日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.3 フランク王国 / 1.3.1 建国から分割へ

1.3 フランク王国

フランク王国はゲルマン民族のフランク人が西ヨーロッパに建国した国で、圧倒的多数を占めるローマ文化の染みついたガロ・ローマ人と呼ばれる原住民を支配するため、キリスト教に改宗し、ローマ文化を尊重した。周辺のゲルマン民族国家を征服しながら領土を拡大したが、9世紀に領土は3分割された。西フランク王国は、まもなくフランス王国と呼ばれるようになり、イングランドとの領土争い、王位継承争いを経て、両国はヨーロッパの先進地域として発展していく。

この節では、フランク王国の成立・拡大・分裂から、西フランク・フランス王国に至る経緯を述べる。東フランクについては、1.5節を参照されたい。

 図表1.16 フランク王国からフランス王国へ

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1.3.1 建国から分割へ

(1) フランク族

フランク族は、他のゲルマン諸族と同じように群小部族の集合体で、その集合体は3つあった。そのうちのひとつ、サリ支族の首長クロディオはローマの同盟軍としてローマ領内に居住することを許され、現在のベルギーの首都ブリュッセル付近に住んでいた。クロディオの子がメロヴィック、その孫がフランク王国の初代の王クロヴィス1世(在位481-511年)である。彼から始まる王朝をメロヴィング朝という註131-1

ガロ・ローマ人註131-2

ガロ・ローマ人とは、ローマ文化が浸透したガリア※1人のことをいう。彼らから見たゲルマン人は「長髪、大食漢で、頭髪に悪臭のするバターを塗り、ニンニクや玉ねぎの臭気をばらまく」野蛮人だった。フランク王国の人口にフランク人が占める割合は3~5%しかなく、圧倒的多数をガロ・ローマ人が占めていた。

フランク人は、ガロ・ローマ人を支配するにあたって、ローマ帝国のパトリキス(守護)やコンスル(執政官)として行動し、ガロ・ローマ人の生活をローマ帝国時代とできるだけ同じにすることを基本方針とした。ガロ・ローマ人にとって、フランク人は野蛮人ではあったが、それまで軍務を負担してもらうために支払っていた税金の負担が軽くなったことにより、歓迎すべき一面もあった。

※1 ガリア: ほぼ現在のフランスに相当する地域で、ローマの属州になる前に中部ヨーロッパから移動してきたケルト人などがいた。ケルト人とはケルト語を話す人たちのことをいい、その原住地や起源については諸説ある。

(2) 建国(5~6世紀)

クロヴィス1世は、周辺の部族を打ち破り、496年頃には現在のフランス北部を制覇、さらに、507年には西ゴート族と戦って南ガリアを獲得、今日のブルターニュと地中海沿岸地方をのぞくガリアのほぼ全域を征服し、東ローマ皇帝からコンスル(執政官)の称号を得た註131-3

図表1.17 クロヴィスのフランク王国

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クロヴィスの改宗註131-4

おそらく496年、クロヴィスはランスの司教レミギウスの手でカトリックの洗礼を受けた。当時の史料によれば3000人のフランク人が王に同調した。ローマ領内に侵入したゲルマン民族はみなアリウス派のキリスト教徒だったが、フランク人は依然として多神教を信じていた。彼らにとって、キリストはたくさんいる神々の一人でしかなかったことが、改宗のハードルを低くしたと思われる。

改宗の理由についてはいろいろな説があるが、王国で重用されていたローマ系文化人のはたらきかけが、カギになったのではないだろうか。こうした文化人にとって、アリウス派であるということだけでなく、祭儀にゲルマンの土俗習慣が取り入れられることは容認できないことだった。

改宗によりクロヴィスはキリスト教会の権威と貴族の後押しを得て、異端からの解放という正当性をもって征服をすすめることができたのである。

※2 アリウス派: ローマ帝国で異端とされた宗派。正統派が神・キリスト・聖霊は一体とするのに対し、アリウス派は神とキリストは別だとする。

(3) 宮宰※3による支配(6~8世紀)

