も農業技術の改良と新たな耕地の開拓が進んだものと思われる。

つまり、紀元1年頃の日本の農業生産性はかなり低かったが、1000年頃にはヨーロッパと遜色ないレベルになり、その後も同等レベルで改善が進んだとみてよいだろう。

 図表1.15(再掲) ヨーロッパの人口推移(推定)

ヨーロッパの人口推移(推定)

出典)Wikipedia「歴史上の推定地域人口」、「近代以前の日本の人口統計」 前者は、Biraben(1980年)、後者はBiraben1993,2005年)による。

(2) 生活

この頃の生活を想像してみよう。

この時期、人口の8割以上を占めていたのは、日本もヨーロッパも農民である。彼らは、粗末な家に住み、自ら作ったり採集してきた食糧を主体にした自給自足に近い生活だったに違いない。電気もガスも水道もない。(ローマの植民地には上水道があったかもしれない。) 交通機関といえば、馬くらいで、移動は自分の足を使うしかない。新聞もラジオもテレビもなく、情報の入手は「口コミ」だけ。文字を読み書きできるのは貴族でさえほんのわずかしかいなかった。

中世も後半になると商業や手工業も発展して貨幣も流通した。ヨーロッパでは、パン屋や居酒屋のような店はローマ時代からあったし、絹織物や香辛料など奢侈品の交易は盛んにおこなわれた。日本でも主として中国との交易はあったが、質量ともにヨーロッパの方が交易は盛んだったのではないだろうか。

法律も警察もないから、山賊や強盗団のたぐいが、いつ襲ってきても不思議ではない。人々が生きるために必要だったのは、食糧と安全の確保であり、そのために集団を形成した。

(3) 封建制

{ 世界の歴史のなかでも前近代に封建時代をもったのはヨーロッパと日本に限られる。}(鯖田「…ヨーロッパ中世」,Ps4546-) 世界で封建時代を経験したのは日本と西ヨーロッパと中国だけである。中国では周王朝(紀元前11~3世紀)の時代に封建制が採用されたことが確認されているが、秦の始皇帝が中国を統一(前221年)すると、郡県を設置して中央集権的な官僚制に移行し、その後の王朝もこれを踏襲した。

封建制は中央政権が広い国土を統治できるだけの軍事力を保有していなかった場合に採用された制度であり、国土がさほど広くなかった国や、広くても強い軍事力を保有していた国では採用されなかった。秦は後者である。

封建制は1.2.3項で述べたように、土地と安全の保証のかわりに軍務を提供するという双務契約的要素と、主君への忠誠と臣従を誓うという精神的契約の要素とが複合している。ヨーロッパでは双務契約的要素が強く、2人以上の主君を持ったり、主君を変えたり、契約以上の軍務提供は拒否又は費用請求したり、ということが当然のように行われていた。

日本の封建制は、鎌倉時代に成立し江戸時代まで続いた、とされているが、戦国時代まではヨーロッパほどではないにしろ、臣下にも君主を選択する自由があった。秀吉や家康は家臣の寝返りを謀る「調略」をさかんに行っており、著名な事例として、関ヶ原の戦いで寝返った小早川秀秋や、兄は徳川、父と弟は豊臣についた真田家などがある。江戸時代になって「二君にまみえず」とか「君、君たらずとも臣、臣たれ」という片務的な奉仕と忠誠が求められたのは、徳川幕府が政権安定のために儒教的道徳を盛り込んだ「武士道」を普及させたためである。

なお、ヨーロッパの騎士と日本の武士は軍務を任務とするのは同じだが、騎士は軍務専任で身分的にも農民階級の上に位置づけられたのに対して、中世(江戸時代以前)の武士の多くは軍務専任ではなく自ら農業経営も行う小領主だった註18-2

(4) 文化の形成

鯖田豊之氏は、ヨーロッパと日本の文化の形成過程はとてもよく似ている、という。

{ ヨーロッパ文化の形成過程は、不思議なほど日本文化の形成過程と似ている。日本人は、もともともっていたやまと文化に中国古典文化と仏教文化を受け入れながら、独自の日本文化を作りあげた。これに対してヨーロッパは、ゲルマン文化にギリシャ古典文化とキリスト教文化を取り込んでヨーロッパ文化を形成した。日本もヨーロッパも外部の進んだ文化を取り込むとき、まだ文字は持っていなかった。
ちがうのは、日本人は日本列島に腰を据えたままで外の文化を吸収していったのに、ゲルマン人たちは自ら移動したり、外部からの侵入を受け入れて多様な人種の血を吸収したことである。}(鯖田「…ヨーロッパ中世」,Ps296-<要約>)

