日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.2 中世ヨーロッパの社会 / 1.2.1 中世ヨーロッパの国家形成

1.2 中世ヨーロッパの社会

ヨーロッパの中世は、前期(6~10世紀)、中期(11~13世紀)、後期(14・15世紀)の3つに分けられる。前期は、古代から中世への移行期であり、中期になるとローマ文明とゲルマンの伝統がキリスト教を介して統合されたヨーロッパ文明が形をあらわしてくる。後期は、飢饉、疫病、戦争の3つの災害に襲われる危機の時代であるが、専制君主を頂点とする中央集権国家体制、すなわち近代への移行が始まる時期でもあった註121-1

中世初期のヨーロッパは、当時世界トップレベルにあったオリエントや中国の文明とくらべてはるかに低いレベルであったが、中世が終る頃には世界のどの文明と比べても引けを取らないレベルにまで到達した註121-2。その後、ヨーロッパは大航海時代を経て、世界の覇権をにぎることになる。

1.2.1 中世ヨーロッパの国家形成

西ローマ帝国滅亡の前後に成立したゲルマン人の部族国家※1は、イスラムやノルマン人の侵入などを受けながら、分裂と統合を繰り返していく。中心になったのは、現在フランスがある地域に建国したフランク族のフランク王国で周辺地域を自国領土に組み込みながら巨大化していったが、9世紀に分裂して、のちのフランス、ドイツ、イタリアの国の形を作った。

※1 部族国家: 未開社会における地域集団としての部族によって形成された不完全国家。

図表1.7 中世ヨーロッパの国家形成

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(1) ゲルマン部族国家の成立(5~6世紀)

北方から移動してきたゲルマン人註121-3は部族国家を作り、ローマ文明を身につけた原住民を支配した。なかでも地理的に大きく、その後のヨーロッパの中心になったのが、フランク王国である。

 図表1.8 6世紀初頭のヨーロッパ

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(2) イスラムの台頭(7~8世紀)

7世紀初頭にアラビアのムハンマドが始めたイスラム教はあっというまにアラブ世界にひろまり、シリア、エジプト、北アフリカなど東ローマ帝国の領土を侵食した。イスラム勢力はジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に上陸し、西ゴート王国を滅ぼして、イベリア半島のほぼ全域を支配下においた。

北アフリカにイスラム帝国が成立した8世紀以降、地中海のヨーロパ側沿岸地方はイスラムの海賊に襲われるようになる。彼らは、金品の掠奪だけでなく、住民を拉致し、北アフリカで奴隷として売りさばいた。被害が特に大きかったのはシチリアなどイタリアで、フランス南部も襲われた。

(3) フランク王国の拡大と分割(8~9世紀)

フランク王国は、6世紀はじめにブルグント王国を滅ぼし、8世紀後半には東はエルベ川まで領地を拡げ、南はランゴバルド族を滅ぼしてイタリア北部までに及ぶ広大な地域を支配下においた。しかし、9世紀半ばになると、王国を王家の家産として子どもたちに世襲させるゲルマンの伝統から王国は3分割され、その後も王が死ぬたびに領土配分を巡る争いが続いて、最終的に東と西の王国に分割された。東は神聖ローマ帝国(ドイツ王国)、西はフランス王国となっていく。

 図表1.9 9世紀末のヨーロッパ

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(4) マジャール人の侵入

9世紀から10世紀にかけて、マジャール人※2はウラル山脈あたりから南西に移動し、ヨーロッパ東部に侵入した。最終的には現在のハンガリーに居住地を得たが、東フランク帝国などにも侵入した。

※2 マジャール人: 現在のハンガリー人の自称。原住地はウラル山脈からボルガ川流域地方。(コトバンク〔デジタル大辞泉〕)

(5) 神聖ローマ帝国確立(10世紀)

962年、東フランク王のオットー1世が、ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を受け、神聖ローマ帝国の皇帝となった。ローマ皇帝といっても支配したのはドイツとイタリアの一部で、ドイツ王が皇帝位を兼ねたにすぎない。なお、神聖ローマ帝国は、800年のフランク王カール大帝の戴冠を起源とする説註121-4もある。

(6) ノルマン人の侵入(9~11世紀)

ノルマン人は、北欧に住むゲルマン人で、9世紀ごろから西欧や南欧に出没して、交易や海賊を行い、ヴァイキングとして恐れられた。フランク王国に侵入したノルマン人の一部は、現在「ノルマンディー」と呼ばれる地域に住みつき、やがてイングランドの王になる。また、シチリア島とイタリア半島南部にはシチリア王国を建設した。

