日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.5 ドイツとイタリア / 1.5.1 中世ドイツ

1.5 ドイツ、イタリア

870年のメルセン条約でフランク王国は、現在のフランス、ドイツ、イタリア(北部)に近いかたちで分割された。その後、イタリア部分の多くは東フランク王国に吸収され、神聖ローマ帝国となる。神聖ローマ帝国の王はフランク人からドイツ人にかわり、さらに東に領土を拡げたが、諸侯(=領邦君主)の力が強く、ドイツはあたかも領邦国家の連合体のようになった。

イタリアは北部と南部に分裂し、北部は商工業で栄えたミラノやジェノヴァなどの都市国家の連合体になり、南部は独仏西の勢力争いの場になった。

 図表1.25 中世のドイツとイタリア

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1.5.1 中世ドイツ

(1) 東フランク王国からドイツ王国へ註151-1

フランク王国が3分割されたあとも、カロリング朝の王が続き、王が死ぬたびに王位や領土の分割・統合が繰り返された。

911年、東フランク王国のルートヴィヒ4世(在位899-911)がわずか17歳で死ぬが、嗣子がなくカロリング朝は断絶した。諸侯は選挙により、フランク人のフランケン公コンラート(在位911-18)を王に選んだ。コンラートは臨終の床で次の国王にザクセン※1公ハインリヒ1世(在位919-36)を指名した。こうして、東フランク王国はドイツ王国となった。

※1 ザクセン 現在のドイツ北部にある地域。

(2) 神聖ローマ帝国註151-2

神聖ローマ帝国の皇帝位は、フランク王カール大帝が800年に戴冠して以降、東西フランク王とイタリア王のあいだを行き来したが、915年にイタリア王になったベレンガルが924年に没したのを最後に消えてしまっていた。

父ハインリヒ1世の死去後、ドイツ王に即位したオットー1世(大帝 在位936-73)は、国内を平定するとともに、東方から侵入を続けていたマジャール人※2をレヒフェルトの戦い(955年)で破った。また、イタリア遠征を行なってイタリアの支配権を確立し、962年に神聖ローマ皇帝を戴冠した。これ以降、慣習としてドイツ国王が神聖ローマ皇帝になる。

「神聖ローマ帝国」という名称が公式に用いられるようになるのは、13世紀半ば以降で、最初は単に「帝国」と呼ばれていた。「神聖ローマ帝国」の理念は西方キリスト教世界の最高位の君主であるが、現在の学界の共通認識では、支配地域のうちドイツ王国部分を指す限定的語法とされている。

※2 マジャール人 現在のハンガリー人のこと。原住地はウラル山脈からヴォルガ川流域地方。

(3) ザーリア朝(1024~1125年)註151-3

ザクセン朝最後の王ハインリヒ2世(在位1002-24)には嗣子がなく、次の王は諸侯の選挙により、オットー1世の娘の血をひくライン=フランケン公コンラート2世(在位1024-39)が選ばれた。コンラートは、イタリアを平定しブルグントも相続により獲得して、ドイツ、イタリア、ブルグント3国の王を兼ねた。

つづくハインリヒ3世(在位1039-56)は、チェコ人のボヘミア王国を支配下におき、ローマ教皇の叙任権も握った。しかし、活発になった教会改革運動によって教会の体制が立て直されると、次のハインリヒ4世(在位1056-1106)は、「カノッサの屈辱」(1077年)により教皇と対立し「叙任権闘争」を起こす。「カノッサの屈辱」および「叙任権闘争」については、1.2.2項(2)に記したが、ドイツ国王としては、教会への影響力が低下しただけでなく、諸侯の力が強化され相対的に王権が弱体化することになった。

図表1.26 ドイツ王国(10~13世紀)の王

ドイツ王国(10~13世紀)の王

出典)鯖田豊之「世界の歴史9 ヨーロッパ中世」,Ps1628 Wikipedia「神聖ローマ皇帝一覧」をもとに作成。

(4) (ホーエン)シュタウフェン朝(1138~1254年)註151-4

ザーリア朝ハインリヒ5世には嗣子がなく、ザクセン公ロタールを次の王に選んだが一代で絶え、ホーエンシュタウフェン家(シュタウフェン家とも呼ばれる)のコンラート3世(在位1138-52)が王位についた。2代目のフリードリヒ1世(在位1152-90)は、北イタリアの都市が結成したロンバルディア同盟の攻略には失敗するが、ドイツ、イタリア、ブルグント3国の王として君臨した。彼のあだ名「バルバロッサ(赤ひげ)」は、第2次大戦でドイツがソ連に攻め込んだ時の作戦名に使われている。

フリードリヒ1世の子、ハインリヒ6世(在位1190-97)は、シチリアを征服し神聖ローマ帝国の絶頂期を築いた。その子フリードリヒ2世はシチリアを含むイタリアを中心に東ローマ帝国までも射程にいれたキリスト教的地中海帝国の夢を抱いたが、夢かなわず1250年に死去した。その後、ホーエンシュタウフェン家の血統は絶えて、「大空位時代」を迎えることになる。

