日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.1 古代ローマ / 1.1.1 建国、共和政ローマへ

pizza第1章 古代・中世のヨーロッパ

1.1 古代ローマ

ヨーロッパ文明の源流はギリシャ・ローマ文明にある、といわれており、第1部「近代世界の歩み」は古代ギリシャ文明の影響を強く受けた古代ローマ帝国の歴史から始めたい。まずは、ローマの建国(前8世紀)から、地中海世界を制覇(前1世紀)するまでの共和政ローマとはどんな仕組みだったのか、をみていく。

 図表1.1 古代ローマ帝国略年表

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1.1.1 建国、共和政ローマへ

(1) ローマ建国

伝承によれば、前753年、軍神マルスの子であるロムルスとレムスが、現在もローマ市内にある7つの丘に都市国家※1を建国した註111-1、とされる。ローマという名はロムルスに由来している。

本村凌二氏は、実態を次のように推測する。

{ 前8世紀ごろ、ローマの周辺にはいくつかのラテン人部族が散在していた。そこからはみ出た若者たちが、どこからともなく集まって群れをなすようになった。やがてその集団は少数の有能なリーダを中心にしてまとまり、ローマの7つの丘に定住するようになった。}(本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps901-<要約>)

伝説によれば、ローマはローマ人とサビニ人の協同統治の国だったが、付近にはエトルリア人とよばれる民族が都市国家を形成しており、新興のローマにも入り込んでいった。彼らの出自はわかっていないが、技術力とりわけ建築技術が優れており註111-2、それらはローマに受け継がれていった。いずれにせよ、ローマが多民族国家として発足したことは間違いないだろう。

※1 都市国家; 都市それ自体が政治的に独立し一個の国家を形成しているもの。(広辞苑)

(2) 王政から共和政へ

ローマは当初、王政をしいていた。といっても世襲ではなく、市民集会によって選ばれ、貴族で構成される元老院の助言を受けた。5代目、6代目の王はエトルリア人で、ローマの発展に尽くしたが、7代目は傲慢で横暴な男だった。圧政にたまりかねたローマ市民はこの王を追い出してしまう。前6世紀末、王政を憎んだローマ人は共和政を選択した。王に代わって軍事と政治を指導したのは、任期1年の2人の執政官(コンスル)で、市民集会と元老院はそのまま継続した。

執政官をはじめとする公職や神官職は貴族層に独占され、中小の自営農民や市民たちの不満が高まった。市民の要求にこたえるため、護民官の設置や貴族だけが共有していた慣習法の公開(12表法)、平民の執政官への就任、市民集会の権限強化、など註111-3が行われた。しかし、こうした対策の恩恵を受けたのは、平民といっても裕福な大地主たちであり、貴族と平民上層による支配が進んでいく。

(3) ガリア人来襲註111-4

ガリア人は、現在のフランスを中心に住んでいた人々でその一部は早い段階からイタリア北西部に定住していた。前390年の夏、彼らは突然ローマを襲い、7ケ月にわたって、掠奪、暴行のかぎりをつくした。結局、ローマ人は多額の身代金を払って、お引き取り願った。この事件はローマ人の胸に忌まわしい記録として刻まれるが、同時に復興と発展への大きなエネルギー源となった。

(4) イタリア半島の統一

ローマは前4世紀後半になると支配地域の拡大に乗りだす。
王政時代から、ローマは近隣のラテン民族の都市国家や部族とラテン同盟を締結していた。ローマの力が強大になっていくことに反発したラテン同盟とローマの間でラテン戦争(前340-前338)註111-5が起こり、勝利したローマはラテン同盟を解消し、ローマによる支配を確立した。

ついでローマは半島中部の山岳民族サムニウム及び北部のエルトリア人とサムニウム戦争(前343-前290)註111-6を行い、苦戦しながらも勝利を収めて、イタリア半島の北部・中部を支配下においた。

残った南部は、ギリシャ人による植民都市が支配していた。その中心地タラス(現ターラント)は、半島のカカトの内側のつけ根にある町で、ローマはここを攻めたが、タラスはギリシャ北部の王国エピロスの王、ピュロスに支援を求めた。ローマ軍は戦術の天才として名高かったピュロスに苦しめられたが、ピュロスの気まぐれに助けられて、ギリシャに追い返すことに成功した註111-7。前272年タラスは陥落し、ローマはイタリア半島の統一を達成する註111-8

(5) ローマの市民権と征服地の支配

この頃までにローマが征服した地は同盟国として、ローマ市民と同じ市民権が与えられる場合、一部が与えられる場合、まったく与えられない場合、などがあったが、いずれの場合も軍事協力が義務づけられた。また、征服地のなかで戦略上重要と考えられた地域には「コローニア」(植民地)が建設され、ローマ市民団が入植した。そこに住む人たちにはローマ市民権が認められ、その地域を守るために軍務に就くことが要求された。

