日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.6 イベリア半島 / 1.6.2 キリスト教王国

1.6.2 キリスト教王国

 図表1.28(再掲) イベリア半島のレコンキスタ

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(1) 3宗教の共存註162-1

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という3つの宗教が、これだけ広い地域で長期間にわたって混在したケースというのは世界の歴史でもほかに例をみないのではないだろうか。イスラム教/キリスト教の両勢力ともに他の宗教を信仰することを容認したが、実態はどうだったのか、中世スペイン史の研究者黒田祐我氏の見方を紹介する。

一般的な解釈

※1 アンダルス イベリア半島におけるイスラム教徒による支配地域を指す。

※2 ムデハル キリスト教徒に再征服されイベリア半島に残留をゆるされたイスラム教徒。

黒田氏の見方

下記、①~③は上記①~③に対応する。

総じて、アンダルスにおいてもキリスト教諸国においても異なる信仰を保持する民と社会が併存していたという意味では、ほぼ常に「共存」していたといえる。異なる信仰に対する蔑視と社会的差別は常に存在していたが、それが相手の文化を否定したり敵意を持って争いに直結したわけではない。

(2) アラゴン連合王国の戦略註162-2

カスティーリャ王国は、レコンキスタを推進することによってイベリア半島の領土を拡大していったが、アラゴン連合王国は地中海に進出しようとした。

11世紀初め、ナバーラ王国の分割によりイベリア半島北部ピレネー山脈のふもとでアラゴン王国は発足し、12世紀前半にカタルーニャ※3を支配していたバルセロナ家と連合を組んで南部へ進出、1238年にはバレンシアを征服した。これ以降、アラゴン連合王国は地中海に目を向け、サルディーニャ島、シチリア島、そしてイタリア半島南部のナポリ王国などに進出していくが、それはフランスやローマ教皇の反発を招く結果となった。

1479年、アラゴン連合国王のフェルナンド2世とカスティーリャ女王のイザベルが結婚して事実上のスペイン王国が成立した。15世紀末の時点でイベリア半島の人口比は、カスティーリャ約64%に対して、アラゴンは約14%、ナバーラは約2%であり、圧倒的にカスティーリャが優勢だった。

(参考)スペインの人口は、1300年7.5百万人、1400年5.5百万人、1500年6.5百万人と推定されている。(出典: Wikipedia「歴史上の推定地域人口」) なお、2020年の人口は約47百万人である。(出典:JETRO)

※3 カタルーニャ イベリア半島北東部。バルセロナがその中心都市。9世紀にフランク王国の辺境伯領となったが、次第にフランク王国との関係は疎遠になっていった。

(3) ポルトガルの独立(1143年)註162-3

ポルトガルはもともと、カスティーリャ王国西部の一領主であった。レコンキスタにおいてイスラム勢力と戦って勢力範囲を広げたポルトガルは、1143年カスティーリャ王への臣従を条件に王を称することが認められた。14世紀末にはカステイーリャの攻勢を受けたが、しりぞけて独立を維持、15世紀に入るとエンリケ航海王子などが登場し、海外進出が始まった。


コラム 3宗教共存の成果?

中世初期に国土の大半をイスラム勢力に占拠されたスペインは、11世紀頃からフランス、イングランド、ドイツなどの西欧諸国との関係を強化し、「西欧化」を進める。ローマ教皇への服従や聖地サンティアゴ※4への巡礼の受け入れ、フランスやイタリアなどの王家との婚姻政策、交易の促進などが行われ、西欧社会の一員になっていった。しかし、西欧と決定的に違ったのは異教徒認識である。

12世紀以降、西欧社会はユダヤ人や異端者、あるいはハンセン病患者をはじめとする弱者を排斥し、純化することで支配の安定を図る動きが強まった。しかし、イベリア半島では理不尽な虐殺や迫害は少なかった、という。

例えば、十字軍兵士として聖地エルサレムに向かう途上の軍勢は、1147年のリスボン攻略時にポルトガル軍と共闘したが、ケルンとフランドルの者らは異教徒との降伏協定に納得せず、入城時に彼らを襲い、イスラムに改宗せずにキリスト教信仰を保っていた聖職者を殺害してしまった。また、1212年の「決戦」に参加したフランス系十字軍兵士はユダヤ人を虐殺しようとした。それに対して、アンダルスとの戦争を経験しながらも、街角でイスラム教徒に出会うことが頻繁にあったイベリア半島では、異教徒たる敵を容赦なく殺戮すべき存在とみることはなかった。(「スペインの歴史を知るための50章」,P87-P89<要約>)

この当時は北方ヨーロッパ人に対して相対的に寛容だったスペイン人だが、このあとアメリカ大陸に侵出すると原住民への弾圧は凄惨をきわめるものになった。

※4 サンティアゴ巡礼 イベリア半島西部にあるサンティアゴは、使徒聖ヤコブの骨とされるものを祀った大聖堂があり、巡礼地としてヨーロッパ各地から巡礼者が訪れた。


1.6.2項の主要参考文献

1.6.2項の註釈

註162-1 3宗教の共存

立石、内村編著「50章」,P81-P85,P88-P89

註162-2 アラゴン連合王国の戦略

立石、内村編著「50章」,P75-P80,P95

{ アラゴンの地中海交易は以下のようなものであった。… サルデーニャ島、シチリア島から小麦や塩がもたらされた。バルセローナ、マジョルカ島、バレンシアとマグリブ【北アフリカ諸国】との間の交易では、主に金、奴隷、小麦、羊毛が輸入され、ワインやオリーブ、手工業品などが輸出された。東地中海圏とは、香辛料をはじめとする奢侈品や奴隷を輸入し、農産物・手工業製品を輸出する関係が成立した。}(立石、内村編著「50章」、P79)

14世紀にアラゴン王国の中心はバルセロナだったが、15世紀末にバレンシアに移る。

{ バルセローナは1340年の時点で約5万人の人口を抱えていたものの、1497年の時点で3万人弱に落ち込んだままである。… アラゴン連合王国の最大都市は15世紀においてバレンシアとなる。13世紀半ばに約1万5千人程度と推定される同都市人口は、15世紀末には約4万人へと増加している。… 15世紀における地中海交易においてカタルーニャ商人に代わってバレンシア商人が多く登場するようになる傾向とも符合する。}(立石、内村編著「50章」、P96-P97)

註162-3 ポルトガルの独立

Wikipedia「ポルトガルの歴史」