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中世都市ローテンブルグ(ドイツ南部)。コンラート3世(在位1138-52)が宮廷をおいた。

(5) 大空位時代(1254~1273年)註151-5

フリードリヒ2世(在位1215-50)の子コンラート4世が在位わずか4年で死去すると、諸侯たちは自己の勢力拡張をはかるためになるべく無能な国王を選ぼうとした。教皇派はイギリスのコンウォール伯リチャードを、皇帝派はスペインのカスティーリャ王アルフォンソ10世を対立王として選出した。どちらもドイツ国内に姿をあらわさず、国王がいることはいるが王権は存在しない、という状態が続いた。

1273年にローマ教皇に促されて新たな王を選び大空位時代を終わらせたが、選んだのは小領主にすぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世だった。

(6) ハプスブルク朝註151-6

ハプスブルク家の祖地はスイス北東部バーゼル近郊である。1273年にルドルフ1世がドイツ王に選定されたときは弱小領主だったが、彼はボヘミア王を破ってオーストリアを獲得し、ドイツ東南方の大国としての地位を固めた。

同家の皇帝位独占が始まるのは、1438年にアルブレヒトが帝位についたときからである。アルブレヒトが即位1年で嗣子なく死ぬと、別系のフリードリヒ3世(在位1440-93)が継ぎ、以降、19世紀初頭までハプスブルク家が事実上、神聖ローマ皇帝を世襲する。
巧妙な婚姻政策により、全盛期には英仏以外の西ヨーロッパ全域とスペインを支配下におさめたが、18世紀になると衰退し、第一次大戦後の1918年、最後に残ったオーストリアを中心とするハプスブルク帝国は解体された。

図表1.27 14世紀頃の神聖ローマ帝国

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(7) 国王の選挙と議会

国王の選挙註151-7

ザクセン朝以降、国王は選挙で選ぶべし、というキリスト教会の主張が優勢になっていた。下表で「指名」すなわち血統で選ばれた国王でも、「選挙で選ばれた」という形式にされた国王や「将来正しい統率者になれば」という条件をつけられた国王もいた。

選挙は、はじめは話し合いや拍手喝采に近いものだったろうが、有力領主が口頭で候補の名前をあげ、賛成の場合は歓声を上げる方法が採用された。選定する諸侯の数も減らされていき、1125年には40人、13世紀半ばころには6~7名の選帝侯が王位を左右するようになった。

選挙は「全員一致」が原則とされたが、結果がいつも全員一致になるとは限らない。賛否両論に分かれたとき、多数決によって決着をつけることは許されなかったので、少数派が退席していなくなった状態で「全員一致」の建前をとった。少数派はかれらだけの「全員一致」によって別の国王を選定することになり、多数派と少数派の国王が併存することになる。下表で※をつけた国王はその例である。

一見、公平そうにみえる国王の選挙による選出は国の分裂を招く可能性を内在するものでもあった。

図表1.26(再掲) ドイツ王国(10~13世紀)の王

ドイツ王国(10~13世紀)の王

金印勅書(1356年)註151-8

こうした分裂の危険性を防止するためにカール4世(在位1346-78)は選挙方法の見直しを行い、「金印勅書」を発布した。「金印勅書」とは、金の皇帝印が押されている文書で、そのような文書はほかにもあるが、1356年に出されたものは、特に有名になった。

国王の選挙は選挙権をもつ7人の選帝侯により行い、多数決制を導入することで二重選挙の弊害を除去した。しかし、選帝侯に国王に準じる特権を認めることにより、フランスやイギリスのような中央集権的な国家を目指す道を閉ざし、領邦国家の分立状態を承認してドイツ王権を弱体化させることになった。

身分制議会註151-9

「金印勅書」は、1356年の「帝国議会」で議決されて帝国法となった。「帝国議会」とは、フランスの三部会やイギリスの模範議会と同様のもので、国王が貴族や聖職者、市民などから意見聴取をしたり、同意を得たりするためのものである。現代の民主議会とはまったく異なる。

(8) 東方植民(12~14世紀)註151-10

フランク王国時代以来、ドイツ人が居住するのは、エルベ川からボヘミア※3の森(ドイツ・チェコ・オーストリア国境)に至る地域より西だった。12世紀になって、農業革命により農業生産力が向上して人口が増えると新たな農地を求めて東に植民活動を行うようになり、スラヴ人が住む領域まで進出した。ドイツ東方の諸侯は支配域を東に広げ、ポーランドやボヘミアの王や諸侯たちも進んだ農業技術を持ったドイツ人植民者を受け入れた。

