日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.7 ロシア / 1.7.2 タタールのくびきとモスクワ

1.7.2 タタールのくびきとモスクワ

 図表1.32(再掲) ロシアの成立

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(1) モンゴル人来襲(1237年)註172-1

チンギス・カン(1162生~1227没)が1206年に建国したモンゴル帝国(首都: カラコルム※1)は、1211年から中国東北部や華北に遠征し、1218年からの西方への遠征では中央アジアからイラン北部あたりまでを制圧した。ロシアにはじめてモンゴル軍が姿を見せたのは1223年だったが、本格的な遠征は1237年にチンギス・カンの孫バトゥの率いる西征軍によって行われた。モンゴル軍は1237年末にロシア東部のリャザン公国を攻め落とし、翌38年2月には北部のウラジーミル大公国の首都を陥落させた後、北東部各地を荒らしまわった。1240年には南部キエフを攻略し、同年後半からはポーランドやハンガリーで、ポーランド・ハンガリー・ドイツ騎士団・テンプル騎士団などと戦って勝利をおさめたが、1242年アドリア海に達したあと、本国の2代目皇帝オゴタイ死去の知らせをうけて兵をひいた。

※1 カラコルム 現在のモンゴル国のほぼ中央部にある都市。

(2) タタールのくびき(13世紀~15世紀)

タタールは、中国人が"韃靼(だったん)"とよんだ遊牧部族のことをいうが、ロシアではモンゴル人だけでなく、モンゴル人の支配下にあったトルコ系諸族をもさすようになった。ヨーロッパでは、「地獄」を意味するギリシャ語"タルタロス"との連想から広く用いられた註172-2。"くびき(軛)"は、自由を束縛するもの、という意味である。

モンゴル人の支配註172-3

兵をひいたチンギス・カンの孫バトゥは、本国には戻らずヴォルガ川下流のサライ・バトゥ※2を首都としてキプチャク・カン国(金帳汗国)を設立して、東は現在のカザフスタンから西は黒海北部・ドナウ川東岸にいたる広大な地域を領土としたが、ロシアは間接支配した。

間接支配とは徴税と徴兵による支配のことだが、モンゴル人は役人を派遣して戸口調査を行って税額を定め、中央アジアのイスラム教徒などに集めさせた。14世紀になってカン(モンゴルの君主)の権力が衰えると、徴税はロシア人諸公が担うようになる。

住民の宗教や慣習は維持されたが、ロシア人諸公の任免はカンの手に握られており、税の徴収が確実に行われるよう住民を管理することが求められた。彼らは、カンのいるサライのみならず本国のカラコルムまで、たびたび訪問することになった。

※2 サライ ロシアのカスピ海北西にある都市。

 図表1.34 モンゴル帝国とロシア

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出典)「ロシアの歴史」,P31をもとに作成。

(3) モスクワの台頭(14世紀~)註172-4

13世紀までモスクワは、ウラジーミル大公国の南西部に位置する小さな町にすぎなかった。1304年ウラジーミル大公アンドレイが死ぬと、モスクワ公とトヴェーリ公のあいだで大公位をめぐる激烈な争いがキプチャク・カン国のカンを巻き込んで始まった。両者の争いは軍事衝突のみならず、カンの宮廷における陰謀合戦――モスクワ公は徴税額の増額を約束、トヴェーリ公はモスクワ公に反タタールの動きありと訴えるなど――を交えての陰惨なものになった。最終的に決着したのは1327年で、モスクワが勝利した。以降、ウラジーミル大公はほぼモスクワ公が世襲するようになり、モスクワ公自体がモスクワ大公と呼ばれて、カンのもとでロシア全体を支配するようになった。

{ モスクワの勝因は、… 地理的、経済的条件などさまざまな要因が指摘されている。… だがそれだけでは十分に説明できない。… モンゴル支配という状況下で、カンとの間に緊密な関係を打ち立て、それを自国の発展に結びつけたモスクワ諸公の現実的で巧みな政治的手腕といったものが浮かび上がってくるのである。}(栗生沢「ロシアの歴史」,P36)

(4)モスクワの危機とクリコヴォの戦い(1380年)註172-5

モスクワ公国はイヴァン1世(在位1325-40)の時代にその後の発展の基盤が固まった。彼は、キプチャク・カンとの間に良好な関係を築き、キプチャク・カン国の徴税人となってモスクワの経済力を高めた。

しかし、1359年にモスクワ大公に即位したドミートリーはわずか9歳で、トヴェーリなどから大公位を要求されるが、モスクワ貴族層や府主教※3の支持と団結でこの危機を乗り切った。

一方、キプチャク・カン国では内紛が起こり、1374年頃にモスクワは貢納の支払いを停止した。これを懲罰すべくカン国は大軍を起こし、1380年ドン川のほとりクリコヴォで両軍はぶつかった。戦闘は終日続き、モスクワはかろうじて勝利した。

モスクワは2年後、体制を立て直したキプチャク・カン国の軍に敗れ、再びカン国の支配に屈することになるが、クリコヴォの勝利はモスクワの威信を高め、ロシアの独立闘争と国家統一の指導的地位を約束することになる。なお、ロシアがキプチャク・カン国の支配から独立するのは、1480年まで待たねばならない。

※3 府主教 キリスト教正教の聖職者の位階のひとつで、カトリックの管区大司教又は首都大司教に相当する。ロシアを含むスラヴ系正教の場合、総主教-府主教-大主教―主教の序列になる。