ノルマン人が移動してきた原因は、土地不足と北や東に進出したフランク王国からの刺激にあると考えられている註121-5

(7) イングランド統一(9~11世紀)

4世紀末から5世紀に移住してきたゲルマン人(アングロ・サクソン)は戦闘と掠奪の親族集団であり、9世紀になってようやくイングランド王国として統一された。しかし、11世紀半ばになるとフランスのノルマンディーに定着したノルマン人に征服され、以降、このノルマンの血をひく王家が現在まで続いている。

(8) 英仏の領土争いと百年戦争(12~15世紀)

政略結婚によってフランス西部に広大な領地を持ったヘンリー2世が、1154年にイングランド王に即位すると英仏間の領土争いが激しくなり、1337年に百年戦争が勃発する。ジャンヌダルクの登場に助けられてフランスが勝利(1453年)し、イングランドは大陸の領土をすべて失って、ブリテン諸島だけで国作りをすることになる。(詳細は1.3,1.4節を参照)

 図表1.10 12世紀後半のヨーロッパ

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(9) イベリア半島のレコンキスタ

8世紀初めからイスラム教徒に支配されていたイベリア半島では、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が続けられた。北部に残ったキリスト教徒の国アストゥリアス王国を足掛かりに、イスラム勢力を徐々に駆逐し、13世紀には南部のグラナダ以外を回復した。1143年にポルトガル王国が独立、1479年にはカスティーリャ王国とアラゴン王国が統合されてスペイン王国となり、1492年にはグラナダからもイスラム勢力を追い出すことに成功した。(詳細は1.6節を参照)

 図表1.11 15世紀後半のヨーロッパ

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コラム "ヨーロッパ"の語源

ヨーロッパの語源にはさまざまな説があるようだ。主神ゼウスがフェニキアの王女エウロペをクレタ島へ連れ出し3人の子供を得た、という古代ギリシャ神話から来ている、という説、セム語系のギリシャ語エレボス(闇)からでた、つまりギリシャ人からみた落日の世界、すなわち西方からきているという説、などがある。 (出典: 堀越孝一「中世ヨーロッパの歴史」,Ps51- Wikipedia「ヨーロッパ」)


1.2.1項の主要参考文献

1.2.1項の註釈

註121-1 中世の時代区分

柴田「フランス史10講」,P25・P49

註121-2 ヨーロッパの文明レベル

{ 日本は中国と、西ヨーロッパはビザンティウムと、… どちらも既存の高度に発達した隣接の複合文明社会との関係が密接だった。また、日本もヨーロッパも、… 軍事中心の傾向を示し、… 社会の全階層にゆきわたっていた。ヨーロッパ人も日本人も、そのような隣人たちから、良いと思ったものをなんでも取り入れて、しかも自分たちの誇りの気持ちや文化的個性をなくさないでいられた。… 1500年ごろまでに、中世ヨーロッパも日本も、多くの点で世界のどの文明と比べてもひけをとらぬ文化水準や文明のスタイルに到達した。}(W・H・マクニール「世界史(上)」,P396

註121-3 ゲルマン人

ゲルマン人の原住地は、スカンジナヴィア半島南部と北ドイツのバルチック海沿岸だった。彼らはしだいに、南下し、黒海周辺に移った東ゲルマン人、ガリア(現在のフランス)方面に進んだ西ゲルマン人、原住地にとどまった北ゲルマン人の3系統に分かれた。東ゲルマン系は、東・西ゴート、ヴァンダル、ブルグンド、ランゴバルドなど、西ゲルマン系は、スウェビ、フランク、アングル、サクソンなど、北ゲルマン系にはノルマンがあった。(鯖田豊之「世界の歴史9 ヨーロッパ中世」,Ps336-<要約>)

註121-4 神聖ローマ帝国の起源

{ 日本では通俗的に962年のオットー1世戴冠を神聖ローマ帝国の始まりと見なし、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している。しかしドイツの歴史学界では西暦800年のカール大帝戴冠を神聖ローマ帝国の始まりとするのが一般的である。}(Wikipedia「神聖ローマ帝国」)

註121-5 ノルマン人侵入の理由

堀越氏は次の3つを原因としてあげる。(堀越孝一「中世ヨーロッパの歴史」,Ps1123-<要約>)