クロヴィス後註131-5

クロヴィスは4人の息子を残したので、せっかく統一された王国は4つに分割されてしまったが、兄弟が早死にしたため、560年、末子クロタール1世が再び統一した。ゲルマンの伝統である家産を分割相続する習慣はその後も続き、加えて一夫多妻的な宮廷生活が横行したことも混乱に拍車をかけた。その結果、政治の実権は王家の執事にあたる職である宮宰が握るようになる。

※3 宮宰(きゅうさい) ヨーロッパ中世初期の官職名で、王家の執事にあたる職。

イスラム撃退註131-6

カール・マルテル(在職714-741)※4は、フランス北東部の宮宰の家系に生まれた。711年、イスラム教徒たちはジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に渡り、一気に西ゴート王国を倒し(713年)、つづいて、720年にはピレネー山脈を越えてガリアに侵入を始めた。732年、カール・マルテルはフランク王国の貴族の力を結集し、フランス南部(トゥール・ポワチエ)での戦闘を制してイスラム軍を撃退した。

※4 カール・マルテル ドイツ語で"Karl Martell"、フランス語では"Charles Martel"(シャルル・マルテル)

(4) ピピン3世とカール大帝(8~9世紀)

ピピン3世の寄進註131-7

カール・マルテルの死後、その子ピピン3世が宮宰になると、751年、聖俗有力者の同意を得て、ピピンはローマ教皇に使節を送り、「国王の称号をもつ者と現実に国王の諸権利を行使するものと、どちらが王冠をいただくべきか」を問うた。ローマ教皇の答えは「実力のない者が国王であるより、真に国王たるにふさわしい能力の持ち主が国王たるべきである」、であった。この返答を得て、ピピンはゲルマン古式による即位式をあげ、大司教から塗油を受けた。無血クーデターである。これをもってメロヴィング朝は終わり、カロリング朝が始まった。

754年、ローマ教皇の要請を受けてピピンはイタリアに遠征、ランゴバルド王国を攻略してイタリア中北部を征服し、広大な土地をローマ教皇に寄進した。

カール大帝のローマ皇帝戴冠註131-8

ピピン3世のあとを継いだカール1世(仏:Charlemagne シャルルマーニュ 在位:768-814)は、毎年のように遠征を行った。南方ではイスラム勢力を押し戻し、ランゴバルド王国を滅ぼし、東方ではザクセン、バイエルン部族などを征服した。彼の時代にフランク王国の版図は最大になり、現代のフランス全土のほか、オランダ、ベルギー、スイス、ドイツ西部、イタリア北部・中部を含む西ヨーロッパのほぼ全域を掌握した。

カールはローマ教皇により「ローマ皇帝」に任命された。

{ カールの皇帝戴冠は、本格的なヨーロッパ形成の前提になっただけでなく、のちのヨーロッパ人のあいだで一般的な、自分たちの文化を最高のものと考えるヨーロッパ至上主義の遠いみなもとでもあったといえるだろう。}(鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps975-)

(5) フランク王国の分割(9世紀)

ヴェルダン条約(843年)註131-9

カール大帝が814年に死ぬと、その息子ルイ1世が、たまたま兄弟がみな死んでしまったので、ローマ皇帝・フランク王を相続した。しかし、840年にルイが死ぬと、息子3人の間で激しい相続争いが起こり、843年、王国を3分割するヴェルダン条約が結ばれた。長男のロタールが王国の中央部分、次男のルードヴィヒ2世(フランス語ではルイ2世)が東フランク、末弟のシャルル2世(ドイツ語ではカール2世)が西フランクを相続することになった。

メルセン条約(870年)註131-10

しかし、争いはこれでは収まらず、855年にロタールが死ぬと、ルードヴィヒとシャルルはロタールの子ルイからロレーヌ地方をとりあげ、ふたりで分割してしまった。これが870年のメルセン条約で、その後フランク王国が統一されることはなく、この三国がのちのドイツ、フランス、イタリアの原型になった。

