日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.5 ドイツとイタリア / 1.5.2 中世イタリア

1.5.2 中世イタリア

 図表1.25(再掲) 中世のドイツとイタリア

Efg125.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

(1) 北部と南部の分離(5~7世紀)

西ローマ帝国の滅亡(476年)後、イタリア半島の支配は二転三転する。まず、東ゴート王国が支配したが、まもなくビザンツ帝国のユスティニアヌス帝(在位527-65)によって回復された。すぐにランゴバルド人が北イタリアに侵入(568年)してランゴバルド王国を成立させたが、南部はランゴバルド人の2つの公国のほかいくつかの小国が分立する状態になった。以後、イタリア北部と南部はそれぞれ分裂、統合をくり返し、イタリアが現在のかたちに統合されるのは、19世紀半ば過ぎである。

(2) イタリア北部

中世イタリア王国(8~12世紀)

8世紀半ばになるとフランク王国のピピンがランゴバルド王国と戦い、ラヴェンナ総督領をローマ教皇に寄進、ピピンの子カールはランゴバルド王国を滅ぼして北イタリアをフランク王国の支配下においた。9世紀にフランク王国は分裂して北イタリアは「イタリア王国」となる。

10世紀、東フランク王オットー1世は神聖ローマ皇帝に即位し、イタリア王を兼ねた。以降、12世紀半ばまでイタリア北部は神聖ローマ帝国の支配下におかれる。

都市国家の発展(12世紀~)註152-1

11~12世紀になると、農業革命による余剰生産物の取引増加や十字軍の活動を通して獲得した東方との交易権などが、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといった北イタリアの都市に繁栄をもたらす。都市は周辺の農村部を征服して支配し、徴税権や裁判権などの公権力を行使した。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位1152-90)は、こうした公権力の行使を禁止し、1162年には反皇帝の立場を鮮明にしていたミラノに侵入して都市を破壊した。これに対し、北イタリア諸都市は1167年にロンバルディア同盟を結成し、1176年、皇帝軍と同盟軍はミラノ近郊のレニャーノで激突し、同盟軍が勝利を収めた。都市は皇帝の高権を認める代わりに、皇帝は都市に自治を認めた。

都市国家は自治権を得たが、都市内部の対立、都市間の抗争が続き、15世紀にはミラノ、ヴェネツィア、フィレツェなど有力な都市国家に集約され、それらが並び立つ体制になっていく。

ヴェネツィア サンマルコ広場

ヴェネツィア サンマルコ広場

(3) イタリア南部註152-2

ノルマン人による征服(11世紀半ば~)

ナポリ以南のイタリア半島南部とシチリア島は、11世紀初頭までランゴバルド人の公国やビザンツ帝国さらにはイスラム人などさまざまな勢力が割拠していた。それらの勢力に傭兵として雇われていたノルマン人がまずシチリア島を掌握し、1072年ルッジェーロ1世がシチリア伯となった。つづいて、イタリア半島南部の制覇にのりだし、1130年にはルッジェーロ1世の子ルッジェーロ2世がローマ教皇からシチリア島と半島南部を領土とするシチリア王国の国王の地位を認められた。首都となったシチリア島のパレルモは地中海世界の文化交流の拠点となり、栄華を極めた。

神聖ローマ帝国による支配(12世紀末~)

しかし、3代目のノルマン人の王には嗣子がなく、後継者問題に神聖ローマ帝国が介入した。1197年、皇帝ハインリヒ6世※1とシチリア王女の間に生まれたフリードリヒ2世(皇帝在位1215-54)が3歳でシチリア国王につき、のちに神聖ローマ皇帝にも即位する。彼は幼少期から青年期迄までを過ごしたシチリアを愛し、シチリアで神聖ローマ皇帝として政務をとった。

彼はまた、祖父フリードリヒ1世が敗れた北イタリアでの復権をもくろんだが、北イタリアの諸都市は第2次ロンバルディア同盟を結んで対抗し、自治を確保した。

※1 ハインリヒ6世 ホーエンシュタウヘン朝3代目の皇帝。父はバルバロッサ(赤ひげ)のあだ名を持つフリードリヒ1世。

アンジュー家の支配(13世紀半ば~)

1258年、フリードリヒ2世の庶子マンフレーディがシチリア国王に即位し、権力基盤の強化のために娘をイベリア半島のアラゴン王の後継者ペドロと結婚させた。これに対して、ローマ教皇側は自らの意に沿う人物をシチリア王にしようと画策し、フランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューをシチリア王に叙任する。シャルル・ダンジューは南イタリアに侵攻してマンフレーディを殺害し、シチリア王国を支配下においた。