(5) 大公位継承の内戦(1425-53年)註172-6

モスクワ大公は、クリコヴォの戦いを制したドミートリ-(在位1359-89)のあと、ヴァシーリー1世(在位1389-1425)は、周辺の小公国をモスクワ大公国に編入し統一を進めた。その後のヴァシーリー2世(在位1425-62年)は9歳で即位したが、このとき叔父のガーリチ公ユーリーも大公位へ名乗りをあげた。ロシアの公位継承は、古くは兄から弟へと行われ、やがて父から子への継承も行われるようになったが、これまで継承者は弟か子のいずれかしかいなかったので、継承争いはなかった。弟と子が同時に存在したのはこのときが初めてであった。

双方を支持する貴族を交えた抗争は熾烈を極めた。最終的にはヴァシーリー2世の勝利で終わったが、度重なる戦争に加えて凶作やペストの流行も重なって人口は激減し国土は荒廃した。

(6) ロシア正教会の成立(1448年)註172-7

モンゴルは13世紀後半からイスラムに傾斜していくが、他の宗教を抑圧することはなく、むしろ他宗教の神々からも利益を期待できると考えていた。教会はモンゴルのカンのために祈らなければならなかったが、教会は無税だったし、土地や財産も保護されたので、この時代に正教会は大きな発展を遂げた。

前述のように13世紀ごろから政治の中心はキエフから北東部に移ったが、教会の中心もそれとともに北東部に移った。最初はトヴェーリ公を支援したが、14世紀初頭のモスクワ公とトヴェーリ公の公位継承争いの際にモスクワ支持に変った。

ロシア正教会は、もともとコンスタンティノープル総主教の管轄下にあった。しかし、15世紀になってビザンツ帝国がオスマントルコの脅威にさらされるようになると、1438-39年のフィレンツェ公会議でローマ・コンスタンティノープル両教会の合同――事実上のローマ・カトリック教会への吸収――が決定したが、ロシアは反発して1448年独自の府主教を選出した。これにより、ロシアの教会は事実上、コンスタンティノープルから独立した教会となった。なお、ビザンツ帝国は1453年にオスマン帝国により滅ぼされている。

(7) ロシアの統一(~1485年)註172-8

大公位継承の内戦を克服したロシアは、ヴァシーリー2世のあとを継いだイヴァン3世(在位1462-1505)が、侵略、婚姻、相続といった様々な手段を使ってモスクワ大公国の支配領域を広げていき、治世の終りまでにはロシアのほとんどの公国を併合し、ロシアの統一がほぼ完了した。

図表1.35 モスクワ大公国の領土拡大

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出典)「ロシアの歴史」,P41をもとに作成。

「タタールのくびき」の終焉(1480年)註172-9

キプチャク・カン国は15世紀中頃、いくつかの国に分裂した。領土統一で自信をもったイヴァン3世は,1476年ごろには貢税の支払いを停止していた。これに対してモンゴル側は1480年、約10万の大軍をロシアに送り、イヴァン3世も大軍を動員して、両者はウグラ河畔(モスクワ南西)で対峙したが、決定的な戦闘にはいたらないまま、モンゴル軍は兵をひいた。

{ タタールのロシア支配はゆるみ始めていたし、逆にモスクワはこのあともタタールに時に応じてさまざまな支払いを行ったので、これをもって、「タタールのくびき」が終ったというのも正しくないが、この年がロシア・タタ-ル関係に劇的な変化のあったことを示す象徴的な年であったことは疑いない。}(和田編「ロシア史」,P104)


1.7.2項の主要参考文献

1.7.2項の註釈

註172-1 モンゴル人来襲

和田編「ロシア史」,P72-P73 Wikipedia「モンゴルのポーランド侵攻」

(補足) モンゴルが日本に来襲したのは、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)である。なお、中国本土にモンゴル政権の「元朝」が成立したのは、1271年で1368年まで続いた。

註172-2 タタールの由来

栗生沢「ロシアの歴史」,P32  コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典〕

註172-3 モンゴル人の支配

栗生沢「ロシアの歴史」,P32-P33

{ キプチャク・カン国は最初モンゴル帝国の一部を構成していた。… このことはロシア諸公がそれぞれの公国の支配権を認めてもらうために、最初はサライは言うに及ばず、遠路はるばるモンゴル高原のカラコルムにまで出かけなければならなかったことにもあらわれている。… 13世紀の後半にサライがカラコルムから独立すると、ロシア諸公がモンゴル高原まで出かけることはなくなるが、キプチャク・カンのもとへは15世紀前半にいたるまで伺候し続ける。その間カン国を訪れたロシアの公は130人以上にのぼり、多くの公は複数回 … 行った。}(栗生沢「ロシアの歴史」,P32-P33))

註172-4 モスクワの台頭

栗生沢「ロシアの歴史」,P34-P36

モスクワ公とトヴェーリ公との争いの経緯は次のとおりである。(和田編「ロシア史」,P86-P88<要約>)

註172-5 モスクワの危機とクリコヴォの戦い

栗生沢「ロシアの歴史」,P36-P38  和田編「ロシア史」,P94-P97

{ 戦いが長引いた原因は双方の当事者が大公位にたいし、ほぼ同等の権利と資格を有していたことにあった。… 諸公国も、貴族、士族、教会また町民も一貫した態度をとりかねたと考える。分裂するタタールもどちらかを一貫して支持するということはなかった。}(和田編「ロシア史」,P97)

註172-6 大公位継承の内戦

栗生沢「ロシアの歴史」,P37-P38 和田編「ロシア史」,P95-P97

註172-7 ロシア正教会の成立

栗生沢「ロシアの歴史」,P38-P39 和田編「ロシア史」,P97-P101

註172-8 ロシアの統一

栗生沢「ロシアの歴史」,P40  和田編「ロシア史」,P101-P103

註172-9 「タタールのくびき」の終焉

和田編「ロシア史」,P103-P104