日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.1 古代ローマ / 1.1.2 地中海の覇者へ

1.1.2 地中海の覇者へ

(1) ポエニ戦争註112-1

ポエニとは、ラテン語でフェニキア人を意味し、ローマとフェニキア人の国カルタゴとの戦争をポエニ戦争とよぶ。フェニキア人は海上交易を生業とする民族で、地中海沿岸に植民市を建設した。カルタゴはそのうちの一つで現在のチュニジアの首都チュニスに本拠があり、当時の地中海世界においてローマと並ぶ大国であった。

第一次ポエニ戦争(前264-前241)

前264年当時、シチリア島の東半分はギリシャ人の都市シラクサ、西半分はカルタゴ領だった。シチリア島東北端にあるギリシャ人植民市メッサナ(現メッシナ)はマメルティニと呼ばれる傭兵(ようへい)団が占拠していた。彼らは、もともとシラクサに雇われていたが用済み後も居座っていたため、シラクサは討伐軍をさしむけた。これに対してマメルティニはローマとカルタゴの両方に援軍を求めた。この時点ですでにカルタゴはマメルティニ支援に向けて動き出しており、ローマが動けばカルタゴとの戦争になることは明らかであったが、ローマは開戦を決定する。

この戦争はローマがこれまで経験したことがない海戦になった。初戦はローマが開発した兵器を使って勝利を収めたが、以降はカルタゴ有利のまま推移する。ローマはカルタゴの軍船をモデルに大艦隊を建造し、シチリアに送る物資を満載したカルタゴの船団を攻撃して壊滅させた。ここで両国は講和を結び、カルタゴはローマに賠償金を支払い、シチリア島を放棄した。

第2次ポエニ戦争(前219-前201)

第一次戦争でカルタゴの指揮官だったハミルカルは、その息子ハンニバルを連れて、前235年、イベリア半島に渡る。目的はイベリア半島の金鉱・銀鉱を開発してカルタゴの国力を回復し、ローマへの恨みを晴らすことだった。ハミルカルの死後、ハンニバルは父の遺志をついで立ち上がる。前218年春、イベリア半島を北上し、名高いアルプス越えをして、イタリア半島北部に達する。待ちかまえていたローマ軍を撃破し、その後もローマ軍を破りながらイタリア半島を南下して、前216年カンナエ(カンネ)※1の戦いでは9万のローマ軍を壊滅させた。ハンニバルはイタリア半島のローマ同盟諸国がローマから離反することを狙っていたが、離反したのはごくわずかしかなく、ローマ側もこれ以降大規模な戦闘を挑まなくなったため、膠着状態になる。

ローマを救ったのは26歳の青年スキピオだった。スキピオはまず、イベリア半島にいたカルタゴ軍を制圧した後、前205年いったんローマにもどり、その後北アフリカにわたる。そして、前202年、本国からの命令で帰国したハンニバルと、カルタゴ郊外ザマで決戦を迎えた。カンナエの戦いに参戦し、ハンニバルの戦い方を研究していたスキピオの戦術がハンニバルに勝り註112-2、ローマ軍の圧勝で終わった。カルタゴは、多額の賠償金と領土の割譲、他国との交戦禁止、など過酷な条件で講和するしかなかった。

※1 カンナエ(カンネ); 半島南東部、カカトの上部、アドリア海側にあった村

第3次ポエニ戦争(前149-前146)

ローマの元老院にはカルタゴ撃滅論が強かった。カルタゴが北アフリカのヌミディア王国の挑発にのって開戦したとき、ローマはここぞとばかりにカルタゴに宣戦し大軍が派遣された。ローマはカルタゴに海岸から内陸への立ち退きを要求し、これに反発して籠城したカルタゴと4年にわたって籠城戦が行われたが、カルタゴは敗れた。カルタゴ市民は殺されるか奴隷にされ、市街地はさら地になるまで破壊しつくされた。ここにカルタゴは完全に滅亡し、ローマの属州となった。

(2) マケドニア・ギリシャの征服

ポエニ戦争と併行して、マケドニアおよびギリシャとの間でも戦争が行われた。最初のきっかけは、マケドニアがカルタゴと同盟を結んでローマに対抗したことであったが、前200年から前148年まで断続的に行われた戦争により、ローマはマケドニアとアテネなどのギリシャ都市国家を征服し、属州とした。

 図表1.3 ローマの版図

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出典)塩野七生「「ローマ人の物語」スペシャル・ガイドブック」および「図解 世界史」(成美堂) より編集

