日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.2 中世ヨーロッパの社会 / 1.2.2 中世ヨーロッパとキリスト教

1.2.2 中世ヨーロッパとキリスト教

キリスト教は、ヨーロッパ社会の形成に大きな影響を与えた。ローマ皇帝という庇護者を失ったキリスト教聖職者たちは、ゲルマンの世俗王権に庇護を求め、世俗王権は権威と正当性を得るかわりに庇護を与えた。初めのうち両者の歯車はうまくかみあっていたが、しだいに対立するようになり、やがて権力を強化した世俗王権が主導権を握るようになっていく。

図表1.12 中世ヨーロッパの社会

Efg112.webpが表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

(1) キリスト教と王権

ビザンツ帝国やイスラム世界では政権と教権が一体化していたのにたいし、ヨーロッパでは教会の宗教権威と王の世俗権力とがそれぞれ自立した関係にあった。ローマ帝国の分裂により、キリスト教会も東西に分立したが、ローマ・カトリック教会はビザンツ皇帝の支配下にありながら皇帝の支援は期待できず、別のパトロンを捜していた。一方、ゲルマンの王たちは、絶対多数を占めるローマ系の住民や領主の支持を得るために、アリウス派から正統派に改宗して王国の支配を強化しようとした。

アリウス派とアタナシウス派

ゲルマン人の多くは、ローマ帝国で異端とされたアリウス派とよばれるキリスト教徒だったが、ローマ系の住民は正統派に認定されたアタナシウス派であった。正統派が神とキリストと聖霊は一体であるという三位一体説をとるのに対し、アリウス派は神とキリストは一体ではないとする。

クロヴィスの改宗(496年頃)

フランク王国の初代の王クロヴィス(在位481-511)は、496年頃にアタナシウス派のキリスト教に改宗し、異端からの解放という正当性を掲げて他部族の征服を進めた。

聖画像破壊令(723年)

ローマ・カトリック教会は、西ローマ帝国滅亡後はビザンツ皇帝の監督下にあった。723年、ビザンツ皇帝レオ3世は、理由は不明だが、キリストや聖人のできごとなどを描いた画像(イコン)の崇敬を禁じた聖画像破壊令を出した。

ゲルマン民族への布教には聖画像の利用が効果的だったので、ローマ教会は反対運動を展開するが、ビザンツ皇帝はローマ教会への圧力を強めたので、教会はフランク王国に支援を求めたがこのときは支援を得ることができなかった註122-1

ピピンの寄進と塗油(751,754年)

フランク王国の宮宰※1だったカロリング家のピピンは、751年にローマ教皇※2の内諾を得て王家メロヴィング家を廃して王位につき、教皇特使により塗油の儀式が行なわれた。塗油はもともと病気を癒す儀式だったが、ピピンは聖的存在の王であることを示し、以降、塗油は王に即位する際の慣例になった。

ピピンは754年、大軍を率いてアルプスを越え、ランゴバルドを破ってイタリア中北部を制し、多大な土地をローマ教皇に寄進した。こうして、フランク王とローマ教皇は手を握り合うことになった。

※1 宮宰(きゅうさい) ヨーロッパ中世初期の官職名で、王家の執事にあたる職

※2 教皇(伊:papa、英:the pope)  全カトリック教会の首長でありローマの司教。日本では従来、「法王」を使ってきたが、2019年に日本国外務省は今後は「教皇」を使うと発表した。

カール大帝(シャルルマーニュ)※3のローマ皇帝戴冠(800年)

だが、ローマ教皇がビザンツ皇帝の干渉を避けようとしたら、提携する相手は国王ではなく、皇帝でなければならない。
ピピンのあとを継いだカール大帝※3(在位768-814)は、フランク王国の領土を急速に拡大した。カールはローマ教皇レオ3世の招きに応じて800年のクリスマスにローマを訪れ、レオ3世からローマ皇帝冠を受けた。これがいわゆる神聖ローマ皇帝である。

※3 カール大帝 ドイツ語ではKarl der Grobe、フランス語ではCharlemagne(シャルルマーニュ)と呼ぶ。

(2) 3階層の社会秩序註122-2

中世中期になると、農業の生産性改善とそれに伴う商工業の発達を背景に、ヨーロッパ独自の社会秩序が形成される。それは、生活規範を管理する教会、治安を担当する領主、経済活動の主体になる民衆、という3つの要素から構成されるもので、本来は相互奉仕の対等な関係であるが、やがて階層関係になっていく。なお、司教など高位聖職者には領主やその兄弟などの血縁者が就くこともあった。

