日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.1 大航海時代 / 2.1.1 大航海時代前夜

ship第2章 近世ヨーロッパ

ヨーロッパ史ではフランス革命(1789-99年)を区切りとして、それ以前で16世紀以降をアンシャン・レジーム(旧体制)と呼ぶが、それはまた「初期近代」又は「近世」とも呼ばれる。第2章はこの近世ヨーロッパを対象とする。

ヨーロッパの中世は、古代ローマの地中海世界からヨーロッパ世界を確立する時期だったが、近世は世界のリーダーとして君臨する近代に向けての移行期とみることができる。近代の特徴はグローバルな資本主義と国民国家の形成とされているが、前者は大航海時代がその端緒となり、後者は宗教改革が背中を押したのである。

フランス近代史が専門の柴田三千雄氏は次のように言う。

{ 16世紀以降、ヨーロッパ地域世界は、東アジアあるいはイスラム地域世界にくらべて、経済・政治・文化の面で顕著な発展をとげ、今日に至る欧米覇権のプロセスがここにはじまる。… なぜ、近代に入ると、ヨーロッパ地域世界の顕著な発展がはじまるのか、… 私は16世紀に開始する「世界の一体化」を重視したい。… 東アジアでは15・16世紀に活発な海上進出の時期があり、アジア商人による広範な交易網が成立していた。ヨーロッパ人の進出とは、この既存の東アジア交易網に彼らが直接に参入してきたことなのである。… しかし、ヨーロッパ諸国がこの後ますます海外活動を拡大し続けるのに対して、日本・中国は渡航や貿易を制限・禁止する「海禁」に転じた。… この東西のコントラストは国内秩序の再建を優先する「内向」的な東アジア国家と、海外活動の拡大を志向する「外向」的なヨーロッパ国家との相互規定関係を示すものに他ならない。」(柴田「フランス史10講」,P69-70)

2.1 大航海時代

「大航海時代」という名称は、それまでの「地理上の発見」とか「大発見時代」といったヨーロッパ人の立場からの見方に対して、歴史家の増田義郎氏が新しい視角を持ちたい、と名付けたものである。(Wikipedia「大航海時代」) 増田氏によれば、大航海時代とは、インド洋と大西洋が直接結ばれて世界の通商圏が飛躍的に拡大し、各地域の市場に飛躍的な活性を与えた時代であり、その始まりは1415年のポルトガルによるセウタ(北アフリカ)攻略であり、終りは1648年のロシア人探検家セミョン・デジニョフが、のちにベーリング海峡と呼ばれるユーラシア大陸の最北東端に到達したときだという。(増田「大航海時代」,P100・P102)

図表2.1 大航海時代

Efg201.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

2.1.1 大航海時代前夜

(1) 大航海時代以前の東西交易註211-1

アジアとヨーロッパの交易は、「シルク・ロード」によって紀元前から行われていたが、紀元2世紀頃には、東アジアからインドを経てペルシャ湾や紅海に至る航路が開けていた。主たる商品は、東から西へは絹製品、茶、陶磁器、香辛料などだが、西から東へはワイン、ガラス製品、奴隷で、明らかに西側の輸入超過であった。

10-13世紀には、中国"宋"の経済成長によって、インド洋=南シナ海貿易は拡大した。ちょうどその頃、地中海では十字軍により、ジェノヴァやヴェネツィアといった都市国家が東地中海のイスラム国家を経由した東方貿易を行い、莫大な利益をあげた。

13世紀になると、チンギス・カンのモンゴル帝国が興り、東アジアから中央・西アジアまでを支配する広大な帝国が築かれた。ヨーロッパは幸運にも侵略を免れ、ローマ教皇はモンゴルにキリスト教を布教させるべく使者を派遣し、イタリア商人もモンゴルを訪問した。その中に、「東方見聞録」を遺したマルコ・ポーロがいた。彼らが伝える東の物産や文明はヨーロッパ人のロマンと欲望をかきたて、大航海時代への布石となった。

(2) 鄭和の大航海註211-2

コロンブスがアメリカに到達するより90年近く前、中国の明朝は鄭和(ていわ)をリーダとする大艦隊をインド洋からペルシァ湾、紅海、東アフリカ沿岸に派遣した。

明の海禁政策

中国は、宋や元の時代には自由な国際貿易が行われていたが、1368年に明が成立すると一転して海外との交流を禁止する海禁政策に転じた。同時に明は漢や唐の時代に行われていた冊封(さくほう)体制を復活させた。冊封体制とは中国の周辺諸国の君主に中国皇帝への臣従を誓わせる代わりに、中国はその国を保護することを保証するもので、臣従を誓った国だけに貿易を許した。一種の鎖国政策であり、貿易で繁栄していた華南地域に大打撃を与え、それに対する反発がいわゆる倭寇(わこう)註211-3になった。

