日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.4 イングランド王国 / 1.4.2 連合王国とバラ戦争

1.4.2 連合王国とバラ戦争

 図表1.22(再掲) イングランド王国の成立と発展

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(1) ウェールズとスコットランド註142-1

14世紀初頭までのウェールズ、スコットランド、アイルランドは、部族国家が乱立するなど「星雲状態」にあった。ジョン王の孫にあたるエドワード1世(在位1272-1307)は、好調な経済を背景にこれらの地域の征討を行った。

ウェールズ

山と谷のウェールズは、ローマ軍もイングランド軍も攻めあぐねた。エドワード1世はウェールズ侵攻をくり返して屈服させ、1301年、王子(のちのエドワード2世)を「ウェールズ公」として支配下においた。このとき以来、ウェールズはイングランド王の長子に与えられる称号と化した。

スコットランド

スコットランドの北方や西海岸はノルウェーの領土だったが、東と南には11世紀ごろアルバと呼ばれる王国が成立し、13世紀後半までには一部ノルウェー領を除いてスコットランドを統一した。スコットランドはイングランドとの対抗上、フランスと同盟を結んだが、エドワード1世はこの同盟の解消を求めてスコットランドに攻め入った。スコットランドは抵抗し、1314年イングランド軍はスコットランド軍に大敗を喫し、1328年スコットランドの独立を認める条約が結ばれた。その後もイングランドとスコットランドの抗争は続き、18世紀になってようやく「連合王国」として統合される。

アイルランド

アイルランドも部族が割拠する時代が続いていたが、12世紀半ばになるとイングランドからの植民が始まった。19世紀初頭に「連合王国」に併合されるまで、不安定な植民地支配が継続する。

(2) 百年戦争(1337~1453年)

百年戦争についてはフランク王国の項(1.3.3項)を参照願う。ここでは、イギリス史の専門家である近藤和彦氏のユニークな見方を紹介させていただく。

{ アキテーヌ(ガスコーニュ)は、ぶどう酒の名産地であり、早くからワインをイングランドに輸出し、穀物を輸入していた。… 赤ワインは教会のミサにおいてキリストの血の象徴であり、また王侯貴族のディナーに欠かせない飲み物である。… しかし、これはブリテン諸島では生産されない。中期英語/古フランス語のクラレット(claret)、すなわち鮮明な赤ワインこそ、百年戦争の第三のいや本当の争点だったかもしれない。クラレットという語はイギリスのエリートが使い、今日の統制銘柄産地(AOC)サンテミリオンやメドックも含む広義の「ボルドー」、すなわち芳醇な赤ワインをさす集合名詞である。)(近藤「イギリス史10講,P63」)

(3) バラ戦争(1455-85/87年)註142-2

バラ戦争は、イングランド王の家系であるランカスター家とヨーク家の王位争いに諸侯が加わって行われた内戦であり、ランカスター家が赤いバラ、ヨーク家が白いバラを自派の「旗印」としたために、この名がついた。

戦争のはじまり

百年戦争の末期、イングランドではフランスとの和戦派と主戦派に分かれた貴族同士の抗争が続いていた。和戦派だったイングランド王ヘンリー6世(ランカスター家)は、1453年精神錯乱を起こし、その直後ボルドーが陥落して敗戦が確定的になると、失うものばかりが多い和戦に諸侯の反発が強まる。主戦派のヨーク家リチャード・プランタジネットは、こうした諸侯の不満を利用しながら、王位を狙った。1455年、リチャードは政府軍に先制攻撃をしかけ、バラ戦争が始まった。

戦争の推移

内戦が始まると百年戦争終結問題はどこかに吹き飛び、王位をめぐって両派が諸侯の抱き込みに狂奔し、国内は敵意と憎悪のるつぼになった。1455年の初戦はヨーク派が勝利したが、王位を簒奪するまでには至らず、1460年の戦闘ではリチャード・プランタジネットが戦死したものの、その子エドワード4世が王位を得た。しかし、ランカスター派とのシーソーゲームは1471年にヘンリー6世が殺害されるまで続いた。1483年にエドワード4世が急死すると、ランカスター派は勢いを取り戻し、1485年ランカスター家の系譜をひくヘンリー7世がリチャード3世をやぶり、ヨーク家出身のエリザベスと結婚してチューダー朝を創立した。

 図表1.24 バラ戦争関連家系図

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※ 人名下のカッコ内数字は王位在位年。

出典)Wikipedia「ノルマン朝」、「プランタジネット朝」、「ランカスター朝」などを参考にして作成。

(4)バラ戦争がもたらしたもの

バラ戦争は、騎士道的戦争の終焉をもたらした。百年戦争までは、衰えつつあったものの騎士道精神はまだ残っており、イングランド軍の捕虜になったフランス王ジャン2世は手厚い待遇を受けた。しかし、バラ戦争では敵に捕らえられた国王や諸侯は、運が良ければロンドン塔に幽閉されるぐらいで、たいていは殺された。そのため、諸侯の家系断絶は激しく、ヘンリ―7世がチューダー朝を創立したとき、国王にたてつく勢力はなくなっていた。それでいて、戦闘が局部的、断続的だったこともあって、市民や農民はほとんど被害を受けていない。


1.4.2項の主要参考文献

1.4.2項の註釈

註142-1 ウェールズ、スコットランド、アイルランド

近藤「イギリス史10講」,P54-P58  Wikipedia「スコットランド独立戦争」,「アイルランドの歴史」など

註142-2 バラ戦争

鯖田「…ヨーロッパ中世」,Ps4377-  Wikipedia「薔薇戦争」