(3) 聖職叙任権闘争註122-3

教会改革運動

10世紀末、フランスのブルゴーニュにあったクリュニー修道院を起点にしてはじまった教会改革運動はローマ教皇庁にまでひろがっていった。改革運動が問題にしたのは、聖職者の結婚と聖職売買の禁止だったが、王や領主など世俗人によって任命された者も処罰の対象とされるようになった。

教皇庁は1059年、教皇は枢機卿会議により選出する、と定めた。この選挙法が現在も行われている教皇選挙の原型である。1073年、改革派のリーダーだったグレゴリウス7世が教皇に選任されると、1075年に俗人による聖職者任命を禁止した。

カノッサの屈辱(1077年)

1075年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がミラノ大司教を任命したのがことの発端だった。グレゴリウス7世はハインリヒを論難したが、ハインリヒはドイツの司教たちを集めてグレゴリウスの越権を責めた。グレゴリウスは1076年2月、破門状をハインリヒに送りつけ、ハインリヒに批判的なドイツ諸侯たちは、1077年2月までに教皇と決着をつけなければドイツ国王を解任する、とハインリヒにせまった。

ハインリヒは厳冬のアルプスを越え、北イタリアのカノッサに滞在中のグレゴリウスを訪ねて、雪の前庭に3日間立ち尽くして許しを乞い、破門を解かれた。これをカノッサの屈辱という。

ハインリヒの反撃

ハインリヒは帰国して、ドイツ国内の教会や都市勢力を結集して反撃に出た。グレゴリーは再びハインリヒを破門したが、ハインリヒは逆にドイツと北イタリアの司教をしてグレゴリーの廃位と破門を決議させ、クレメンス3世を次の教皇に選定させた。1082年、ハインリヒは大軍を率いてイタリアに遠征し、グレゴリーを追放、クレメンス3世の教皇就任を認めさせた。グレゴリーは、追放された地で1085年死去した。

ウォルムスの協約(1122年)

1122年、教皇側と皇帝側の妥協が成立し、ウォルムスの協約が締結された。協約では、叙任と授封が分離され、宗教的権威者としての高位聖職者の任命権は教皇に属し、封建領主としての司教、修道院長に対する上級領主権のみ、国王に属するということになった。依然として皇帝や国王の司教任命に対する影響力は残ったが、皇帝が自由に教皇の地位を左右することはなくなった。

(4) 十字軍註122-4

十字軍の始まり(1096年)

十字軍が始まったのは、当時イスラム世界で勢力を伸ばしていたセルジューク・トルコに危機を感じたビザンツ皇帝アレクシオス1世(在位1081-1118)が、ローマ教皇ウルバヌス2世(在位1088-99)に支援を要請したのがきっかけだった。ウルバヌスはこの戦いは異教徒に対する聖戦だ、として王や諸侯に十字軍の派遣を呼びかけた。十字軍にヨーロッパ人が熱狂したのは、聖戦という宗教的熱狂だけでなく、それぞれの思惑があった。ローマ教皇は、これを機に東西両教会を統一して主導権をにぎろうと考え、王や諸侯は戦利品や領土獲得を期待し、商人たちは東方貿易を牛耳ろうとした。つまり、十字軍はヨーロッパ世界の拡大という性格も帯びていたのである。

十字軍の結果

十字軍は主なものが9回(鯖田、堀越氏ともに7回とカウント)あるが、第1回目で目的のエルサレムを確保するも、それ以降は敗北続きで、エルサレムも最後にはイスラム側に奪われて終わる。このほかに庶民や少年だけの十字軍もあった。

図表1.13 主な十字軍

Efg113.webpが表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

(出典) Wikipedia「十字軍」をもとに編集。十字軍は7~8回とする説もある。

※ 「主宰/参加者」欄の○印はとりまとめ者。

十字軍がもたらしたもの

一般的には次のような影響があったといわれている。

{ 十字軍をきっかけにしてヨーロッパ人の優越意識が高まった。農業革命などによる経済発展が著しかったことに加えて、十字軍を「聖戦」として異教徒の存在を否定したことにより、自分たちが優越的立場にいることを認識させた。それは、十字軍以降、異教徒ユダヤ人への迫害が強まったり、同じキリスト教徒の異端に対する弾圧が強まっていくことにつながった。}(鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps3320-<要約>)

(5) 教皇権の凋落註122-5

{ カノッサ事件が法王権上昇の前奏曲だとすれば、アナーニ事件は法王権下降の転機だった。法王権の後退はもはや動かしがたいものになった。}(鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps3655-)

十字軍が始まるときに絶頂期を迎えていた教皇の権威は、十字軍の終わりとともに色あせていた。アナーニ事件以降の一連の事件は、教皇権の凋落を見せつけるものとなった。

アナーニ事件(1303年)