永楽帝の南方征圧策と鄭和艦隊

明朝の永楽帝(在位1402-24)は、対外進出を積極的に行い、モンゴルへの親征、ベトナムの征圧などを行った。そして、強力な軍事力を持つ艦隊を南方に派遣して威圧し、冊封体制を拡大しようとした。この艦隊を指揮したのが宦官の鄭和だった。鄭和の艦隊は62隻の大型船からなり、最大のものは、長さ150m、幅62mもあり、総トン数8000tにもなる巨大なもので、乗組員総数は2万7800人だったという。コロンブスやマゼランが使った船は100t級の小さな船だったから、この大きさは、中国人特有の「白髪三千丈」的な表現があったとしても、けた違いに大きなものだといえよう。

鄭和艦隊の成果

鄭和の遠征は、1405年の第1回から1433年まで7回にわたって行われた。マラッカ海峡を経てインド西岸に達し、時によってはさらに先のペルシャ湾のホルムズ、紅海のジッダやメッカ、東アフリカ沿岸まで遠征している。船には中国の絹製品などが積まれており、これらを各地で販売し、各地の特産品を持ち帰った。7回の遠征の結果、国王自らが中国を訪問した国は4、使者を派遣した国は34であり、一定の成果をあげたといってよい。
永楽帝の次の宣徳帝は7回目の航海を命じたが、その後は明朝の財政が悪化したために航海は中止された。

ヨーロッパの"大航海"との違い

中国が"大航海"で世界のトップを走りながら、中断してしまったのは、ヨーロッパの"大航海"とは目的も状況も異なっていたからだろう。上述のように中国の目的は、南海諸国を臣従させることにあったが、ヨーロッパは海外の富の獲得が目的だった。また、鄭和が航海したインド洋やアラビア海は既知の世界であり、未知の世界を開拓し、新しいものを発見しようという航海ではなかった。中国にとって、大艦隊の派遣はコスト・パフォーマンスの悪い事業だったのである。

(3) 15-16世紀頃の世界地図

ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて異端審問を受けたのは17世紀初頭だが、地球が丸い、ということは15世紀のヨーロッパの知識人のあいだでは常識になっていた。しかし、ヨーロッパ周辺以外の地理については、推測するしかなかった。

プトレマイオスの地図

プトレマイオスは2世紀頃のギリシャの地理・天文学者である。彼の世界地理の概念にしたがって15世紀なかばに復元された世界図では、アフリカ南端とアジアは陸橋でつながっており、インド洋は内海になっている。喜望峰が「発見」されるまでヨーロッパ人の頭にあった世界はこの地図のイメージだった。

 図表2.3 プトレマイオスの地図

Efg203.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

出典)Wikipedia「プトレマイオス図」、森村「大航海時代」,P2336、増田「図説 大航海時代」,P64-P65などから作成。

マルテルスの地図

1487年に喜望峰が「発見」され、太平洋とインド洋がつながっていることが確認されると、ドイツの地理学者ヘンリックス・マルテルスは下図のような世界地図を作った。コロンブスやバスコ・ダ・ガマがイメージしていた世界地理は、この地図であったと思われる。

 図表2.4 マルテルスの地図

Efg204.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

出典)Wikipedia「初期の世界地図」、森村「大航海時代」,Ps2336などから作成。

ヴァルトゼー・ミューラーの地図

コロンブスの第2・3・4回のアメリカへの航海に同行したフィレンツェ人アメリゴ・ヴェスプッチは、コロンブスが到達したのは新たな大陸である、と主張した。ドイツ人マルティン・ヴァルトゼーミュラーはアメリゴの主張に賛同し、1507年に発行された「世界誌入門」で { 伝統的な世界図の西端に細長い大陸を描いてその南の部分に"アメリカ"という文字を加え、「新世界」を初めて認識したアメリゴにちなんで、それをアメリカと名付けよう、と提案した。}(増田「大航海時代」,P72)

 図表2.5 ヴァルトゼー・ミューラーの地図

Efg205.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

出典)Wikipedia「ヴァルトゼーミュラーの地図」、森村「大航海時代」,Ps2336などから作成。

アメリカ大陸の存在が実際に確認されるのは、マゼランの世界一周が成功する1520年であり、それまでコロンブスを含めて多くの人は「新大陸」の存在に疑念をもっていた。

なお、現在我々が見ているような世界地図ができあがるのは、正確な経度が測定できるクロノメーターが1763年に開発され、これを使って18世紀末にオーストラリア、南極海、北極海などを探検したジェームズ・クックの成果まで待たねばならない。


コラム マルコ・ポーロは中国に行った?

