日本の歴史認識 > ヨーロッパが歩んだ道 > 第1章 / 1.3 フランク王国 / 1.3.2 カペー朝とアンジュー帝国
図表1.16(再掲) フランク王国からフランス王国へ
ローマ帝国を分解させたゲルマン民族の移動のあと、9世紀に入るとヨーロッパには第2の民族移動の波が押し寄せてきた。波は3つあり、一つは9世紀から10世紀末にかけてイタリアやフランスの地中海沿岸地帯に侵攻したイスラム教徒であり、もう一つは同じ頃に東から来た中央アジア系のマジャール人だが、西フランクにとって最も影響が大きかったのは、スカンディナヴィア(現在のスウェーデン、ノルウェー、デンマーク)に住む北方ゲルマン人に属するノルマン人である。
「ゲルマン民族大移動」の際に彼らの一部も南に移動し土地に余剰ができたが、その後の人口増加により土地が不足してきた。あぶれた小首長たちは不平分子を率いて新天地を求めた。ノルマン人はヴァイキングとも呼ばれたが、それはノルマン人自身が用いた呼称で「市で商う入り江の人々」といった意味である。彼らは移動の初期には掠奪、それも女性や少年などを拉致してイスラムのハーレムに売り飛ばす人身売買も行ったが、後期になると交易に力を注ぐようになった。
ノルマン人たちは、ライン川、セーヌ川、ロアール川などをさかのぼって、内陸深くまで荒らしまわった。885年11月、ノルマン人は700隻以上の船に4万人をのせて、セーヌ川をさかのぼり、パリを包囲した。パリ伯ウードはわずかな手勢でよく戦ったが、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院は略奪されて家畜小屋と化した。翌年夏、カール3世が救援にあらわれ、立退料を支払い、セーヌ川上流への進出も許した。ウードのこの対応は貴族たちに評価され、カール3世死去後、西フランク王に推挙された。
911年、西フランク王はロロに率いられたノルマン人の一団に、キリスト教への改宗と後続侵入者にたいして防衛力となることを条件に、セーヌ川下流域への定住を認めた。以後、この地域はノルマンディーと呼ばれる。およそ150年後の1066年、ノルマンディー公ウィリアムはイングランドを征服し、イングランド王となる。
フランク王国初代の王クロヴィスは選挙によって選ばれ、その後も王は選挙で選ばれる建前だったが、実際は世襲されることが多かった。しかし、王国の分裂やノルマン人の侵入といった危機に国王が対応できず、ノルマン人のパリ侵攻の際に活躍したウードは選挙で王に選ばれた。
ウードの後はカロリング直系の王が続いたが、987年に死んだルイ5世には嗣子がなく、選挙により選ばれた次の王は、ウードの血をひくユーグ・カペーだった。彼は王権を安定させるため、生存中に長子を後継者に指名した。ここにこの後300年以上にわたって続くカペー朝が始まり、これ以後はフランス王国と呼ぶ。
封建領主たちは、ノルマン人の侵入や領地の継承をめぐる武力抗争の過程で封建制にもとづく武装従士団をつくり、領邦君主とよばれる小王国を形成していった。カペー家もそのうちのひとつだったが、他にブルゴーニュ公、ノルマンディ公、フランドル伯、など11世紀にはフランス王国内に約15の領邦君主がいた。カペー家の所領はパリ周辺部だけであり、王としての他の領邦君主への支配力は小さかった。
11世紀ごろから治安が安定してくると農業生産性が大きく改善し、それにともなって商業も発展し各地に商工業者の都市ができた。
カペー朝や領邦君主たちは都市との連携を強めていく。封建家臣団だけでなく傭兵による常備軍を備えたり、支配権を管理する役人を配置するが、そのために必要な費用は都市から貢納金をとり、都市貴族や領主、教会との共生関係をつくっていく。
1154年、イングランド王にヘンリー2世が即位すると、母マティルダから継承したアンジュー伯領(ノルマンディーを含む)と、王妃アリエノールが継承したアキテーヌ領(フランス南西部)がイングランド王の領地となり、カペー朝の領土よりはるかに広かった。このときのイングランドからフランス西部におよぶ地域をアンジュー帝国と呼ぶことがある。イングランド王家はヘンリー2世以降プランタジネット朝となり、プランタジネット家(=アンジュー家)は領邦君主としてフランス王に臣従する関係になるが、イングランド王としては対等の関係である。
図表1.19 アンジュー帝国
1203年、イングランド王ジョンの再婚問題をきっかけにフランス王フィリップ2世(在位:1180-1223)はジョンの全フランス領土の剥奪を宣言、フランス西部の諸侯もこれを支持した。ジョンは、フィリップ2世と対立していた神聖ローマ帝国オットー4世と組んで、フランス北西部ブーヴィーヌでフィリップ2世と戦う(1214年)も破れ、南部のガスコーニュだけがイングランド領として残った。
パリはその周辺にフランス随一の穀物生産地域を持つだけでなく、当時の西欧経済の2大拠点である北イタリアの諸都市とフランドル地方を結ぶ定期市場のあるシャンパーニュと水路を通じて直結しており、市場への商品供給で有利な位置にあった。
カペー朝の本拠地はそのパリであった。カペー朝が300年以上にわたって栄えた理由のひとつには、このパリを領地にもち、その経済力が王政を支えたことがあるが、それ以外に「カペーの奇跡」といわれるもので、歴代の王が比較的長命で資質もあっただけでなく、すべて男子の後継者に恵まれていたため、後継者争いが起きなかったことも大きい。さらにいえば、レジスト(法曹家)と呼ばれる法律の専門知識をもつ知識人を王のブレインとして起用したことも貢献している。
(柴田三千雄「フランス史10講」,P39-P42<要約>)
柴田三千雄「フランス史10講」,P16
堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps1163- 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1071-
堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps1269- Wikipedia「パリ包囲戦」
堀越氏とWikipediaでは、次のような相違があるが、堀越氏の記述を中心にまとめた。
・堀越氏: 700隻と無数の子舟が埋め尽くし、ノルマン勢は4万をかぞえた、この報告は信用できる。
Wikipedia: 現代の歴史家の間では、「この記録は過度に誇張されている」が定説になっている。
・堀越氏: ノルマン人は「だまって通してくれ」と要求したがユードは拒否した。
Wikipedia: ノルマン人は貢納を要求した。
なお、カール3世は東フランクと西フランクの両方の王を兼ねていた。
柴田三千雄「フランス史10講」,P16
鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1560- 柴田三千雄「フランス史10講」,P17
柴田三千雄「フランス史10講」,P17・P40
柴田三千雄「フランス史10講」,P44-P45 近藤和彦「イギリス史10講」,P46-P48
近藤和彦「イギリス史10講」,P49
Wikipedia「フィリップ2世(フランス王)」、「ジョン(イングランド王)」