日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.1 古代ローマ / 1.1.3 帝政の確立

1.1.3 帝政の確立

(1) カエサルと三頭政治

ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)は、ローマの名門貴族の出身であったが、経済的にはつましい家であった。前100年に生まれ、若いころは"プレイボーイ"でならしたが、30歳になったころから、財務官、按察官、法務官などを経験し、前61年にはヒスパニア(イベリア半島)属州の総督にもなった註113-1

三頭政治註113-2

前60年、ローマに戻ってきたカエサルは、大富豪でカエサルの債権者であるクラッススと元老院に不満を持っていたポンペイウスの2人を説得して、3人が協力しあう密約を結び、カエサルは娘ユリアをポンペイウスに嫁がせた。これを三頭政治という。まず、前59年の執政官選挙でカエサルが選出される。

カエサルは、ポンペイウスの退役兵に土地を分配し、ポンペイウスの東方処理を承認する法案と、3人以上の子供をもつ2万人にイタリアに残っていた唯一の公有地といえるカプア(ナポリの北)付近の肥沃な土地を割り当てる法案を成立させて、民衆を喜ばせた註113-3

(2) ガリア戦役(前58年-前51年)

前58年、カエサルはガリア総督の地位を得る。ガリアにはたくさんの部族がバラバラに住んでおり、ローマの軍事力が及ばない地域だった。カエサルは、ローマに従わない部族を次々と撃破し、さらに北方に住むゲルマン人、現在のイギリスに住むブリタニア人などを討伐していった。この戦争の犠牲者がどれほどかはわからないが、前近代の征服戦争のなかでも最大規模の被害をもたらした註113-4。カエサルはこの戦役のもようを自ら記録し、元老院に報告していた。その記録は現在でも「ガリア戦記」として残されており、簡潔で無駄のない卓越した表現力は現代人からも高く評価されている。以下、ゲルマン人を描いた部分を抜粋する。

{ スェービー族はゲルマーニー人全部の中で最も大きくて好戦的である。 … スェービー族の間では、個別の私有地がなく、居住の目的で一箇所に1年以上とどまることも許されない。穀物を余りとらず、主として乳と家畜で生活し、多く狩猟にたずさわっている。 … 最も寒い地方でも獣皮以外の衣類は身につけず、獣皮も余りないので体の大部分は裸であり、河で水浴する風習があった。}(カエサル著近山金次訳「ガリア戦記」,P139-P140)

ガリア戦役は、カエサル自身の名誉と利得のための戦争であったが註113-5、他方で、地中海の古典文化がヨーロッパ内陸部に伝えられ、のちの西ヨーロッパ文化形成の端緒となるものでもあった註113-6

(3) 反カエサル派との争い

三頭政治の崩壊(前50年-前49年)註113-7

ガリアを平定したカエサルは前50年、北イタリアに戻ったが、元老院保守派は強大になったカエサルへの妬みと恐れから反カエサルの気運が高まっていた。この時点で、ポンペイウスの妻だったカエサルの娘ユリアは死亡、クラッススは戦死しており、三頭政治は崩壊していた。元老院はポンペイウスを担ぎ出して反カエサルの中心人物にまつり上げ、前49年1月「軍の統率権を放棄して帰国せよ」という元老院最終勧告をつきつけた。

北イタリアを流れるルビコン川の内側はローマ本土で、外征した武将たちはここで武装解除するのが慣例であり、軍隊を率いたままでこの川を越えるのは国法に違反する行為だった。カエサルは、「賽は投げられた!」と言い切って軍を率いたままルビコン川を渡り南下した。対するポンペイウスは兵士の召集に手間どり、元老院議員ともどもギリシャに逃れたので、カエサルは難なくイタリア半島を制圧した。

反カエサル派の掃蕩(前48年-前45年)註113-8

ポンペイウスとの決戦は前48年夏、ギリシャ北方のファルサロスで行われた。兵力ではポンペイウス軍にかなわなかったが、戦術と兵士の意欲で優るカエサル軍が勝利をおさめ、ポンペイウスはエジプトに逃れるが、ローマの内紛に巻き込まれることを怖れたエジプト人に殺害されてしまう。

カエサルはエジプトでクレオパトラとの休日を楽しんだあと、小アジアに遠征し、「来た、見た、勝った(veni vidi vici)」の名文句で元老院に報告した。その後も、北アフリカ、イベリア半島で元老院保守派の残党を討伐し、前45年にローマに戻った。

(4) カエサルの改革註113-9

カエサルが行った主な改革には次のようなものがある。

・大規模な植民事業; 首都の無産市民に土地を分配し植民として送り出す事業を大規模に行った。その結果、穀物の無料配布を受けていた無産者が32万人から15万人に減った。

・市民権の授与; ポー川以北、アルプス以南の北イタリアの住民に市民権を与えた。

・ユリウス暦の採用; それまで使われていた大陰暦にかわって太陽暦を採用した。7月のJulyはユリウス、8月Augustは、アウグストゥスに由来している。

・その他; 元老院議員を900人に増員、属州の再編と徴税機関設置、フォロ・ロマーノ(ローマ中心部)の再開発、…

(5) カエサル暗殺註113-10

前44年2月、カエサルは終身独裁官に任命された。みずから王と名乗ることはなかったが、かつての王政期の王衣を着るようになっており、共和政を擁護する元老院議員たちの反感は煮えたぎっていた。同年3月15日、元老院議場で暗殺者たちの剣がふりおろされ、23カ所を刺されたカエサルは息絶えた。