マルコ・ポーロは、1254年にヴェネツィアに生まれ、叔父と父に従って、1271年17歳のときにヴェネツィアを出発し、陸路で元朝の首都大都(現在の北京)に赴いてフビライ汗に拝謁した。マルコは気に入られて17年間さまざまな仕事をしたが、1290年中国を離れ、1295年にヴェネツィアに帰還した。

「東方見聞録」はマルコがじかに書いたものではなく、帰国後、ジェノヴァとヴェネツィアの戦争に巻き込まれて捕虜になったとき、同じ獄中にいたピサ人のルスティケーロに口述し、筆記させたとされている。ルスティケーロは当時のイタリアで有名なフィクショ・ライターであり、筆記にあたり作家的な手が加えられた可能性は否定できない。文章は事実を淡々と述べるものではなく、明らかに文学的様式を意識した構成になっている。

内容にも、いくつもの不審な点がある。万里の長城、茶を飲む習慣や纏足(てんそく)、中国特産品の絹織物や陶磁器、書や絵画などについてまったくふれていない。なにより不可思議なのは、マルコが17年間も宮廷にいて重要な任務を遂行した、と言っているのに、彼の名は中国の公式文書にはまったく出てこないし、揚州(江蘇省)で3年間統治したと明言しているのに、中国側の記録には何も記載がない。

こうした事実から、マルコの記録の信ぴょう性には疑問が投げかけられ、彼の中国滞在自体を疑問視する人々すらも跡を絶たないのである。

(増田「大航海時代」,P37-P40<要約>)

以下は、東方見聞録における日本に関する記述部分である。

{ チパング(日本国)は、東の方、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、独自の国王を頂いている。この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。 (中略) この国の国王の一大宮殿は、それこそ純金づくめでできているのですぞ。我々ヨーロッパ人が家屋や教会堂の屋根を鉛板でふくように、この宮殿の屋根はすべて純金でふかれている。従って、その値打ちはとても評価できるようなものではない}(森村「大航海時代」,Ps482-)


2.1.1項の主要参考文献

2.1.1項の註釈

註211-1 大航海時代以前の東西交易

増田「大航海時代」,P14-P37 森村「大航海時代」,Ps293-

註211-2 鄭和の大航海

増田「大航海時代」,P40-P44

鄭和の艦隊で最大の船は長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、マスト9本だという。(Wikipedia「鄭和」) ちなみに、青函連絡船の摩周丸(1965年竣工)は、現在も函館に展示されているが、その全長は132m、幅17.9m、総トン数8327トン、旅客定員1200名、となっている。

東洋史が専門の岡本隆司氏は、次のように述べている。

{ 目的は朝貢の催促でした。たくさんの国が海外からやってきて、自らをリスペクトして欲しいというのが明朝の本音で、それによって大いに勢威を張れるというわけです。しかし諸外国にとっては、メリットがなければ行く意味がありません。明朝は政策的に国を閉ざし、民間による船の出入りと商取引を禁じていたので、なおさらです。だから、明朝政府として自ら船を仕立て、いわば"営業"に出かけたわけです。
また造船や航海の技術については、ひとえにモンゴル帝国時代の遺産に頼っていました。当時はムスリムの勢力や技術が残っていましたし、鄭和もムスリムにほかなりません。… この遠征事業は、それを活かしただけ、明朝が独自に技術を向上させたわけではありません。}(岡本隆司「世界史とつなげて学ぶ 中国全史」,P169)

註211-3 倭寇(わこう)

倭寇は14世紀前後の前期倭寇と後期倭寇(16世紀)の2つに分けられ、前期は日本人が主体だったが、後期は中国人が主体だった。(Wikipedia「倭寇」)

{ 1371年の海禁令から,1567年明朝がふたたび、しかるべき規制と官の許認可のもとに、中国の船が海外へ航海することを認めたときまで、約2世紀にわたり、中国の船乗りや商人は、それまでかれらがやってきたとおりのなりわいを続けるためには、法の網をくぐるしかなかった。…
文官たちはかれらを「日本人の海賊」と呼ぶことで、かれらを実効的に征圧できないことの言い訳にした。たしかに、少数の日本人が戦闘員として海賊団に加わっていたけれども、15世紀と16世紀に中国海岸の沖合で非合法の海上活動にたずさわっていた船乗りは、大多数が民族的には中国人であった。}(W・H・マクニール「戦争の世界史(上)」,P109)