フランス王フィリップ4世(在位1285-1314)とローマ教皇ボニファティウス8世(在位1294-1303)は、聖職者への課税や教会所領をめぐる問題で対立し、1302年、ボニファティウスは「国王といえども教皇に従属する」という教皇勅書を発した。同年、フィリップはフランス全土から聖・俗の封建領主及び市民の代表者をパリのノートルダム寺院に集めた。これが三部会※4の始まりである。三部会はフィリップを支持し、教皇を非難した。

フィリップの側近は1303年、ローマ近郊のアナーニに滞在していたボニファティウスを捕らえ、教皇勅書の撤回と退位を迫った。ボニファティウスはローマからの援軍に救助されたが、1ケ月ほどして急死した。

※4 三部会 フランスの中世末から絶対王権確立期までの身分制議会。聖職者・貴族・平民の三身分の代表者から構成される。国王の諮問機関的存在である。

アヴィニョンの捕囚(1309-1377年)

ボニファティウスの死後、ローマ教会内部ではフランス派の勢力が伸び、次の教皇に選ばれたクレメンス5世(在位1305-14)は、フィリップ4世の意向をうけて1309年アヴィニョンに居を定めた。以降1377年まで教皇はローマには戻れず、アヴィニョン※5で過ごすことになる。

※5 アヴィニョン フランス南東部、ローヌ川沿いにある都市。童謡「アヴィニョンの橋の上で」で知られる。

教会大分裂時代(1378-1417年)

1377年、教皇グレゴリー11世(在位1370-78)がローマに帰還し、アヴィニョン捕囚は終わったが、翌年、グレゴリーが死ぬとローマの貴族とフランス出身の枢機卿が激しく対立し、それぞれが自派の教皇を立てる状態がしばらく続いた。

コンスタンツ公会議(1414-18年)

分裂に終止符を打ったのは、1414年からドイツのコンスタンツ※6で開催された公会議である。ここで新たな教皇としてローマの貴族出身のマルティヌス5世を選出し、分裂状態は終了した。しかし、公会議に出席した聖職者たちは、それぞれの国王の意を受けた国家代表のようであり、教皇の権威は地に落ちた。

※6 コンスタンツ ドイツ南部、スイスとの国境の街でファンタスティック街道の基点である。


1.2.2項の主要参考文献

1.2.2項の註釈

註122-1 フランク王への提案

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps883-

{ 【ローマ教皇グレゴリー3世は】739年、アングロ・サクソン修道士で、カール・マルテルと知り合いの聖ボニファティウスを仲介に、カロリング家との交渉を進めた。そして、法王庁をランゴバルドの圧迫から守ってくれるなら、フランク国王をローマ教会の保護者にしようと申し出た。… 結果は無残な失敗だった。}(鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps898-)

註122-2 ヨーロッパ地域世界の秩序観念

{ フランスで9世紀後半に生まれたとされる秩序観念は、人間を3つの職分に区分している。… それによると、「神の家」は祈り、労働、戦いの3機能からなっており、それが地上では聖職者、農民、騎士によってそれぞれ担われる。… 王、聖職者、騎士は「働く者」(農民)に保護を与え、そのかわりに労働の奉仕をうける相互奉仕の関係とされている。この社会図式は農村社会を基本として、新興の都市社会を視野に入れていない。また、初めは必ずしも不平等関係ではない3機能が、やがて階層関係となり、働く者が劣等な3番目に位置づけられるなどの時代的変化がある。…
秩序観念は社会から排除されるべき存在を必ず伴うが、それにはユダヤ人と異端があてられた。}(柴田「フランス史10講」,P26)

註122-3 聖職叙任権闘争

教会改革運動; 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1956-

カノッサの屈辱; 堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps1808-

ハインリヒの反撃; 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps2038-

ウォルムスの協約; 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps2102- 、 堀越「中世ヨーロッパの歴史」,Ps1831-

註122-4 十字軍

十字軍のはじまり; 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps3241-

十字軍の結果; Wikipedia「十字軍」

十字軍がもたらしたもの; Wikipedia「十字軍」、鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps3442-

註122-5 教皇権の凋落

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps3617-

{ 法王がいかに努力しようと、普遍教会主義から国家教会主義への移行は動かしがたい事実だった。}(同上,Ps3798-)

{ もし教皇君主国が実現していたら、中国と同じではないが似たような体制になっていたかもしれない。}(W・H・マクニール「戦争の世界史(上)」,P148<要約>) という見方もあるが、体制のかたちは似ていても、キリスト教と儒教の違いは、国の性格をだいぶ違うものにしたであろう。