日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道 第1章 / 1.1 古代ローマ / 1.1.5 ローマ帝国の終焉

1.1.5 ローマ帝国の終焉

 図表1.4(再掲) ローマ帝国の衰亡とその後

ローマ帝国の衰亡とその後

(1) 皇帝乱立の時代

「3世紀の危機」のはじまり註115-1

五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウスが後継者に指名した息子コンモドゥス(在位180-192)は、放蕩と乱行をくり返し、側近たちによって暗殺された。コンモドゥス暗殺後の帝位争いを制したセウェルス(在位193-211)は、北アフリカ出身で親衛隊の再編、軍事力増強、税収増対策などを行った。セウェルス病死後、即位したのは長男カラカラ(在位209-217)である。カラカラは税収増を狙って帝国内に住む全自由人にローマ市民権を与えた。彼は即位にあたって弟のゲタを殺していたので、弟を支援していた政敵から身を守るために大規模な粛清を行った。しかし、217年親衛隊長マクリヌスによって暗殺された。

軍人皇帝の時代註115-2

この後の皇帝は、カラカラを暗殺したマクリヌス、同性愛者のエラガバルス、母にかつがれた少年アレクサンデル、と続く。そして、235年から284年までの間は属州の軍団が独自に皇帝を擁立し、複数の皇帝が並び立つことが頻発する「軍人皇帝の時代」とよばれる時代になる。この間になんと26人もの皇帝が登場している。

(2) 専制君主政へ

軍人皇帝の時代に終止符を打ったのは、一兵卒から出世し、兵士たちの推薦で皇帝になったディオクレティアヌス(在位284-305)だった。彼は帝国を東西にわけ、それぞれに正帝と副帝をおいて分割統治するようにした。軍事力の増強と官僚制の整備を進める一方でそれらを進めるための財源を確保するため増税を行った註115-3

さらに、ディオクレティアヌスはローマ伝統宗教の復興をめざす。自身が最高神ユピテルの子になり、その威光の前に臣下を跪かせ、国民に忠誠心と祖国愛をはぐくませたかったのだろう。ローマ伝統の神々への礼拝が義務付けられ、違反する者は罰せられた。キリスト教徒にはこれを拒否し処刑されて殉教する者が続出した。{ 迫害は帝国の東半分で激しく、棄教者も多く出たが、殉教者の数もこれまでに類をみないほどで、いくらやってもきりのない賽の河原のような仕事に、政府も根負けして目的を達しないうちに、いつしか迫害の手をゆるめていった。}(弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps4492-)

アウグストゥスの帝政開始以降、形式的には皇帝は元老院の意向を考慮しながら政治を行う「国家元首」だったが、神の威光を背景にした支配を進めようとしたディオクレティアヌス帝以降、元老院の存在意義はほとんどなくなり、専制君主制の時代になったとされている註115-4

デイオクレティアヌス帝は、4人の後継者を決めた上で退任し、311年天寿をまっとうする。

(3) キリスト教の公認

コンスタンティヌス帝

ディオクレティアヌスが決めた体制は、西の正帝コンスタンティウス・クロヌスが306年に病死すると、あっけなく崩れ、再び帝位争いが起こる。それを勝ち抜いてローマ帝国全体の実権を握ったのは、コンスタンティウス・クロヌスの息子コンタンティヌスだった。

キリスト教公認

コンスタンティヌスは313年、東の正帝リキニウスと連名で、いわゆる「ミラノ勅令」を出し、キリスト教をローマ公認の宗教とした註115-5

なぜ、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したか、については、数多の主張がある。例えば、塩野氏は「王権神授説に基づき、王の権威の正統性を確立するため」、弓削氏は「コンスタンティヌスの信仰への依存、すなわち、むかしからの神への供犠と恩恵との等価交換的な思想は、キリスト教でも本質は同じだと誤解したこと」、ギボンや本村氏は「キリスト教勢力の拡大」をあげている註115-6

おそらく、公認の理由は一つではなく、複数あるだろう。そのなかで最大の理由は、キリスト教勢力が無視できないほど拡大していたことではないだろうか。

キリスト教の国教化註115-7

コンスタンティヌス帝の公認後、コンスタンティヌスの甥であるユリアヌス帝(在位361-363)は、キリスト教への優遇策を廃止し、古来の神々への祭儀を復活させようとした。だが、テオドシウス帝(在位379-395)は、キリスト教の擁護に熱意をかたむけ、392年に異教祭儀を禁止してしまう。これは事実上、キリスト教を国教としたことになる。

コンスタンティヌスの凱旋門

コンスタンティヌス帝の凱旋門。315年、コンスタンティヌス帝の戦勝を記念して建造された。ローマ最大の凱旋門。ローマ市内、コロッセウムの近くにある。

(4) キリスト教はなぜ拡大したか?註115-8

初期(2世紀末まで)のキリスト教徒の多くは大都市に住む下層のユダヤ人やギリシャ人であった。3世紀になるとキリスト教徒はすさまじい勢いで増加し、居住区や階層、民族を越えて広がっていった。その理由として、本村氏は次の3点をあげる。

①主の犠牲により救済されるという物語の親和性; 犠牲とそれに対する神の恩恵という古代人の思想は、シマウマがライオンに襲われた時、1頭が捕まって食われると、残ったシマウマたちは安心して草を食む、という感覚と共通するものがあった。2世紀末になると、ローマの平和は乱れ、民衆は神に救いを求めるしかなかった。そのような民衆にとって神の子イエスの死によって人類が救われるという教えは、神々の許しを乞うために生贄をささげるという古代人の常識に受け入れやすいものだった。