{ カエサルみずからが世界帝国の樹立をもくろんでいたかどうか、それを確信する術はない。だが、はてしない覇権への野望をもやし、ときには残酷に、ときには寛容にふるまう男だったことは心にとめておこう。「カエサルは殺されるべくして殺された」というのは的を得た言葉である。}(本村「地中海世界とローマ帝国」、Ps2581-)

(6) 後継者アウグストゥス註113-11

カエサルが遺言状で後継者に指名した註113-12のは、カエサルの姉の孫オクタヴィアヌスだった。カエサルが殺されたとき、オクタヴィアヌスは19歳、ギリシャに遊学していた。ローマに帰国すると事態収拾の主導権をめぐって、カエサルの右腕だったアントニウスとオクタヴィアヌスは激しく対立する。カエサルの死の翌年、前43年にオクタヴィアヌスは市民の圧倒的支持により執政官に選ばれる。そして、アントニウスとカエサルの副官レピドゥスを加えて、国家再建3人委員会を組織した。これが、世にいう第2回三頭政治であり、目的はカエサルを殺した元老院派の粛清だった。かつてスッラが行ったのと同じように徹底した粛清を行い、元老院派を壊滅させた。

(7) アントニウス討伐註113-13

ギリシャで元老院派のブルートゥスの軍を破ったアントニウスは、エジプトが元老院派を支援したことの弁明を求めてクレオパトラをキリキア(トルコ南部)に呼び寄せた。クレオパトラはその美貌を武器にアントニウスを誘惑し、2人は世紀の恋に落ちる。ローマではこのようなアントニウスを非難する声が高まり、ついに前31年、クレオパトラへの宣戦が決議された。オクタヴィアヌスとアントニウス・クレオパトラ連合軍はギリシャ北西岸のアクティウムで戦ったが、クレオパトラが途中で戦線を離脱、アントニウスもその後を追ったため、ローマ軍の勝利で終わった。前30年、クレオパトラとアントニウスは自殺した。

(8) 共和政をよそおう帝政註113-14

アントニウス討伐により、ローマの内乱は終わった。オクタヴィアヌスは、ローマの共和政は変更せずに、実質的な「皇帝」といえる次のような権力を手に入れた。

第一は、属州の管轄権である。オクタヴィアヌスは属州を再編し、豊かで安全な属州は元老院の管轄とし、ぶっそうな国境地帯の属州は自分の直轄とした。常備軍のほとんどはオクタヴィアヌス直轄の属州にいたから、実質的には軍の総司令官としての統帥権を持つことになる。

第二は、護民官職権と執政官職権をその職に就任することなく、その権限を行使できるようにした。

前23年、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ、ローマ市民の第一人者(プリンケプス)として、表向きは共和政を尊重しながら、実質的な帝政を確立していった。

(9) 臨終のことば註113-15

アウグストゥスは76歳の長寿をまっとうして息をひきとる前に次のように語ったという。
「わたしは粘土のローマを受け取り、大理石のローマをおまえたちに残す」
「この人生という喜劇で私は自分の役を上手に演じたと思わないか。… この芝居がお気に召したら拍手喝采を」
そしてすべての側近を遠ざけ、妻リウィアの両腕に抱かれながら、「リウィアよ、われわれの共に過ごした日々を忘れずに生きておくれ、さようなら」、と言って息をひきとった。

パンテオン

ローマ市内にあるパンテオン。ローマの様々な神々を奉った神殿で、前25年アウグストゥスの軍事的な片腕だったアグリッパが建設したといわれている。のちに火事で焼失し、128年にハドリアヌス帝によって再建されたものが現在まで残っている。


1.1.3項の主要参考文献

1.1.3項の註釈

註113-1 カエサルの出自

塩野「ローマ人の物語(8)」,P27・P167

註113-2 三頭政治

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2376-

註113-3 カエサルが成立させた法案

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps1426-

註113-4 ガリア戦役の被害者数

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2419-

註113-5 ガリア戦役の動機

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2400-

註113-6 ガリア戦役がもたらしたもの

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps1440-

註113-7 三頭政治の崩壊

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2446-

註113-8 反カエサル派の掃蕩

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2515-

註113-9 カエサルの改革

塩野「ローマ人の物語(3)」,P115-P190 弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps1597-

註113-10 カエサル暗殺

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2564-

註113-11 後継者アウグストゥス

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps1719- 塩野「ローマ人の物語(13)」,P76・P113・P117

註113-12 カエサルの慧眼

{ 【オクタヴィアヌスは】 私人としては寛容で温厚な人物だったが、公人としては無情で冷酷な支配者だった。この別人2人が同居する人格をひょっとしてカエサルはみぬいていたのかもしれない。… この為政者に求められる二重人格のような資質はカエサルにはたのもしかったにちがいない。}(本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2731-)

註11-13 アントニウス討伐

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps1734-

註113-14 共和政をよそおう帝政

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps1818- 本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2692-

註113-15 臨終のことば

弓削「ローマ帝国とキリスト教」,Ps1795- 本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2796-