北のバルト海沿岸地方では、十字軍で結成されたドイツ騎士団が原住民のプロイセン人をキリスト教化しつつ、ドイツ騎士団国家を建設した。これがのちのプロイセン王国になる。

※3 ボヘミア: 現在のチェコ西部・中部。

(9) 都市同盟(13世紀~)註151-11

中世ドイツには大小約3000もの都市があった。都市の商人や手工業者たちは職業別にギルドとよばれる連帯と相互扶助のための組織を作った。過当競争を防止するために、手工業者であれば生産量や品質、価格などが統制され、ギルドに加入しなければ営業ができなかった。こうしたギルドの集合体が都市にでき、それが都市間で連携するようになったのが都市同盟である。

都市同盟のなかには諸侯の支配から独立し、裁判権や自治権をもつものもあらわれてくる。その中で最大のものがハンザ同盟である。ハンザ同盟はバルト海沿岸から北海沿岸に至る広大な地域※4に、最盛期には加盟100都市を数え、北欧の大国デンマークを圧倒する力をもっていた。

※4 ハンザ同盟があった地域 バルト海沿岸・北海沿岸。 現在のバルト3国からポーランド北部、ドイツ北部、オランダあたりまで。


1.5.1項の主要参考文献

1.5.1項の註釈

註151-1 東フランク王国からドイツ王国へ

坂井「ドイツ史10講」,Ps441-

註151-2 神聖ローマ帝国

坂井「ドイツ史10講」,Ps441- Wikipedia「神聖ローマ帝国」

{ 「神聖ローマ帝国」という名称が公式に用いられるようになるのは13世紀半ば以降、そして15世紀末以降になると「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」とも呼ばれるようになるが、これは「ドイツ」イコール「神聖ローマ帝国」とか、ドイツ国民が神聖ローマ帝国の支配的民族である、などという意味ではない。もともと理念的にはドイツというよりはヨーロッパの国であり、支配地域も「ドイツ」のみならずイタリア王国やブルグント王国にもおよんでいたこの国の一部、その「ドイツ王国部分」を指す限定的語法だというのが、現在の学界の共通認識である。}(同上,Ps453-)

註151-3 ザーリア朝

坂井「ドイツ史10講」,Ps518- Wikipedia「神聖ローマ帝国」

坂井氏は、諸侯の自立化が進んだことについて次のように述べている。

{ ハインリヒ4世が「カノッサの屈辱」をあえて耐え忍んで教皇に破門を解いてもらったのは、さもなくば諸侯の離反が避けられなかったからであり、… 「ヴォルムスの協約」を締結させたのも、教皇との和平を求める諸侯たちであった。… これら諸侯勢力を無視しては、以後のドイツの統治は行われえなくなる。}(同上,Ps563-)

註151-4 (ホーエン)シュタウフェン朝

坂井「ドイツ史10講」,Ps573-

註151-5 大空位時代

鯖田「…ヨーロッパ中世」,Ps1667 坂井「ドイツ史10講」,Ps640-

{ 大空位時代(Interregnum) … 言語を直訳すると「王権の空いた期間」であり、王はいたものの権力がなかったという意味である。}(Wikipedia「神聖ローマ帝国」)

註151-6 ハプスブルク家

坂井「ドイツ史10講」,Ps999- Wikipedia「ハプスブルク家」

註151-7 国王の選挙

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1624-

{ 正式に国王になるには塗油が必要なのはヨーロッパ共通の原則にしても、皇帝位をかねたドイツ国王のばあいは、そのほかに、キリスト教世界の最高首長たる法王が戴冠権者になったのである。それだけに、少なくともドイツ王権に関しては、選挙原理を強調する教会側の主張が強力に浸透することになる。}(同上,Ps1625-)

{ フランスでは、… 比較的早い時期に王権の世襲相続が安定した。そのために採用されたのは、… 息子をあらかじめ共同国王にしておく方法である。…
この方法で大きな役割を演じたのは教会である。… 国王が正式に即位するには塗油が絶対条件だったが、… 塗油はただ1度しかあたえることができない。共同国王になったときに塗油を行うことによって次代国王を確定させる、王家と教会の合作の産物としてこの方法が採用された。}(同上,Ps1677-<要約>)

註151-8 金印勅書

坂井「ドイツ史10講」,Ps923-

{ 帝国は異なる言語を話す「諸国民」の国だから、選帝侯の後継者は7歳から14歳の間に(これはカール自身がパリにいた期間に相当する)ドイツ語以外にラテン語、イタリア語、チェコ語を習得すべし、という条項を金印勅書第31条に入れたこの「国際的君主」のイニシアティヴがもう少し発揮されたらどうなったか、という夢も描きたくなる… }(同上,Ps985-)

註151-9 身分制議会

坂井「ドイツ史10講」,Ps949-

註151-10 東方植民

坂井「ドイツ史10講」,Ps804-

註151-11 都市同盟

坂井「ドイツ史10講」,Ps824- 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps2807-