②抑圧された人々の怨念; キリスト教が、貧しい人たちこそ救われるべきだ、と説いているのは、虐げられている人たちにとって、富裕者への恨みや妬みを晴らす希望をあたえるものだった。

③心の豊かさを求める禁欲意識; 多神教の神々は人々の心の内まで覗きこむことはないが、一神教であるキリスト教は、人間の内なる世界に入り込み、人間の禁欲や心の豊かさを求める。それは、混乱と不安の時代において人々の心をいやす精神的土壌として、上流階級を含めて受け入れやすい教義であった。

(5) コンスタンティノープル遷都註115-9

コンスタンティヌスは、330年新しい首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を建設し、帝国の重心を東に移した。遷都の理由について、ギボンは、ペルシャ帝国への牽制、天然の要害としてあるいは交易拠点としての地理的条件、などをあげている。

(6) ローマ帝国の終焉とその後

ゲルマン民族大移動

375年、フン族※1がヴォルガ川を渡ったことがきっかけになって、約6万人の西ゴート族がドナウ川を渡ってローマ領内(現在のブルガリア南東部、トルコのヨーロッパ地域など)に入る。迎え撃つローマ軍は武将も兵士も蛮人で構成されている状況であり、ローマ軍は敗退し、西ゴート族がローマ領内に定住することを認めざるをえなかった註115-10

※1 フン族; 4世紀から6世紀にかけて中央アジア、コーカサス、東アジアに住んでいた遊牧民。(Wikipedia「フン族」)

西ゴート族はその後、イタリア半島に移動し、410年ローマ市内で暴れまわったあと、イベリア半島に西ゴート王国をつくる。452年には大移動のきっかけを作ったフン族がライン川を越えてガリアに侵入して掠奪を行う。

ゲルマン民族はその後もローマ帝国内に侵入を続ける。

{ ゲルマン人の移動は、掠奪や殺戮を伴うこともあるが、ローマ人の管理下に農耕や軍役を奉仕する条件で帝国内に入植を許される、という平和的なケースも少なくなかった。だが、5世紀になると、部族の長をいただくゲルマン人国家が、その組織のまま移住してきて、… 帝国防衛の同盟軍として駐屯する場合が多かった。}(柴田三千雄「フランス史10講」,P8)

 図表1.5 ゲルマン民族の大移動

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出典)本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps4147、塩野「ローマ人の物語」,P30より作成

ローマ帝国東西に分裂

379年、東ローマ皇帝にテオドシウス1世が即位し、ローマ帝国全域を掌握する。しかし、395年にテオドシウス帝が死去すると、ローマ帝国は息子二人に分割継承されるが、これ以降、東西が統一されることはなかった。

西ローマ帝国滅亡

476年夏、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが、少年のロムルス・アウグストゥルス帝を退位させ、自らイタリア王を名乗った。これをもって西ローマ帝国は滅亡した。

西ローマ帝国のその後

侵入してきたゲルマン諸部族は、帝国内に独自の王国を建設するようになり、これら王国が離合集散を繰り返しながら、現代のヨーロッパ諸国を形成していく。

東ローマ帝国のその後

東ローマ帝国は首都をコンスタンティノープルにおき、15世紀まで継続する。国名は公式には「ローマ帝国」であるが、中世以降は「ビザンツ帝国」とよばれるようになる。
7世紀にマホメッドがイスラム教を始めると、その領土はしだいにイスラム教徒に奪われていき、1453年、オスマン帝国に滅ぼされる。


1.1.5項の主要参考文献

1.1.5項の註釈

註115-1 「3世紀の危機」のはじまり

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps3395-

註15-2 軍人皇帝の時代

北村暁夫「イタリア史10講」,Ps362-

註115-3 デイオクレティアヌス帝

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps3706-

註115-4 元首政と専制君主政

{ デイオクレティアヌス帝以前まで、皇帝は、少なくとも形式上では、ローマ市民の筆頭者たる「国家元首」としての存在でした。この国家元首が元老院の意向をあおぎながら国政を担当するという建前だったのです。それにたいしかれ以降は、皇帝がみずからを絶対君主とみなすようになりました。(ギボン「ローマ帝国衰亡史」(訳者註釈)、Ps2914-)

{ 【コンスタンティヌスとディオクレティアヌス】の努力によって、ローマ帝国はまったく新しい出発をする。これ以後は、後期ローマ帝国とも呼ばれ、このときにおかれた基礎は、東ローマ(ビザンツ)帝国では、千数百年の歴史によって受け継がれ、西ローマ帝国では約150年で帝国が倒れたのちにおいても、西ヨーロッパに受け継がれてゆくのである。)(弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps4514-)

註115-5 ミラノ勅令

{ 勅令の趣旨は、大迫書【←害?】中に国家に没収された教会財産の返還を命じたものであるが、その理由として、天にいます神格がわれわれに恩恵を与えてくれるためには、キリスト教も他の宗教も自由に行われることが必要だ、という。そして、この返還措置をとるなら、最高の神格は国家に幸福をもたらすだろうと、という願望で勅令は閉じられている。}(弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps4611-)

註115-6 キリスト教を公認した理由

塩野「ローマ人の物語(37)」,P128-P129 弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps4621-

ギボン「ローマ帝国衰亡史」,Ps3678- 本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps3787-

註115-7 キリスト教の国教化

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps3922-

註115-8 なぜキリスト教は拡大したか?

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps3787-

註115-9 コンスタンティノープル遷都の理由

ギボン「ローマ帝国衰亡史」,Ps3514-

註115-10 西ゴート族侵入

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps4715-