確かに、土着文化、近隣の先進文化、宗教文化の3つを構成要素として独自の文化を形成したのは、世界中で日本とヨーロッパしかないかもしれない。しかし、鯖田氏が指摘しているように先進文化の吸収方法が異なったことが、その後、大きな差になったともいえそうだ。例えば、3大発明と言われている羅針盤、活版印刷、火薬、これらはみな中国が宋代(11~13世紀)に発明したもので、日本にも入ってきたが消化しきれなかった。しかし、ヨーロッパはこれらの技術を活用して大航海時代を開き、近代化への道を突き進んだ。

とはいえ、{ 1500年頃までに、中世ヨーロッパも日本も、多くの点で世界のどの文明と比べてもひけをとらぬ文化水準や文明のスタイルに到達した。}(W・H・マクニール「世界史(上)」,P396)

(5) 宗教

ヨーロッパではキリスト教が広く浸透し、文化や政治に大きな影響を与えた。王や皇帝はその正統性を宗教的権威に求め、教会側は財政と軍事の支援を求めた。聖俗はときに協力し、ときに競い合いながら民衆を支配した。

日本において仏教は文化的な影響はあったが、政治への影響はヨーロッパほど大きくはなかった。将軍など日本の支配者の正統性を保証したのは天皇だったが、江戸時代以前の庶民は少し違った見方をしていた、という説註18-3もある。

(6) 戦争

中世までのヨーロッパの主な戦争にはつぎの3つのタイプがあった。

日本において、①は平安時代末期など時代の変わり目や戦国時代にあったが、②は飛鳥時代の白村江の戦い、鎌倉時代の蒙古襲来、秀吉の朝鮮出兵くらいで、③はない。
地域の面積や国の数が違うので単純な比較はできないが、庶民が戦争によって被った直接/間接的な被害はヨーロッパの方がかなり大きかったのではないだろうか。

日本は、単一民族国家だったこともあって支配層と被支配層の間にある種の信頼関係が醸成されており、領主は民衆を「殺さず、生かさず」で集団の一員として扱った。しかし、身分制度がはっきりしていたヨーロッパでは、民衆は冷徹な扱いをされたと思われる。


1.8節の註釈

註18-1 日本における稲作の普及

日本に稲作が伝来したのはおよそ3500年前という説がある。弥生時代前期(紀元前3世紀~)には本州全土に伝搬したと考えられている。古墳時代(3世紀~7世紀)には農耕具が鉄製になり、稲の生産性を向上させた。(Wikipedia「稲作」)

弥生時代から奈良時代にかけての人口規模の拡大は、稲作を中心とした農業の普及がもたらした食糧生産の増大を背景としている。(縄田康光「歴史的に見た日本の人口と家族」,『立法と調査2006.10 No.260』,P90)

註18-2 騎士と武士のちがい

{ 武士は自分が治める農村に強い愛着をもち、そこに住む農民たちとの絆を最も重んじた。… 中世武士の多くは戦闘の専門家ではなく、自ら農業経営を行う小領主であった。これに対して、西洋中世の騎士は、専門の戦闘集団であった。かれらは自らを特権身分と位置づけて、自分の支配下の農民を差別した。}(武光誠「一冊でつかむ日本中世史」、P15-P16)

註18-3 天皇の権威

{ 秀吉は土民の出ですから、信長以上に、天皇の権威をタテにすることが必要だった。… ところが秀吉の宣伝力をもってしても、天皇さんは偉いのだ、将軍よりはるかに偉い人だということを、世間は納得しなかった。将軍と天皇との上下を世間は考えているわけではなく、天皇は地上の権力とは別の方だ。地下秩序の中心だと思っていますから、そういう人を秀吉は擁しているけれども、さァどうかな…というのが世間の見方でしょう。}(司馬遼太郎「手掘り日本史」、P182)