日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道 第1章 / 1.1 古代ローマ / 1.1.6 ローマ人が遺したもの

1.1.6 ローマ人が遺したもの

図表1.6 ローマ人が遺したもの

ローマ人が遺したもの

(1) ローマ人の強み

東京都の10分の1にしか過ぎなかった小さな都市国家ローマ註116-1が、地中海全域を支配する巨大な帝国になり、それが西ローマ帝国滅亡まででも1200年、東ローマ帝国を含めれば2000年以上という長期にわたって持続したのはなぜなのか、まず、識者の意見をみてみよう註116-2

・ギボン; 帝国の平和と発展を支えていた軍事力の強さであり、それは強い共同体意識を持った市民の集団だった。彼らは誰であれ、その長所や美点を活用することは賢いことだと考えていた。

・塩野; 人種、民族、宗教、文化などすべてが多様であるこの帝国は、ローマ法とローマ皇帝とローマの宗教というゆるやかな輪をはめることによってまとまりを保ってきた。その寛容さも強みの要因のひとつだったし、敗軍の将も罰しなかった。

・弓削; 自分たちの国を自分たちの共同体として、私を捨てて守ろうとする市民共同体精神であり、それは土地財産を所有した農民によって育まれた。

・本村; ローマ人は語り継がれてきた「父祖の遺風」を行動規範の拠り所とした。それは絶対的なものではなく、現実にあわせて様々な解釈ができるものであった。

私はこれらを、①優れた学習能力、②多様性と国家主義、という言葉で集約したい。

①優れた学習能力

ローマ人は、ギリシャ人から優れた文化や思想と重装歩兵を学び、エトルリア人から建築などの技術、ハンニバルからは戦術を学んだ。また、「父祖の遺風」とはまさに過去の成功や失敗の体験談であり、敗軍の将を罰しないのは負け戦から学ぶためでもあった。そうした他人の経験を貪欲に学び取ることが自らの利に資することを知っていた人たちであったといえる。
「寛容」もそうして学び取った一つの手法であり、実利を基準に判断した結果として、寛容を排除しなかったのであろう。

②多様性と国家主義

食や富を求めて他の集団を侵略することが当然のように行われていた時代にあって、集団が生き残るためには強い軍事力が不可欠だった。主として血縁関係で結ばれ家父長制が成立していた部族においては、意思統一がしやすかったが、建国時点から多民族国家だったローマは、雑多な価値観を持つ人々の意志を統一することがどうしても必要だった。そのために、優秀なリーダーの選出と牽制、そして誰もが納得する集団の実利優先の判断基準、などが重要視された。

その結果として、共和政の選択、ローマ法の制定、といった制度的な対応だけでなく、私権より国家を優先することに栄誉を与える国家主義が共有されていった。また、強大な軍事力と他を圧倒する経済力や文化などが、ローマの権威を高め、それに連動して大きくなった市民権の付加価値を利用して、同盟国や属州の人々を取り込むことに成功した。

多様性は、優秀な人材を供給するとともに、優れた学習能力や問題解決能力を高めることに寄与したが、それには長い時間が必要だった。

(2) なぜローマは滅んだか?

・ギボン; { 衰退の因については、疑問の余地はない。… 繁栄が衰亡の原理を動かしはじめ、衰微の要因が征服の拡大とともにその数を増し、… みずからの重みに耐えきれず倒壊したのだ。}(ギボン「ローマ帝国衰亡史」,Ps6031-)

・塩野; 塩野氏は衰亡の要因には興味がないらしい。{ ローマの衰亡を論じた歴史書 … を集めていけば、衰亡の要因を手っ取り早く知ることも可能… しかし、たった一度の人生を他人の業績を拾い歩く作業に費やす気持ちにはどうしてもなれなかった。}(塩野「ローマ人の物語」,P223)

・弓削; 帝政期以降の問題として経済の収縮をあげている。具体的には、イタリア半島および属州の消費市場が伸び悩んだこと、戦争による奴隷の供給がなくなったことにより奴隷制農場の経営が破綻したこと、などである。(弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps3898-<要約>)

・本村; 本村氏は、人間の病死にたとえる。最も有力なのは癌による死亡説で、キリスト教の繁栄が優秀な人材を教会に吸収してしまった。次は脳卒中で、東ローマが比較的健全だったのに対して、西ローマは軍事力の増強に莫大な財政負担を強いられ、この東西の均衡が壊れたことが、動脈硬化を引き起こした。さらにカロリー不足ともいうべき人口減、経済の停滞などをあげている。その上で、「天寿をまっとうした、もしくは老衰と考えている」と述べている。(本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps4203-<要約>)

ローマ帝国が滅亡した原因は複数の因子が複雑にからみあっているはずだが、軍事力の維持・強化の要請に対して、それを支える経済力の弱体化と人々の帰属意識の希薄化の影響が大きかったと思う。ただ、それもギボンや本村氏の指摘するようにこの時代を生きた国家の寿命ともいうべきものだろう。

ローマの強みはポエニ戦争をピークとして徐々に失われていった。もし、カエサルとアウグストゥスが現れなければ、ローマは内乱をくり返しながらそのまま衰亡したかもしれない。領土維持のための財政的・人的コストは膨張する宿命をもっているが、外部からの獲得や内部での再生産はしだいに限界を迎え、軍事力も経済力も衰えるなかで、人々は国家への信頼を失っていった。それは、外部からの激しい侵入を受けた西ローマにあっては顕著であり、ついに内部分裂するしかなくなった。一方、そうした脅威が少なかった東ローマは過去の遺産を少しずつ食いつぶしながら長らえることができた。

(3) ローマ人が遺したもの

ローマ帝国が遺した事物について、ギボン「ローマ帝国衰亡史」の訳者である中倉玄喜氏が同書の解説で述べているのでそれを以下要約する註116-3

・言語; ローマ帝国の言語ラテン語は、イタリア語、フランス語、スぺイン語などの母体になっている。また、ドイツ語や英語の語彙にもラテン語が語源となった言葉が多数ある。

・文学; ヨーロッパではギリシャ語とラテン語で書かれた古典が教養の証とされてきた。またキリスト教の公用語としてラテン語は神学の研究などに用いられてきた。

・宗教; ローマ帝国が公認したキリスト教は欧米を中心に世界中に普及した。

・美術・建築; 欧米の美術や建築はローマ文化の影響を強く受けている。アメリカの国会議事堂はローマのパンテオンがモデルになっており、パリやベルリンの凱旋門もローマがその起源である。

・法律; 東ローマ帝国のユスティニアヌス帝(在位527-565年)がそれまでのローマ法を統合した「ローマ法大全」は、世界の法治国家の法制の基礎となった。

・暦; 現在世界で使われている暦はグレゴリオ暦と呼ばれるものだが、それは紀元前45年にカエサルが定めたユリウス暦を改善したものである。

・その他; 欧米でみられる各種行事、料理、ファッション、装身具、伝承医学などにも影響がみられる。


1.1.6項の主要参考文献

1.1.6項の註釈

註116-1 建国時ローマの面積

{ 前5世紀半ば以前のローマの面積はほぼ200平方キロであったという。… これは東京都の10分の1にしかすぎない。}(弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps360-)

註116-2 ローマ人の強み

ギボン「ローマ帝国衰亡史」,Ps529- 塩野「ローマ人の物語(36)」,P134,他

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps4715- 本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps1903-

註116-3 ローマ人が遺したもの

ギボン「ローマ帝国衰亡史」,Ps7643-