アラゴン王国による支配(13世紀末~)

1282年、シチリアの住民とフランス軍兵士との間の私的ないさかいをきっかけに、フランス系住民の大量虐殺事件が起きた。これを「シチリアの晩禱」と呼ぶ。その結果、シチリア島はアラゴン王ペドロ3世※2が支配することになり、イタリア半島南部はシャルル・ダンジューが支配することになった。

これ以降、シチリアは「シチリア王国」、半島南部は「ナポリ王国」と呼ぶのが一般的である。この2つの王国は、15世紀半ばにアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合してできたスペイン王国によって統一される。

※2 ペドロ3世 王妃は、シチリア王マンフレーディーの娘(シチリア王の相続人)だった。

(4) ルネサンス註152-3

ルネサンスとは

「再生」、「復活」を意味するルネサンス(仏:Renaissance)が歴史用語として用いられたのは、19世紀になってからで、同時代にはこのような言葉は使われなかった。

ルネサンスはギリシャ・ローマの文化を復興しようという運動で、12,13世紀から先駆的な活動があり、14世紀のイタリアで本格化して、西ヨーロッパ諸国にひろがり16世紀まで続いた。

背景と思想

イタリアでは、12~13世紀に東方との交易によって、古典ギリシャなどの文献が流入し、ビザンツ帝国の滅亡(1453年)前後には多くの知識人がイタリアに移住してきた。これらの情報や人がルネサンス推進の中核になった。

14世紀にヨーロッパを襲ったペストや経済恐慌、戦争は人口を激減させ、人々は人間の生と死について考え、それまでの神を中心としたキリスト教の世界観から、古代ギリシャやローマをモデルにした人間中心の能動的・世俗的な世界観が形成されるようになった。こうした人間中心の世界観・思想を人文主義(英:Humanism)という。

人文主義は、16世紀の宗教改革や18世紀の啓蒙主義にも影響を与えた。

芸術家や学者

ルネサンスが輩出した主な芸術家や学者には次のような人たちがいる。

・イタリア; レオナルド・ダ・ヴィンチ(絵画、彫刻、科学)、ミケランジェロ(絵画、彫刻、建築)、ボッティチェリ(絵画),ダンテ(文学)、ボッカチオ(文学)、マキャヴェッリ(思想)、ガリレイ(科学)

・イギリス; シェークスピア(文学)、トマス・モア(思想)

・フランス; モンテーニュ(文学)

・ドイツ; ケプラー(科学)

・スペイン; セルバンテス(文学)、エル・グレコ(絵画)

パトロン

こうした芸術家や学者たちを支えたのは、都市の富裕層やローマ教会の聖職者たちだった。ルネサンスの初期のイタリアにおいて著名なのはフィレンツェのメディチ家である。教皇庁への貸付で財をなしたメディチ家はコジモ(1389-1464年)の代にジュネーヴやフランドルにも進出して富を蓄積し、事実上フィレンツェの支配者となった。コジモとその孫ロレンツォは、図書館を作ったり、自宅や教会の新築や改修を行い、美術品の依頼などを通して芸術家や学者を資金的にサポートした。


1.5.2項の主要参考文献

1.5.2項の註釈

註152-1 都市国家の発展

北村「イタリア史10講」,Ps618-,Ps881-

{ ジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアなどの海洋都市国家は、十字軍の活動を支援する見返りに商業特権を獲得していった。東方から香辛料や絹織物などの物産を西方に輸送し、西方からドイツの銀やフランドルの毛織物などを東方へ輸送するのである。… 地中海の商業圏と北西ヨーロッパの商業圏を結ぶフランスのシャンパーニュの大市では、イタリア商人が重要な役割を果たした。}(同上,Ps889-)

註152-2 イタリア南部

北村「イタリア史10講」,Ps725ー

{ … 12世紀に生じる北と南の差異をそのまま今日における北と南の差異にリンクさせるような議論が、しばしばなされている。… たとえば、南イタリアの歴史を語るときに、19世紀に登場する組織犯罪や20世紀後半に顕在化する縁故主義の原因を12世紀に北イタリアにおいて出現した市民の自治(公共性)を重んじる都市の体制が南イタリアには存在しなかったことに求めるような議論は、その一例であろう。…
12世紀から14世紀にかけて、イタリアの北では多くの都市国家が形成され、南では対照的な歴史を歩んだ。だが、そのことから、現代のイタリアにおける北と南の差異を直接的に説明することは慎むべきであろう。}(同上,Ps819-)

註152-3 ルネサンス

北村「イタリア史10講」,Ps937-  成美堂出版「図解 世界史」,P90  Wikipedia「ルネサンス」