塩野氏によればローマの市民権とは次のようなものである註111-9。対象者は自由民の成人男性で、女性や子供、奴隷には認められていない。

[権利]

[義務]

(6) 共和政註111-10

ローマの共和政は現代人が想像するような民主政体ではなく、「寡頭政」と呼ばれる貴族や上層市民による少数指導体制であり、民政と軍政が一体化していた。本村氏は、前2世紀半ばのローマは、国家主義、軍国主義が共和政と結びついており、その意味で「共和政ファシズム」とよぶような状態だった註111-11、という。

 図表1.2 ローマの共和政

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注)塩野「ローマ人の物語(2)」,P97をもとに作成。政務官の名称は一般的と思われる名称に変更した。(財務官←会計検査官、監察官←財務官)

[元老院] 名望家や過去に要職を務めた者などで構成され、建前上は執政官の諮問機関だったが、事実上の統治機関であった。貴族階級から選ばれることが多かったが、平民からなることもできた。
ローマ人は自分たちの国家を、S.P.Q.R.(Senatus Populusque Romanus セナートゥス・ポプルス・クェ・ロマーヌス) と呼ぶ。これは「元老院とローマの市民」という意味で、現在のローマでもあちこちに見られる。

[ケントゥリア民会] 「ケントゥリア」とは、ローマ軍における「百人隊」、すなわち百人で構成される部隊を意味した。投票はひとり1票ではなく、この「百人隊」ごとに1票を投じた。平民にも参政権はあるが、現代のように平等な権利ではなく、資産に応じた身分制秩序が存在している社会だった。

[執政官(コンスル)
共和政ローマ最高位の官職で、内政の最高責任者であると同時に、軍司令官も兼ねていた。任期は1年、定員は2名で政策の実施は2名の合意が必要とされた。戦時中の場合、一人が軍務を担当し、もう一人が内政を担当した。

[独裁官(ディクタトール)
国家の非常事態に執政官によって任命され、政体を変えること以外のあらゆることに絶対的な決定権をもっていた。任期は半年で定員は1名。

[法務官(プラエトル)
内政・軍事で執政官につぐ権力をもち、平時は司法を担当。

[財務官(クワエストル)
国家財政を担当。戦場では軍団会計を担当する。

[監察官(ケンソル)
5年に一度の国政調査を担当。元老院議員などの風紀取り締まりも担当。

[按察官(エディリス)
公共施設の造営・管理、祭儀の管理、食糧管理など。

[護民官(トリブーヌス・プレビス)
平民の権利を守ることが任務で執政官などが決めたことへの拒否権を持っていたが、平民と貴族との橋渡し的な役割も担った。任期は1年、定員は当初2人だったが10人に増員された。任官できるのは平民出身者に限られ、平民だけで構成される「プレブス民会」と呼ばれる民会で選出された。

(7) 軍制註111-12

下記は、マリウスの軍制改革(前107~)以前のものであるが、それ以降も大枠は変わらない。マリウスの軍制改革では、徴兵制から志願制に変えられた。

徴募

ローマ市民権所有者の17歳から60歳までの全男子は兵役該当者で、45歳までは現役、46歳以上は予備役とされた。毎年冬になると執政官などの選挙とあわせて次年度の兵役を担当する地区が抽選で決められ、その地区から必要とされる兵士が選ばれた。

軍団の構成

ローマの軍団(レギオー)は、10個の大隊(コホルス)で構成され、1個大隊は3個の中隊(マニプルス)、1個中隊は2個の小隊(ケントゥリア=百人隊)からなっていた。1小隊の定員は100人だが、定員割れすることが多く、1軍団は騎兵2~300人を含めて5000人前後だった。これに同数かやや多い同盟国の補助兵を加えて、1軍団全体では1万人前後になった。2人の執政官の指揮下にはそれぞれ2軍団ずつ配備された。

武装

初期のローマ軍の武装はすべて兵士の自己負担だったため、資産に応じて武装が決まっていた。前3世紀になると軍装を統一するために国から支給されるようになったが、費用は日当から差し引かれた。
5段階にわかれた資産クラスのうち上位3クラスは重装歩兵、下位2クラスは軽装歩兵として武装内容が決められていた。資産クラスにより若干の違いはあるが、重装歩兵の装備は、かぶと、楯、すね当て、剣と槍、であり、軽装歩兵は、剣と投げ槍、楯などであった。

行軍・食糧など

ローマ軍は司令官が毎年変わることもあって、軍の行動基準やルールはマニュアル化されていた。例えば、行軍速度は次のように決められていた。

これを40kgにもなる武器や食糧を担いで行軍するというから、かなりハードである。
食糧は、15日ごとに1日1kgの割合で支給された。うち800gほどは乾パンで油脂(ラード)やチーズのほか、肉や野菜も適宜支給された。
また、ローマ軍は兵站(武器や食糧などの補給)を重視し、街道を整備したのもそのためでもあった

