日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.2 中世ヨーロッパの社会 / 1.2.4 中世ヨーロッパの戦争

1.2.4 中世ヨーロッパの戦争

(1) 騎士の登場註124-1

ヨーロッパ中世の戦争の主人公は騎士である。866年、西フランク王シャルル2世(在位843-877)が、国王から直接に封土を与えられた臣下たちを軍に召集するにあたって、馬に乗って出頭するよう厳命したのが騎士のはじまりと言われている。

騎士は、甲冑(かっちゅう)をまとい、槍を持って馬にまたがった重装騎士のほかに、装備を運搬するための助手、馬丁、偵察などを担当する軽騎兵、護衛のための歩兵など、数人の従者を必要とした。

紀元1000年前後の戦争は、封建領主が行うもので、自らの所領を拡げるべく、砦一つ、水車小屋ひとつを獲得するために、数百人が限られた地域で数日だけ繰り広げるものがほとんどだった。もちろん、国王が主宰した戦争にはこれより規模の大きいものもあったが、本質は変わらなかった。

(2) 騎士道註124-2

キリスト教会にとって、騎士は異教徒からキリスト教を守る戦士であり、その勇気をたたえ、名誉を与えることは当然のことだった。それが頂点に達したのが、第1回十字軍の成功である。これを契機に、神への献身、異教徒との戦い、弱者の保護、が騎士の責務であるとの認識が広まり、それが教会儀式などによって権威づけられていった。

戦争のルールも作られた。例えば、もし降伏要求を拒否して捕虜になったような場合は殺されてもしかたなかったが、そうでない場合は捕虜の生命は保障して身代金をとることを許された。負けそうになったら、降伏して身代金を払えばよいので、戦争は少しばかり危険なスポーツであった。
しかし、14,15世紀になって騎士が戦場であまり役に立たなくなると、騎士道もしだいにすたれていった。

(3) 騎士道と武士道註124-3

騎士道と武士道は類似点もあったが、相違点も少なくなかった。類似点では、戦士・支配階層としての心構えで、勇気、名誉、誠実、弱者保護、などがあり、相違点には、キリスト教を背景にした神への崇敬に対して、儒教文化による主君への忠誠・服従などがある。また、戦争が継続して行われていた騎士道の世界では、留守を預かる女性を大事にしたり、気前のよさ、などが重視されたが、江戸時代に制定された武士道では、質素・倹約が推奨された。

(4) 中世末期の戦争

英仏百年戦争(1337-1453年)までは、前述のように規模も小さく騎士同士の戦争であったのが、国王の権力が強くなり、戦争は大規模化し戦術も変わっていった。ただ、百年戦争の初期のころはまだ騎士道は健在で、イギリス王エドワード3世がフランス王フィリップ6世に決闘を申し込んだ、という逸話註124-4が残っている。

中世の戦争はその後の近世以降と同じように、領土の征服を意図している。
近代の戦争では敵軍を殲滅する戦術がとられたが、中世末期において敵の殲滅は困難で、敵国内に橋頭堡を築く戦術や、経済資源つまり農地や建物を破壊する作戦がとられ、戦争は単なる破壊とかわるところがなかった。フランスに攻め込んだイギリス人は、フランス人から「血まみれの残虐な連中」とまで評された註124-5

(5) 傭兵(ようへい)の登場註124-6

封建制といえども、契約を越えた期間や地域での軍務はもともと俸給を支払う慣習があり、俸給により将兵を雇う下地はすでにできていた。

中世末期になって騎士による戦闘から、パイク(長槍)やクロスボウ(洋弓銃)を使った歩兵による戦闘など、戦術が多角化し、重装騎兵だけの戦闘では勝てなくなった。しかしそうした歩兵を王が集め、訓練することも容易ではない。一方、前述の14世紀の危機により没落した騎士階層や市民・農民のなかには、生活のため、あるいは一獲千金を夢見て戦争ビジネスを志す人たちは少なくなく、王や大領主に重装騎兵や歩兵を派遣する請負業者があらわれた。

