日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.7 ロシア / 1.7.1 キエフ・ルーシ

1.7 ロシア

ロシアが初めて国家らしきものを形成したのは、862年頃モスクワの北西およそ500kmにあるノヴゴロドという町だった。建国にあたっては、当時西欧にも出没していたノルマン人(ヴァイキング)が関係したことは間違いない、とみられている。まもなく本拠地を南のキエフに移し、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)と呼ばれた。

13世紀になるとアジアからモンゴル帝国が攻め込んできて、その支配下におかれた。モンゴルによる支配は200年以上続いたが、徴税と徴兵を主とした間接支配であり、宗教や慣習は維持された。モンゴル支配下で、キエフ・ルーシの徴税を一手に請け負ったモスクワ公国が力をつけ、しだいに支配地域を拡大していった。やがてモンゴルは内部分裂から衰え、ロシアは15世紀後半にはほぼその支配から解放された。

 図表1.32 ロシアの成立

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1.7.1 キエフ・ルーシ

(1) キエフ大公国の建国(9世紀~13世紀)

ルーシ(英: Rus')は、ロシアの古名であり、15世紀ごろまでロシア人自身も自らをルーシと呼んでいた。ルース(Rus)はギリシャ語で「ノルマン人」をさす言葉であり、「ロシア」とは語源的にいえば、「ノルマン人の国」ということになる。

本来、中世ロシアはルーシと呼ぶべきかもしれないが、このレポートでは、わかりやすくするために、引用文中にある場合や固有名詞として使う場合以外はすべて"ロシア"を使う。

建国の「伝説」(862年頃)註171-1

12世紀の初めにキエフ※1の修道士によって編纂されたとみられている「過ぎし歳月の物語(原初年代記)」には、次のように書かれているという。

{ 北のイリメニ湖畔の町ノヴゴロド※2のスラヴ人はヴァリャーグ【ヴァイキング】と戦って、彼らを追い出したが、自分たちの内部の対立を解決できなかった。そこで、自分たちを統治して、すべてのことを公正に裁いてくれる公(クニャージ)をさがそうということになった。代表はヴァリャーグ、ルース人【ノルマン人】のもとに赴き、つぎのようにいった。「われらの国は大きくて豊かだ。しかし、秩序がない。きたりて、公として君臨し、我らを統治せよ」。この言葉を聞いたリューリクが兄弟たちとともにスラヴ人の地へくることに同意した。…}(和田編「ロシア史」,P4)

こうしてロシアの祖となるキエフ公国は建国された。いかにも伝説めいた物語ではあるが、9世紀にノルマン人が西欧などに侵入し、ヴァイキングとして略奪や交易を行ったことは事実であり、ロシアの源流とされるキエフ大公国の建国に何らかのかたちでノルマン人が関係したことはほぼ間違いない、とみられている。この当時、バルト海の東端フィンランド湾から川づたいに黒海までぬける航路があり、ノヴゴロドやキエフはそのルート上にあった。

※1 キエフ 現在のウクライナの首都。

※2 ノヴゴロド モスクワの北西約450kmにある街。

(2) キリスト教への改宗(988年頃)註171-2

キエフ大公国はノヴゴロドで建国後、まもなく本拠地をキエフに移し、周辺の部族を服属させながら領土を拡大していった。国家の統治形態について詳細はわかっていないが、貢税の徴収を中心とした単純な方法だったようだ。

前述の「過ぎし歳月の物語」によれば、キエフ大公国のウラジーミル大公(在位980頃-1015)は、4つの宗教――イスラム教、カトリック、ユダヤ教、(キリスト教)正教――からそれぞれの宗教についてのプレゼンテーションを受けた。彼はそれぞれの国に使節団を派遣して各宗教について調べさせ、その結果ビザンツ帝国から提案のあった正教を選択した。イスラム教を選択しなかった理由を、「一夫多妻制は好ましく思うが、割礼の慣習や、豚肉を食さず、飲酒を禁止することはまったく気に入らない」、といったという。

「…物語」の著者は正教の修道士だから真実のほどは疑わしいが、当時のロシアがイスラムを含むさまざまな宗教を奉じる国に囲まれていたことがわかる。この頃のロシアはビザンツ帝国を模範とすべき国として関係強化をはかっており、ウラジーミルはビザンツ皇帝の妹を妻として迎える予定になっていたので、正教を選択するのは必然であった。

(3) 最盛期(11世紀)註171-3

ウラジーミル大公とその子ヤロスラフ(在位1019-54)の時代がキエフ大公国の最盛期で、西は現在のベラルーシからウクライナ北部、東はモスクワの東までの広大な領土を支配した。また、ヤロスラフの妻はスウェーデン王女、息子たちはドイツやビザンツ帝国の貴族の女性などと結婚、娘たちはフランスやハンガリーの王などに嫁いで、ヨーロッパ諸国との姻戚関係を強化した。

 図表1.33 11世紀ごろのキエフ・ルーシ

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(4) 諸公分立の時代(12~13世紀)註171-4

ヤロスラフの死後キエフ大公国は、息子たちが分割して相続し、しばらくのあいだはキエフ大公を諸公の第一人者として統一が維持されたが、12世紀になると南部の遊牧民族からの脅威や、大公の相続に関する内紛もあり、しだいにいくつかの地域ごとに分立していった。そのうち、13世紀になって有力になってくるのは、北東ロシアのウラジーミル・スーズダリ地方(モスクワとその北方地域)であった。


1.7.1項の主要参考文献

1.7.1項の註釈

註171-1 建国の「伝説」

栗生沢「ロシアの歴史」,P18-P19  和田編「ロシア史」,P25

註171-2 キリスト教への改宗

栗生沢「ロシアの歴史」,P21-P22

{ 当時のキエフ・ルーシを取りまく周辺国家の状況をみると、ブルガリアでは … ビザンツから受容すべきか、フランクからかと迷った末、865年にすでにビザンツからキリスト教を受容しており、ポーランドでも962年に … ローマから洗礼を受けていた。… スカンディナヴィアでも首長がキリスト教に傾きつつあり、彼らがキリスト教徒となるのは時間の問題であった。キエフ・ルーシにおいても、ビザンツとの交易を通して、キリスト教徒となった者が存在していた … }(和田編「ロシア史」,P44-P45」)

註171-3 (キエフ・ルーシの)最盛期

栗生沢「ロシアの歴史」,P23-P25

註171-4 諸公分立の時代

栗生沢「ロシアの歴史」,P25-P26

{ たしかに12世紀のキエフ社会は政治的には分立状態を迎えるが、むしろそれは、キエフ以外の諸地方・地域が発展したからであり、社会全体としては、多元的、多中心的な性格をおび始めたととらえられるべきであろう。}(和田編「ロシア史」,P65)