街道の整備

ローマと同盟国や植民地との間の情報交換や軍の派遣を効率的に行うために、主要拠点を結ぶ街道が整備された。「すべての道はローマに通じる」といわれるローマの街道整備は、ローマの支配にとって重要なインフラだったのである。

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ローマ初の街道であるアッピア街道とマイルストーン(里程石)


1.1.1項の主要参考文献

1.1.1項の註釈

註111-1 ロムルスとレムスによる建国

塩野七生氏が語る建国伝説。

{ トロイの王の血をひく王女に一目惚れした軍神マルスが王女と愛をかわした結果、生まれた双子がロムルスとレムスだった。2人を生んだ王女は叔父に幽閉され、2人は狼に育てられた。成長するにつれて、2人は羊飼いのボスになり、しだいに勢力をひろげた。アルバという国の王に勝ち、ローマの丘の周辺に建国、2人で分割統治をはじめた。しかし、2人の間に争いが起こり、ロムルスはレムスを殺した。} (塩野「ローマ人の物語(1)」,P31-P35<要約>)

北村暁夫氏は、歴史学者らしい。

{ ローマは、イタリキの一集団であるラテン人が定住したことに起源を持つと考えられる。当初は農業と牧畜を中心とする小集落であった。前753年にロムルスによって建国されたとする伝承はよく知られるが、この時期に政治的に統一された共同体が存在していたことを示す証拠はない。ただ、ある時期から都市化が進み、王政が成立したことは確かである。} (北村暁夫「イタリア史10講」,Ps165)

註111-2 エトルリア人

本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps917-

註111-3 共和政の改革(前494年-前287年)

前494年 護民官設置; 平民から選ばれ、平民の意見を国政に反映させることが目的。定員2人。護民官には拒否権が与えられた。(塩野「ローマ人の物語(1)」.P36-P37<要約>)

前449年 12表法; それまで、法律はあったが貴族のあいだで語り伝えられるものに過ぎなかった。これを誰でもが共有できるように成文化しようと、ギリシャに人を派遣して研究させた。成文化した12ケ条がフォロ・ロマーノ(ローマの政治中心部)に掲出されたが、内容は以前とまったく変わらず、不評だった。(同上.P41-P43<要約>)

前367年 リキニウス法; ローマのすべての要職を平民出身者にも開放した。執政官の選挙の結果、2人とも平民出身者になる場合も、貴族出身者になる場合もあることになった。(同上.P83-P84<要約>)

前287年 ホルテンシウス法; 平民会の決議が法と同等の効力を持つとされ、…平民会が主要な立法機関となった。(北村「イタリア史10講」.Ps186)

註111-4 ガリア人来襲

塩野「ローマ人の物語(2)」,P61-P67

註111-5 ラテン戦争

ラテン戦争(ラティウム戦争)と称される戦争は、前498年-前493年の第1次と、前340年-前338年の第2次の2度ある。(Wikipedia「ラティウム戦争」)

註111-6 サムニウム戦争

サムニウム戦争と称される戦争は、第1次(前343年-前341年)、第2次(前326年―前304年)、第3次(前298年-前290年の3回行われた。第1次でローマはサムニウム人に勝利しカンパニア地方(ナポリのある地域)を支配下においたが、第2次ではエトルリア人と組んだサムニウム人に苦戦し、かろうじて和議を結ぶ、この時の戦闘に学んだローマは第3次でサムニウム人をくだし、その後エルトリアもローマに従属した。(Wikipedia「サムニウム戦争」)

註111-7 ピュロス戦争

ピュロス戦争(前280年-前275年)の初期は、ピュロス軍がローマ軍に勝利したものの、ピュロス軍も自軍の損害が大きく、ピュロスをして「もう一度ローマに勝利したら、我々は壊滅するだろう」という有名な言葉を残している。(Wikipedia「ピュロス戦争」)

註111-8 ローマのイタリア半島統一

ローマのイタリア半島統一は、南部のタラス(タ―ラント)が陥落した前272年をもってするのが一般的(本村氏も前272年)のようだが、塩野七生氏は前270年前後をその年とし、北村暁夫氏は、前270年代初め、としている。

註111-9 市民権とは…

塩野「ローマ人の物語(2)」,P136-P138

註111-10 共和政

塩野「ローマ人の物語(2)」,P93-P114

註111-11 共和政ファシズム

{ 巷では好戦的な民衆の熱気がぷんぷん感じられたにちがいない。このような雰囲気をあえて「共和政ファシズム」とよぶことにしよう。… 近代ファシズムはすぐに独裁政と結びついたが、… ローマ人はあらんかぎり独裁政を嫌悪した。… ローマ人の国家は「共和政ファシズム」として姿を見せたと言ってもいい。}(本村「地中海世界とローマ帝国」,Ps1248-)

註111-12 軍制

塩野「ローマ人の物語(3)」,P32・P127-P151  Wikipedia「ローマ軍団」,「ローマ軍」