イタリアの都市国家では、市民民兵隊にかわって金で雇われた軍人集団によって自衛するようになったが、本格的な戦争でこうした傭兵が使われるようになったのは、英仏百年戦争からである。15世紀になるとまずフランスで傭兵が常備兵化され、それ以外の国々も続いた。こうして傭兵による戦争は、19世紀になって国民国家が誕生し、一般国民からの徴兵が普及するまで続くことになる。


1.2.4項の主要参考文献

1.2.4項の註釈

註124-1 騎士の登場

M・ハワード「ヨーロッパ史における戦争」,P16-P17 A・バルベーロ「近世ヨーロッパ軍事史」,P5

註124-2 騎士道

Wikipedia「騎士道」 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps3043-

註124-3 騎士道と武士道

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps2881- Wikipedia「騎士道」

武士道は、江戸時代になって戦争がなくなり、戦士としての仕事がなくなった武士たちを支配するためのツールとして整備されたもので、戦国時代までは、ゲルマン戦士と同様、勝利最優先のモラルだったと思われる。

註124-4 英仏王による決闘

以下、鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps4189- からの要約引用である。

真偽のほどは保証のかぎりでないが、開戦間もない1340年、イギリス王エドワード3世は、フィリップ6世にたいして、戦争終結を目的に次の3つの方法のいずれかによってどちらが正当のフランス王であるかを決定しようと申し込んでいる。

1.二人が直接に決闘をするか、6人から8人ぐらいのグループに代闘させる

2.飢えたライオンのまえに身をさらす(無事であれば正当の国王)

3.病人にさわってみる(病気をなおせれば正当の国王)

問題の史料ではフィリップ6世が拒否したことになっている…

註124-5 中世末期の戦術

A・バルベーロ「近世ヨーロッパ軍事史」,P28-P32

註124-6 傭兵の登場

{ 11世紀と12世紀のイングランド軍の中核となったのは、直接受封者の義務的奉仕によるものだった。しかし、それが慣習上60日であったことは、軍隊を大陸で戦争させるためには不十分であった。彼らは大陸から自由契約者を雇ったり、奉仕の責任を負う者に対して現金支払いをもってその義務を変えることを許した。}(M・ハワード「ヨーロッパ史における戦争」,P29-30<要約>)

{ スイス人は長い矛槍で1315年,1339年,1386年に、オーストリア軍の鎧をたたき切った。1476年にはブルゴーニュの騎士たちを槍兵の密集隊が破った。その後、彼らは隣国の軍隊にその部隊を貸した。乏しい牧畜経済に比して多くなった人口を支えるのに、自然な方法であった。(M・ハワード「ヨーロッパ史における戦争」,P37<要約>)

{ 1282-1311年にかけてのカタルーニャ傭兵軍団の常勝の記録は、新たに発見されたクロスボウ兵の攻勢に出た時の威力が、その時代の最も強力な騎兵部隊に直面したときですら十分に発揮されたことを示している。(W・H・マクニール「戦争の世界史(上)」,P144)

{ (イタリアの都市国家では)商人や銀行家にとって、もはや自分自身がからだを張って故郷の町の防衛のため軍務につくことは時間と労力の無駄使いとしか思われず、… かつて12~13世紀にあらゆる侵入者からイタリア諸都市を防衛した市民民兵隊は、金で雇われた専門家軍人の集団にとってかわられはじめた。}(W・H・マクニール「戦争の世界史(上)」,P154)

{ 16世紀の末までに、戦争は国際的商売となったが、これらの軍隊のなかの貴族の割合は低下した。兵士は武器と装備を用意しなければならなかったから、まったくの貧乏人は除外された。しかし一度徴集されれば、社会的階層が上昇するという見込みがあった。俸給は不定だったが、病気と戦闘から生きのび、仲間に盗まれず、金を酒や賭博で失わなければ、略奪品、身代金、戦利品は、独立して自分の仕事を始めるのに必要な資本を提供した。俸給が支払われないと彼らは、周辺の農民と商人から生活の糧ばかりでなく、取れるものは何でも徴発した。}(M・ハワード「ヨーロッパ史における戦争」,P58<要約>)