図表1.18 メルセン条約後のフランク王国

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これ以降、この節では西フランク王国(のちのフランス王国)について記す。東フランク(ドイツとイタリア)については1.5節を参照。


コラム フランス人の起源

フランスではフランス人の起源は、フランク人か、ガリア人か、の論争が続いてきた。16世紀いらい貴族特権の正統性を主張するため、フランスの起源はフランク人のガリア征服にあり、貴族はそのフランク人の末裔だという理論が有力だったが、19世紀になるとガリア人起源説が有力になった。フランス革命で貴族の特権を攻撃するとき、征服者の末裔ゆえに征服権を継承した、などという主張はばかげている、と批判され、19世紀の普仏戦争の敗北によるドイツへの反感も作用してガリア人説が支配的になった。実態はフランク、ガリア、ローマが入り混じったものなのだが、ナショナリズムもからんで国家のアイデンティティにかかわる重要な働きをするのである。

(柴田三千雄「フランス史10講」,P21-P22<要約>)


1.3.1項の主要参考文献

1.3.1項の註釈

註131-1 フランク族

堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps569-

クロヴィスの在位年について、堀越氏は〔465-511〕としているが、柴田氏も鯖田氏も〔481-511〕としている。

註131-2 ガロ・ローマ人

{ ガロ・ローマの貴族 … アポリナリス・シドニウスは、「長髪の群れのあいだに座り、ゲルマン語を耳にするのを我慢し、大食漢のブルグンド人が頭髪に悪臭あるバターを塗りつけ、声高く歌うたびに、まじめな顔でほめなければならない」のはやりきれない … 「朝早くから、かれらのニンニクや玉ねぎを口にした臭気」に悩まされなければ、どんなによいだろうとも述べる。}(鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps496-)

{ ゲルマン民族国家においては、領内のローマ人あるいはローマ系住民の政治、経済、社会生活には、あまりおおきな変動はなかった。むしろ、できるだけ変動を与えないことが国家の基本方針だった。}(鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps504-)

{ 西ローマ末期の軍隊はすべて傭兵軍隊だった。傭兵の維持のための費用は重税へとはねかえっていた。ゲルマン人にとって、軍役はもっとも名誉ある仕事であり、ローマ人地主からある程度の土地をゆずり受け、生活が保障されると、無償で軍役に応じたので、軍事費が不要になった。そのかわりゲルマン人は税を払わなかった。}(同上,Ps544-)

註131-3 クロヴィスによる版図拡大

堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps583-  柴田「フランス史10講」,P9

註131-4 クロヴィスの改宗

柴田「フランス史10講」,P11  鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps572-,Ps626-

・改宗時期について、鯖田氏は496年、柴田氏は「おそらく496年」、堀越氏は「497年の翌年」としている。

・改宗の動機について、鯖田氏は「王妃が熱心なカトリック信者だった、クロヴィスがカトリックの神に戦勝を祈願したらそれが叶った」などを挙げている。「ローマ系文化人からのすすめ」は、表現方法は違うが柴田、鯖田、堀越3氏のいずれもがあげている。

註131-5 クロヴィス後

堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps642-  鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps658-

註131-6 イスラム撃退

堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps819-

註131-7 ピピン3世の寄進

堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps857-  鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps904-

註131-8 カール大帝のローマ皇帝戴冠

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps929-

{ シルウェステル伝説というのがあった。ローマ司教シルウェステルが、ローマ皇帝コンスタンティヌスから西方の聖俗両権を譲渡されたといういいつたえである。これは、9世紀中葉に成文化されたとみられる「偽イシドールス教令集」の一文書として定式化されたが、全くの偽文書である。}(堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps913-)

註131-9 ヴェルダン条約

堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps997-  鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1032-

註131-10 メルセン条約

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1038-