(3) 内乱の時代註112-3

ポエニ戦争やマケドニア戦争の勝利により、ローマは多額の賠償金や大量の奴隷、そして広大な領土を手に入れたが、その果実を手にしたのは貴族や騎士などの富裕者層だった。一方で、出征した一般農民は長期間にわたって農地を離れることによって貧窮化し、農地を手放さざるをえなくなった者が多かった。それはローマ軍の強さの源泉だった重装歩兵の供給源を断つことでもあった。格差の拡大は富裕層と下層民との対立を激化させ、富裕層側にたつ元老院派と民衆派に分かれて対立を深めていった。

グラックス兄弟の改革註112-4

ティベリウス・センプロニウス・グラックスと弟のガイウスは、平民出身の貴族であるが、ポエニ戦争でハンニバルを破ったスキピオの娘を母とする兄弟であり、ローマの国力充実のためには、自営農民を復活させることが必要だと考えた。

前133年、護民官に選ばれた兄のティベリウスは、大土地所有者から土地を回収して無産農民に分配する土地改革法を成立させた。これに怒った元老院の大土地所有者たちは、ティベリウスを襲って撲殺してしまう。

その10年後の前123年、弟のガイウスは護民官に選ばれ、穀物を安価に入手できる制度、属州総督の不正を審理する陪審院から元老院議員を排除する法案、などを提示した。これらは元老院の強い反発をかい、ガイウスは追いつめられて自殺するしかなくなった。

平民執政官マリウス註112-5

ローマ南方の田舎町出身のマリウスは軍人としてのめざましい活躍により護民官に就任し、さらに前107年には執政官に就任する。マリウスが最初に行ったのは軍制改革だった。慢性の兵力不足を解消するため、それまでの徴兵制をやめ志願制を導入したのである。志願制により、兵力不足の解消と同時に無産市民の就職先を提供することができたが、兵士たちは給与や退職後の土地分配をしてくれる武将に忠節を尽くすことになり、武将による私兵化が進むことにつながった。

独裁者スッラ註112-6

前88年、元老院派のスッラが執政官に選ばれた。その直後、スッラとマリウスの間でいさかいが起こり、スッラはいったんローマを離れるが、子飼いの兵士たちを集めてローマに攻め入り、マリウス一派を追い出す。スッラは、独裁官に就任してマリウス派(民衆派)を容赦なく処罰した。また、元老院を中心にした体制に戻すために、元老院の定員を300人から600人に増員し、護民官の権利を縮減するなどした。

ポンペイウス註112-7

前70年に執政官になったのは、クラッススとポンペイウスだった。クラッススはスッラによる粛正に乗じて莫大な財産を築き、ローマ市街の大半はクラッススの持ち物といわれるくらいの大富豪になっていた。
一方、ポンペイウスはイベリア半島での反乱軍の鎮圧や奴隷の反乱鎮圧などで武将としての名声を獲得していた。執政官になったポンペイウスは東地中海に跋扈していた海賊を征伐し、続いて小アジア(現在のトルコ)やシリアも制圧して、前63年、地中海東部はローマの覇権下にはいる。


1.1.2項の主要参考文献

1.1.2項の註釈

註112-1 ポエニ戦争

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps1272-
ポエニ戦争が行われた理由はつぎのようのものであった。

{ 土地に根ざす農民は保守的で、外地の征服に乗り出すにはかなりの動機がいる。民衆がすすんで故国から出ていく気になることはない。 … カルタゴのような商人軍国主義は税収奪を強化し、ますます傭兵に依存する。それによって重商主義ばりに進出しようとする。それに匹敵する外征への動機があるとすれば、農民軍国主義の社会では、その指導者層が軍事的名誉への渇望をいだくことにある。武勲に代表される名誉や権威はローマ人の間ではよくよく衆目を集めるものであった。ここにも共和政ファシズム国家をなすローマ人らしさがあるのではないだろうか。} (本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps1289-)

なお、ローマ軍が徴兵制であるのに対して、カルタゴ軍は傭兵による軍隊であった。

註112-2 スキピオ対ハンニバル

{ ハンニバル軍がカンナエでとった奇襲作戦が、そっくりそのままスキピオ軍によって再演されたことになる。 … おそらく若きスキピオはあの悲惨なカンナエの激闘に参戦していたのだろう。そこでさんざん辛苦をなめていたにちがいない。ハンニバルの戦術はいやでもスキピオの脳裏に刻み込まれていたのだ。若き敗残者は練達な勝利者の戦術をとことん研究していたのである。} 本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps1747-)

註112-3 内乱の時代

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps1972-

註112-4 グラックス兄弟の改革

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps1985-

註112-5 平民執政官マリウス

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2098-

註112-6 独裁者スッラ

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2157-

註112-7 ポンペイウス

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps2322-