日本の歴史認識 > ヨーロッパが歩んだ道 > 第1章 / 1.3 フランク王国 / 1.3.3 百年戦争
百年戦争は、フランスの王位継承をめぐってイギリスとの間で戦われた戦争で、途中休戦をはさんで、100年以上にわたって続いた。
カペー朝のフィリップ4世(在位1285-1314)の死後、3人の息子がいずれも若死にし、従兄弟のヴァロワ家のフィリップ6世(在位1328-50)が即位するが、フィリップ4世の娘イザベルを母とするイングランド王エドワード3世(在位1327-77)がフランスの王位継承権を主張し、1337年に挑戦状をつきつけて百年戦争が始まった。
王位継承以外にも、ガスコーニュ(フランス南西部)やフランドル(現在のベルギー付近)における勢力の巻き返しもエドワード3世の念頭にはあったであろう。最初の戦闘は1340年、フランドルの海港スロイスで行われイングランド軍が快勝した。
図表1.20 仏・英王家家系図(百年戦争前後)
(注)人名下のカッコ内数字は王位在位年。
Wikipedia「カペー朝」、「ヴァロワ朝」、「プランタジネット朝」、「ランカスター朝」などを参考にして作成。
イングランド軍は1346年のクレシーの戦い、1356年のポワティエの戦いなどでフランス軍を破った。フランス軍騎士団の騎馬突撃に対して、イングランド軍の歩兵隊に槍や長弓を持たせた柔軟な戦術が優った戦闘だった。このあと、フランス軍はややイングランド軍を押し戻したが、1375年に休戦となった。
1375年の休戦合意後、両国は和平条約締結にむけて交渉を進めるが、イングランドでは農民反乱や内政の混乱さらには王位継承問題が発生し、プランタジネット朝からランカスター朝への交代が行われた。
一方、フランスでもシャルル6世(在位1380-1422)の精神錯乱をきっかけとして、その後見人であるブルゴーニュ公やアンジュー公のブルゴーニュ派と、シャルル6世の弟のオルレアン公やアルマニャック伯、王家の官僚集団からなるアルマニャック派の抗争が激化する。
イングランド・ランカスター朝のヘンリー4世(在位1399-1413)はアルマニャック派と結ぶが、その子ヘンリー5世(在位1413-22)はブルゴーニュ派と結び、1415年ノルマンディーに上陸、アジャンクールの戦いでフランス軍を破った。アルマニャック派が精神錯乱のシャルル6世にかわって王太子のシャルル7世を担ぐのに対して、ブルゴーニュ派はシャルル6世の続投を主張した。
1420年ブルゴーニュ派はヘンリー5世との間でトロワ条約を結んだ。それによると、ヘンリ―5世がシャルル6世の娘と結婚し、シャルル6世の死後、フランス王位を継ぐことになる。1422年、シャルル6世とヘンリー5世がともに死ぬと、ヘンリ―5世の子で当時1歳のヘンリー6世(在位1422-61)が英仏両国の王となったが、王太子もシャルル7世を名乗りフランス南部を支配した。
図表1.21 百年戦争(1420年トロワ条約)地図
1428年、イングランドはこの曖昧な状態を解消するため、アルマニャック派の要地オルレアンを攻囲した。1429年4月、ジャンヌ・ダルクを擁したフランス軍が市街に入城し、イングランド軍を駆逐してオルレアンを解放した。ついで彼女はランスに進撃し、ランスの大聖堂でシャルル7世を即位させた。これによってアルマニャック派優位に逆転したが、ジャンヌはブルゴーニュ軍の捕虜となり、イングランド軍に引き渡されて、1431年、異端裁判の末、焚刑(火あぶり)に処せられた。
1435年、アルマニャック派とブルゴーニュ派は和解し(アラスの和約)、一致してイングランドに立ち向かうことになった。
フランスは平民の徴兵、大砲の活用などにより軍備を強化、1450年、ノルマンディーでイングランド軍と戦ってこれを征し、続いて1453年ガスコーニュのカスティヨンで行われた戦いでもイングランド軍を破ってボルドーを奪還した。これをもって百年戦争は終結し、イングランドには大陸の領土としてカレーだけが残った。
{ イングランドのアンジュ【プランタジネット】朝とフランス(カペー朝、ヴァロア朝)、また各領邦、フランドル、ブルゴーニュ、スコットランド、スペイン、そして教皇庁などが合従連衡し、…もつれあいからみあった複数の政体を一刀両断に切り離す外科的大手術の働きをした…}(近藤和彦「イギリス史10講」,P62)
他にもいろいろあるだろうが、私は次の2点をあげたい。一つは、領邦君主や騎士の没落と王権の強化であり、中央集権化が進んで官僚制が整備され絶対王政の時代になっていくこと、もう一つは、鉄砲や大砲の登場など軍事技術の変化が騎士の戦争を終わらせ、歩兵の戦争に変わったことである。
ヨーロッパでは騎士はいなくなり騎士道だけが残るが、日本ではどうだろう。日本に鉄砲が伝来したのは1543年、鉄砲はまたたくまに戦国大名のあいだにひろまり、1575年織田・徳川連合軍と武田勝頼が戦った長篠の戦では、最強といわれた武田の騎馬軍団が鉄砲の前に敗退した。1615年の大阪夏の陣では大砲も使われたが、このあと戦争らしい戦争はなくなった。にもかかわらず武士は存続した。幕府や藩の官僚になった者もいるが、内職をせざるをえない者も少なくなかった。ヒマになった武士のモラルを維持するために朱子学などをもとにした武士道が確立され、仁義・忠孝など儒教的倫理が崇高な理念として継承され、それが軍国主義の時代には一般兵士や国民にも奨励された。
もし、徳川幕府が短命におわりヨーロッパのように戦争が続いたとしたら、武士は生きのびただろうか。それとも武士という階層は消滅し、武士道は成立しなかっただろうか。この節を書きながら、ふとそんなことを思った。
柴田三千雄「フランス史10講」,P51 堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps4000- Wikipedia「百年戦争」
柴田三千雄「フランス史10講」,P51 堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps4200- Wikipedia「百年戦争」
柴田三千雄「フランス史10講」,P51 Wikipedia「百年戦争」
柴田三千雄「フランス史10講」,P51-P53
柴田三千雄「フランス史10講」,P54 Wikipedia「百年戦争」
Wikipedia「百年戦争」